第一夜 上
これは、現代日本のとある地方を舞台にした怪奇BLホラー作品です。
ごく一般的な探偵事務所である、白樺探偵事務所に舞い込む仕事の中に稀によくあるような程度で紛れ込む複雑怪奇な案件を探偵、白椛春洋と助手の百合咲宗が体当たりで解決していく、一話完結型物語の第一話になります。これから、どうぞよしなに。
※追記、第一話を上中下に分割しました。
〈――じりぃぃん、じりぃぃん、じりぃぃん〉
昨今、最早骨董品となってしまった黒電話。それがこの探偵事務所では、いまだ現役で仕事をしている。
煌々と光るブルーライトを浴びながら液晶を眺めていた青年が、慣れた様子で徐ろに丁度三コール目で受話器を取った。
「はい、こちらは白樺探偵事務所。ご要件は何でしょうか?」
梅雨が明けて茹だるような夏を迎え始めたような、そんな日の事である。
受話器から訥々と語られる依頼内容を、事務員である百合咲宗はメモを取りながら相槌を打ち、最後に、「では、事務所にてお待ちしております。お気を付けてお越しくださいね」
と締めてプツリと通話を終えた。
しかし、切れた後一定の間隔でツーツーと鳴っていた音が、不自然にブッと雑音が入り途切れた。あァ、遂に寿命を迎えてお釈迦になったか、と常に無いような異変を感じたので、受話器を戻さずにいた百合がそんな事を考えていると、
〈-・-・・ ・--- ・--・ -・-- -- 〉
受話器から三回ほど繰り返して信号音が流れたのである。その予想外の挙動に面食らいながらも百合は、まだ手元にあったメモ帳に急いで書きつけると、今度こそ不可思議なことが起きない事を確認し、受話器を戻した。
身構えていたからこそ出来たことではあった、しかし、目頭を抑えた後に隠しきれない気疲れが、彼の深い深い溜息となって吐き出される。おざなりに先程まで書き留めていたメモを眺めて物思いにふけっていると、バイクの駆動音が事務所に近づいて来ていることに気がついた。それが近くで止まったかと思えば、そのままガレージを開ける音がする。
どうやら、この探偵事務所の主たる白椛春洋の御帰還である。
「よお、戻ったぞ」
一軒家を改装して営業しているこの事務所のガレージにある勝手口の扉をガチャリと開ける音とともに、そんな声が聞こえてくる。
「お疲れ様。……水分補給はしろよ」
と、目線はそのままに彼はそう返した。
「おう。――で留守番はちゃんと出来たか?」
「ハッ、誰に聞いてんだ? 俺は真面目で良い子ちゃんだからな。電話対応だって完璧なんだぜ?」
「そうか」
帰って来たばかりの白椛は首肯を一つするとのっしのっしと熊のように歩き、事務所の冷蔵庫を開ける。ペットボトルのお茶を取り出して、そのまま豪快に飲み始めた。それを横目で見ていた百合は、デスクに置いてあった塩飴を取り出すと「オイ」と声を掛けてから、彼に投げつける。危なげなく片手で塩飴を受け取った白椛は一言だけ「あぶねえだろ」と窘めた。
「何、オッサンが熱中症で倒れられても困るからなァ。図体もでけェし、運ぶのも一苦労だろ」
そんな、にやにやとした顔と子憎たらしい口調にどこか可愛げを感じ取った白椛は、百合の言動にため息をつき、そして飴玉を口にしてガリガリと砕きはじめる。
「ア! 行儀の悪いことしてんじゃねェ!!」
白椛は、首に巻いたタオルで滝のように出ていた汗を拭きながら、「うるせえよ」とぼやいた。
「……それで? 俺が外仕事をしている間に、依頼の話でも来たのか?」
百合はふふふと笑ってから、「なんだ、気づいてたのか」と前置きして、
「あァ、オッサンが不貞野郎の尾行で、ひーこらしている間にきたぜ。詳しい内容は事務所で直接話したいらしいが、人探しを頼みたいんだと」
「人探しな、わかった」
「次の木曜の午後、相談に来るってよ」
「おー。……ああそうだ。浮気調査については今日で一通り証拠も揃ったんで、後は纏めて依頼人に報告で仕舞いだ」
そう言って、彼はごそごそとウエストポーチから記録媒体の入った巾着袋を手渡してきた。
「了解。期日までには報告書作っとく」
「任せた」
そうやって、データを受け取った百合はなんてことの無いように話を変えた。
「ア、そうそう。……あの黒電話、やっぱり曰く付きみたいだぜ」
「ん? アレはもともとの入手経路からしても曰く付きだろう。……なんかあったのか?」
