手鏡の顛末
※オチはコメディですが、途中で怪談っぽいシーンがあるので、苦手な方は飛ばしてください。次のエピソードを読めば、ここを飛ばしても話は通じます。
時は少し戻ってセリーナが学園に入学する前の冬のこと。
バンク伯爵家の当主ローレンス・バンクは屋敷の執務室にいた。
五年前、前当主の不正が発覚、その娘ダイアンが窃盗の罪を犯し、侯爵だったバンク家は伯爵に爵位を落とした。ローレンスは前当主の息子で、ダイアンの兄だ。
ローレンスは、父の不正に薄々勘付いていながら見て見ぬふりをし、贅沢な暮らしを享受していた。それなのに、降爵されて代替わりしてから、自分は何も悪くないのにとばっちりを受けたと主張するような人間だった。
取引先もほとんどなくなり、不正の罰金やダイアンの被害にあったフォレスト公爵家への賠償金などもあって、バンク伯爵家の家計はずっと火の車だった。
先日、ダイアンの元婚約者であるフォレスト公爵家の嫡男チャーリーが結婚した。これで、ダイアンのことも忘れてくれないだろうか、とローレンスは考えていた。
そんなローレンスの元に、執事が飛び込んできた。
こんなに慌てている執事は、降爵のとき以来かもしれない。
「何があった?」
ローレンスが問いただすと、執事は執務机に駆け寄り、両手で持っていた小箱を差し出した。
「旦那様、こちらをご覧ください」
「これは……?」
白い桐箱に紫紺色の組紐がかけられたそれは、一目で東国の品だとわかる。
紐はすでに解けていて、執事は机に箱を載せてから、そっと蓋を開けた。そして、品物を包んでいる布を開く。
「なっ! こ、これはまさか……!」
現れたのは、東国の意匠の赤い手鏡だった。漆塗りの技法はハツカ国が有名だ。
「ダイアンが盗んで売り払って、まだ見つかっていない品か?」
妹ダイアンは、婚約したチャーリーの亡くなった義母――ハツカ国王女のルイーズの遺品を盗んだのだ。
フォレスト公爵家も探して買い戻したが、バンク伯爵家も必死になって探した。それでも見つからなかった品があった。
ローレンスは鏡に触れかけたものの思いとどまり、触らずに目を凝らして観察した。鏡面を下にして収められているため、鏡の裏面に萩の花が螺鈿で描かれているのが確認できる。
フォレスト公爵家からの訴えの通りだった。
「どこで見つかったんだ?」
ローレンスが聞くと、執事は一歩離れて姿勢を正してから、
「先ほど、カイ帝国の商人だという男が持ってきました」
執事の話はこうだ。
約束もなく屋敷を訪れたのは、東国の長衣を着た身なりのいい東国人の男だった。
前触れもなく桐箱を取り出した男は、それを開けて見せ、「これはこちらの家に所縁の品だとお見受けいたします」と述べた。
戸惑う執事ににこりと愛想良く笑うと、
「私の主人がカイ帝国で手に入れたとき、この鏡には貴婦人の霊が映る、と説明を受けました。主人はおもしろがって購入したのですが、毎晩霊に悩まされて手放すことにしたのです。しかし、適当に売り払って恨みを買ってはいけないと、私に鏡の来歴を調べるように指示をしました」
立板に水の勢いで、男は続ける。
「漆塗りといえばハツカ国。ハツカ国で萩の花といえば、瑠璃姫が好んだ意匠と知られています。瑠璃姫――こちらではルイーズ・フォレスト公爵夫人ですね」
「はっ?」
執事が驚きとも疑問とも言えない声を上げると、男はさらに笑みを深めた。
「鏡に映る貴婦人の霊ですが、黒髪の東国人と明るい髪色の西国人のふたりが交互に映るのだそうです。黒髪は瑠璃姫でしょうが、西国の貴婦人はどなたでしょうか」
男は執事の手に箱を載せる。
「フォレスト公爵家に持って行って、西国の貴婦人が鏡に現れたらどう思われるでしょうねぇ。あちらは最近婚礼があったばかりだとか……」
「それは、脅しでしょうか?」
「まさか! 親切ですよ。鏡に取り憑いた霊に安穏が訪れることだけを、我が主人は願っております。まずは、あなたのご主人に確認してみては?」
それで、執事はローレンスの元に走ったのだそうだ。
話を聞いたローレンスは、男に会うことにした。
応接室に通すように執事に言ったが、玄関に向かった彼はまた走って戻ってきた。
「男が消えたそうです!」
「何だと!?」
執事が執務室に来ていた間、従僕が男を見張っていた。しかし、男は「他にも荷物があるから持ってきます」と言って、従僕が止める間もなく外に出て、追いかけたときにはいなかったらしい。
「それが、馬車なども何もなく、忽然と消えたようにしか思えない、と……」
そうして、バンク伯爵家には手鏡が残された。
霊が取り憑いているなんて嘘だろうとローレンスは思っていた。
執務室に鏡を置いて、後日