「今回の電話の通話が切れた後。おそらく、モールス信号だと思われる音が勝手に流れてきた、繰り返しで三回ほど」
「はぁ~、そうか、そうか。なにかあるとは思っちゃいたが、まあ、いい。それだけか?」
「マァ、そうだ。で、気になって片手間で解読してみたんだが、ただ、ひとこと……」
「ひとこと?」
百合はそう勿体ぶらずとも良いかと思い、素直に答える。
「きをつけよ、になった」
それに白椛は、眉間に寄せていた皺をいくらか緩ませ、器用に片眉だけ上げてみせた。
「なんだ、精細な情報とは言えないが、そう物騒な文言でもなかったか」
「大事な主語がねェから、どうにも分からねェがな?」
百合はそう言い終えると、白椛と顔を見合わせてから肩を竦める。この黒電話は事務所の開業祝いに、以前からの二人の知り合いである、曰く付きの物ばかり収集している店の名物店主から贈られた物品だった。二人とも難色を示したが、押し切られる形で導入したものである。その骨董品は裏に印字されている製造年数から想像される姿よりもかなり見目が良く、黒塗りの外観は艶々で金属部分にも錆が浮いていない。綺麗なのは良いことではあるが些か不自然さを拭いきれない一品であった。曲者店主には不服ながら多大なる恩があるとは感じている白椛は、渋面を作りながらも固定電話を引いた日を今でも覚えている程である。
「――致命的な不具合でもなし、取り敢えず様子見するか」
「そうか? 春さんがそう言うなら、分かった」
二人が二人とも本当になんともいえない顔でそう示し合った。それから、意識を切り替えた百合は電話口での相談内容の仔細を白椛へと報告すると、顎を撫でさすりながら「なるほどな? 分かった」と返してきた。
「あァ、分かったなら何よりだ。ほら、外仕事もして来て疲れただろ? さっさと休憩に入れよ」
「悪いな」
「そう思ってんなら、もっと自分の身体大事にしとけ」
◇
件の木曜日。その日の天気模様は予報から大きく外れて生憎のゲリラ豪雨であった。バシバシと雨が強く地面を叩きつけている窓の外を眺めながら、事務所で待機していた二人は依頼人が無事に辿り着けるのかと心配をしていた。すると、薄ぼんやり見える道の先からタクシーのヘッドライトが光っており、事務所に向かっている事が窓から確認できた。どうやら、依頼人は白樺探偵事務所まで来れたようだと安心していると、ブー、と来客用出入口のインターホンが鳴る。
「――ごめんください、予約していた川澄です」
「はい、探偵の白椛です。今日は足元の悪い中御足労頂いてすみません。今、鍵を開けましたので、どうぞ、あがってください」
百合は白椛がモニター越しの会話をしているその間、そっと玄関まで行き、来客用のスリッパと、手に取りやすいところに清潔なタオルを用意する。
そこへ、カラカラカラと引き戸を開けて、二十代前半だろう依頼人の女性、川澄氏が入って来た。彼はふっと穏やかな笑顔を浮かべて、「こんにちは、ようこそおいでくださいました」と至って好青年然とした風体で出迎えた。傘の露払いで気を取られていた彼女がそれに気付いて、あ、と一言漏らした後「どうも」と頷いた。
「はい、鞄など濡れているようでしたら、そちらのタオルを使ってください」
「――ありがとうございます。えっと遠慮なく使わせていただきますね」
川澄氏は自身の革製のハンドバッグを徐ろに拭いて、使用したタオルを百合に少し逡巡した後、手渡した。彼は、そのまま何のてらいもなく受け取り、
「では、応接室に案内します。……段差にはお気をつけて」
と、部屋まで先導するのだった。
応接室の中央にはガラス製の長机があり、それを挟んだ形でアイボリー色の布地で出来たソファが置かれている。白椛は部屋に依頼人の女性が入ってきた事を確認すると、一つ頷いてから立ち上がり、席を掌で示して座るように促した。
「では、あらためまして、私が弊探偵事務所で探偵をしている白椛と申します。それと先程案内した彼はうちの助手の百合です。さて、本日はまず困りごとのご相談とのことで」
「……それが、その」
依頼人が俯いて、暫し悩んだ様子をみせた。そこに百合が、湯呑みと急須のセットを御茶菓子と一緒に運ぶ。そっとテーブルの上に置き、「よろしければ、どうぞ。……温かい緑茶ですが」と言って瑠璃色が美しい陶磁器製の急須で緑茶を淹れて差し出した後、白椛の隣に当然のように座った。川澄氏は茶托の上に置かれた湯呑みに視線を向けて頷いた後、ぽそぽそと相談内容を話しだす。
「――すみません。ホントは電話口で話したことと違うんです。人探し、じゃないんです。まるきりウソでもないんですけど」
白椛は女性に威圧感を与えず、変に焦らせないようにと気を使いながら、言葉を選んで「……と、言いますと?」と続きを促した。
「その、……ストーカー。されてるみたいで」
すみません、と口に出して彼女は湯呑みを手にとりお茶を一口飲んでから、話しを続ける。
「――はじめは、そこまで違和感を覚えていなかったんですが。今年の春からでしょうか、何だろう視線?のようなものを家の近くを歩いていたりすると感じる様になってしまって」
「視線、ですか」
「はい。それだけなら、私も気のせいかもと思ってたんですが。その、自分趣味でハンドメイドをしているんです。完成品をフリマサイトなんかで販売したりもするので副業でもあるんですが……。それで、完成した作品とか作成途中の作品の写真を投稿するハンドメイド用のSNSのアカウントがあって、そこについた一つのアカウントからのコメントが目に付いたんです。『今日買ったあの生地なら、スカートなんてどうだろう?』て。その日はあくまで手芸屋さんで買い物した報告はしてても、何を買ったかまでは書いてなかったのにアレ? って思ってですね。相互フォローもしていないし、身内や親しい友人達にもこのアカウントは教えていないしで、おかしいな、て。そしたらですね、どんどんエスカレートしていくんです。そのSNSのコメントに『今日の服はスカートの裾の刺繍が素敵だった!』とか、『そのピーコックカラーな毛糸すてきだね! マフラーとか良いんじゃないかな』とか、公開していない情報を含んだようなコメントが頻回につくようになっちゃってて……」
「それで、ストーカーをされているかもしれないと?」
「……はい。最近だと趣味の手芸の事だけじゃなくて家の中の事まで言ってくるようになってて、私一人暮らしなのに。家に招くような親しい人達ならLINEとかで済ませるので、わざわざこんな形で連絡して来ない筈なんです」
あの、と依頼人は続け、鞄から手帳を取り出し、本人が特に気になったというコメント達のスクリーンショットを印刷した物を白椛へ渡す。探偵は、彼女に視線で許可を取り、隣に座っていた助手と一緒に手渡された紙に目を通す。
「警察に相談するにも誰だかわかんないといけないんですよね?……。開示請求って言っても、言ってしまえばコメントに酷い言葉は使われていないから難しそうだし……。それで、探偵さんなら誰なのかって調べて貰えるんじゃないかって思って」
彼女は最後にそう言って俯くのだった。資料をフゥン? といった感じで百合は見ていたが、確かに直に面識もない相手、それも特段SNS上でも仲が良い訳でもないアカウント相手からのコメントだとすると、あからさまにお前のことを知っているぞといった自我が強く、違和感と言えば良いのか、少し気味の悪いものを感じた。白椛も同様の違和感を覚えたのか、ふむ、と顎に手をあてる。
「ウチとしては、ストーカー被害に遭われた方向けの証拠集めも確かに仕事として請け負ってます」
「はい」
「ただ、……その気を悪くされてしまうかもしれませんがね。ネットでのコメントは妄言で、ただの空言が川澄さんの現状に偶然にも即してただけかもしれませんし、実生活での不審な視線、というのももしかしたら危惧した通りただの勘違いかもしれません」
依頼人の女性は白椛の言葉に段々と顔色が悪くなっていき、相槌もか細いものとなっていってしまう。しかし、白椛は真剣な眼差しで「なので」と続けた。
「我々が調べてみても空振りで終わってしまうかもしれません。すみません、そうであっても、料金というのは発生してしまうもので。――しかし、川澄さんがストーカーされているのではないかという不安を払拭されたい、というのなら、ウチとしても全力でお手伝いさせていただきたい」
「……えっ」
それまで俯いていた依頼人が、顔を上げてまじまじと探偵の顔を見つめる。白椛はそれに頭を少し下げると「脅かしてしまったようですみません」と言った。
「今回の件についてウチとして出来ることなんですが、本当にストーカーに遭われているのかどうかの調査と、遭ってしまっていた場合には警察へ相談出来るように証拠を集めることの二点になると思います」
「はい」
「それでも、ウチで依頼されますか?」
依頼人の女性は逡巡したその先でそれでもと覚悟が決まったのか、意を決したような顔で、
「お願いします」
と頭を深く下げ、そう言った。
「はァ〜、ストーカー事案だったとはなァ」
一先ず、依頼主と綿密な相談と日取り、懸念事項の説明を済ませて彼女の見送りまでした後、百合はそう呟いた。片付けと資料をまとめながら熟考していた白椛は「――今回の件、咲宗はどう思った?」と聞いてくる。
「ン〜?まァ、依頼人の女性の幻覚、妄想、被害認知の暴走のセンは薄そうだなァとは思ったぜ?」
「そうか、俺も同意見だ」
「そりゃ、私生活のことまで仄めかされてるんなら、盗聴を疑うのもムリはねェし。電話口での詳細な相談は避けたい気持ちは分かる」
自前のスマホで何やら操作をしながら百合はそう続けた。それに気にした様子もなく白椛は、ぬるくなったお茶を啜っていたが、百合が頭を捻りながらスマホを睨み付けていることに気がつく。
「フゥン?」
「――どうした?」
「いや? 依頼人の件のアカウントを探して見てたんだが……」
そう言って、気になったことが上手く言語化出来ないのか百合は口ごもる。その後、徐ろに立ち上がると、仕事用のラップトップを取り出して、事務用の椅子にどっかりと座り直す。そうして、メガネをかけ直して、何やら調べ始めるのだった。
「咲宗、わかったことの裏取りと、まとめが終わったらちゃんと報告しろよ」
「わかってる、オッサンもさっさとやることやって休憩しろ」
「馬鹿言え。休憩に入る時はお前も一緒だ。根を詰め過ぎんなよ」
「……うるせェ」
手をひらと振り、白椛は外仕事の準備をする為に奥の部屋へ向かった。
雨は未だ止みそうになく、その激しさは一層強まっていった。
◇
相談を受けた日から打って変わって、からりと晴れた酷暑日の事。じわじわと体力を吸われそうな澄み切った青空の下、探偵とその助手はエアコンをガンガンに効かせた車を走らせていた。百合の運転で依頼人の家へ向かう中古の小型のバンは、分かりやすく事業用の車といった風情で、後ろには申し訳程度の清掃道具を積んでいる。運転手は、信号待ちの時間でトントントンと一定のリズムでハンドルを人差し指で叩いていたが、不意に助手席に向かって「依頼人の家は一戸建ての借家だったよな?」
と聞けば、紙の資料をみていた白椛は、ややあってから口を開いた。
「――ああ、そうだ。親戚の紹介で人里離れてる分安く借り上げられたから、虫干しも兼ねて住んでいるとは聞いちゃいたが……。住所もこの先で合ってる筈だ」
「……地図で確認した時にも薄々感じちゃいたがなァ。なんつーか若い女性の一人暮らしにしちゃ治安も悪くねェ田舎とはいえ、あそこまで辺鄙な場所は少し危ねェような……」
「まあ、気持ちは分かるが。お前なら大丈夫だとは思うが、依頼人には変に杞憂するなよ」
「わかってる、少し気になっただけさ。や、長閑なとこじゃあるがなァ。自家用車がねェと住みにくい街だがその中でも、とりわけ、あの辺はなァ」
百合がそうぼやいている内に、信号が変わったので、彼は車を発進させたのだった。
行路は谷間の山道を上がっていくようになっていく。その道沿いには川が流れ、川べりに沿って紫陽花が植えられており、白色、薄桃色、紫色、そして、青色と咲ほころんでいた。谷間の道に入ってから程なくして、ぽつりぽつりと点在していた民家の中の一軒の近くでカーナビが案内を停止した。百合は、幅を寄せ路駐して、「そこで待ってろ」と言い残して、一旦車から降りる。そして、そそくさと玄関まで行き、玄関ブザーを鳴らした。家の中から微かに「はーい」と声が聞こえる。玄関の扉前まで住人が来たことを確認すると百合は、大きくは無いがはっきりとしたよく通る声で
「ごめんください。〈ハウスクリーニングに来ました〉」
と、言った。それに、住人は、あ、と声を少しだしたがすぐに、「お待ちしてました」と言って玄関扉を開ける。開けた瞬間に、依頼人の女性は百合の顔が目に入ったのか、不安そうな顔から一転、幾分安心した様な顔に変わった。
「ああ、ハウスクリーニングの依頼をされた川澄さん? ですよね。その道の前で一旦車をとめさせてもらっているので、敷地内に停めさせて貰ってもよろしいでしょうか?」
「え? ああ! 大丈夫ですよ。私の車の隣に停めてもらって構いません」
「ありがとうございます、すぐ停めてきますね」
「はい」
百合は依頼人にそう断ってから車に戻ると、「家は合ってたみたいだな」と白椛に声をかけられて「ああ」とだけ返して、すぐに敷地内に入ってピンクと茶色の軽自動車の隣に横並びで駐車した。そして、清掃道具とその他諸々を持ち出して、今度は白椛を伴って依頼人宅へとあらためて向かったのだった。
「では、本日はハウスクリーニングを依頼していただきありがとうございます。私と彼の二人であたらせて貰いますが、お宅の案内をお願いしても?」
「はい、大丈夫です。えっと、お二人にはどこからみてもらおうかな……」
庭付きの古民家で、いかにも田舎の一軒家なその家は、そこそこ広く部屋数もそれなりにありそうではあるが、それでもマメに掃除をしているのか、玄関先から見ても生活感はあれど、さして汚れてもいるようには見えない。だからか、うろうろと目線を彷徨わせて、うーん、と女性は言い淀んでしまう。
それに、白椛は助け舟を出す。
「ああ、それなら。まずは玄関掃除からさせてもらいますわ。それで、良いですかね?」
「――あ、はい! 大丈夫です。わかりました! ……じゃあ、私。そこのリビングで作業しているので。何かあったらよろしくお願いします」
そう、依頼人は断ると頭をさげてから、リビングに向かったのだった。
「ええ、任せてください」
百合はそう言って、依頼人の女性を見送った後、すぐに意識を切り替える。
「さて、はじめるかァ。まずは、どうする?」
「そうだな、天井から掃除をはじめるぞ」
「了解」
持ち運んできた道具の中から、脚立を取り出して、丁度照明を確認しやすい位置に固定する。暫しどちらが確認するのかと目線での攻防の末に、白椛が脚立にのぼり、百合がため息をついてからそれをしっかりと支える。照明器具をキュルキュルと回転させて慣れた動作で外し、そっと埃が舞わないように手渡しして、丁寧に下に置いた。それから、毛ばたきを持って、天井の溝を綺麗に掃いていき、汚れを落としていく。あらかた、ファサファサときちんと掃除もしっかりしてから、毛ばたきを仕舞う。
そして、胸元のポケットから手のひら大の大きさの機器を取り出した。それを徐ろにスイッチを入れて起動させる。ピコンピコンとランプが点滅するが、反応がない。ひとしきり玄関の天井付近を確認したが、機器が何か異変を示すことは無かった。白椛は気にせずにそのまま、機器を胸元に仕舞う。その時、「あのう」と声をかけられる。二人が視線を移すと依頼人の女性が申し訳無さそうな顔をしながら、何かを持って近づいてきていた。
「すみません。こんなことお願いするのは気が引けちゃうんですけど、実は最近玄関の明かりがチカチカしちゃうことがあったりして。ストックはここにあるんで、ついでに替えてもらうことって出来ます……かね?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「すみません、助かります。ここに置いておくので」
そう言って、彼女は頭を下げて部屋に戻った。頼みごとを快諾した二人は、あらためて作業にもどる。
「照明を取り付け直すから、こっちに上げてくれ」
「ああ。気を付けろよ」
百合は、下で乾いた布巾で照明器具のカサを拭いて埃をおとしてから、白椛にそっと渡す。キュルキュルと取り付け直したのを確認してから、箱を空けて電球を取り出し、声をかけて交換するように促す。そして、古い電球を受け取って、そのまま仕舞った。
「……取り敢えず、降りるな」
「了解」
危なげなく脚立から降りた姿をみてようやく安心した百合は、脚立を畳んで次の作業に移り、落ちた埃たち共々掃除をして玄関を綺麗にしていく。その間、白椛の胸元に潜む機械は反応を示さなかった。探偵と助手は示し合わせた様に、頷いて次の行動の確認をする。
「――じゃあ、玄関はこれで。川澄さんにも伝えて、他の場所を掃除させてもらうか」
着々と廊下、リビング、キッチンと掃除を済ませていく二人。そして、事の本命の依頼人の仕事部屋に、断りを入れてから、掃除という名の調査に入った。
案内をしてくれた依頼人の女性は、
「あの、散らかってはいますが……。基本的には、捨てる物って殆どないので、そこはよろしくお願いしますね」
とおずおずと伝えてきた。
そこは、扉から入ってすぐに見える外に繋がる窓には重たい遮光カーテンがかかっていて、昼の日差しが入って来ないようなとても暗い部屋だった。天井まで届く大きさの本棚が壁の両面に並んでおり、仕事に関するのだろう背丈のある画集や参考図書達が置かれている。廊下からの光で部屋の内部をそこまで認識すると、ひた、と百合は違和感を覚える。彼は首を無意識に捻って覚えた違和感の輪郭を形作ろうとして、パチっと白椛が照明をつけた事によって霧散した。百合は、瞼をパチリパチリと瞬かせた後、違和感の切れ端を感じた事だけは頭の片隅に置いておいて意識を切り替える。布地や、ボタン等の手芸用品が作業用に使っているのだろう木製の脚のしっかりした机の上に、雑然と置かれていた。トルソーが二体ほど机の側にあり、布がいくつか充てがわれていていかにも作業を中断しましたといった様子が窺い知れた。
二人は目配せをすると、依頼人の持ち物をなるべく動かさないよう、破損させないようにと念頭に置いて調査をはじめる。
百合は、先程の違和感の切れ端からまずは、棚の隙間を確認するようにペンライトを取り出して、光を当てながら毛ばたきで掃き掃除しつつ調査を開始した。本棚とはいっても本の他にも、インテリアなどが飾られておりその中でも一際目を引くのが綺麗に御粧しをして、ちょこんと座っている人形たちである。
川澄さんは、趣味の一環でドールの服の制作もしている事は事前の聴き取りで知っていたので、ああコレが、得心した。少年少女と青年の姿をした精密な球体関節人形達が並び、フリルやボタン、レースなどがあしらわれた衣服を身にまとった姿は、実に見事な仕事だなと門外漢ながらも百合は感心した。流石にこの人形達を家主の断りもなく触れるのはマナー違反だろうと、下の段の棚の埃落としをしながら、眺めるだけに留めつつも、先程の違和感はこの辺りからした様な気がしたので、つぶさに観察した。
――チカリ。
ペンライトの先で何かが不自然に光り、彼の眼鏡に反射し、百合の手がひた、と止まる。しかし、彼はすぐに何事もなかったかのように作業を続けた。そこに異変を感じた白椛が背後にぬっと立ち、不自然さが出ない程度に肩ごしにコチラを窺うのだった。
数ある人形の中の一体。お澄ましした少女人形の、その眼球がきろりと動いている。
――ように見えた。他の人形達同様の艶々の眼球と同じ様にみえて、実際はその瞳孔に細工が施されていたのだ。ペンライトをさも、掃除の為ですよといった体で件の少女人形に当てる。前髪から覗く目だけが可愛らしい彼女に似つかわしくなく、いやに気持ち悪い赤色にギラついた。百合はすかさず持っていたライトのボタンを長押しする。ライトは何も起きない、いや、何も起きていないように見えるだけである。
助手の一連の行動を観察していた探偵は、助手が人形達の前から離れ他の場所に移動したのを見遣ると、興味本意の体を装いつつ、しかし綺麗な綿の手袋を着けた手で、そっと顎を摘み少女人形を観察した。
その狼藉にぎゅっと、彼女の筆で描かれた眉根が寄ったような気がした。
その後、二人は依頼人の女性に今回の調査結果を伝える。
川澄さんは、ひゅっと息を呑むと俯き
「……そうですか」
と絞り出すように呟いた。
「はい、今回は残念なことに川澄さんの杞憂が当たってしまったようで……。この度は何と言いますか、本当にお気の毒でしたね」
と、白椛が女性に対しての心痛察するに余りあると告げた後、
「それで、ですね。その件の人形に関しては、警察に通報して所轄の人間が来るまで触らないこと、盗聴している人間に対して気付いたと言うことを気取られない様に口にしないことを約束してください。下手に刺激してはいけませんので」
「はい、分かりました」
「分かっているでしょうが、SNSにも書き込まぬようお願いしますね」
「……はい」
「後日、こちらでも纏めた資料とその他請求書は事務所でお渡ししますね」
「えぇ、今日はありがとうございました……」
完全に意気消沈といった女性だが、最後に二人にお礼を言った。そして、探偵とその助手は挨拶を済ませて、依頼人の家を後にする。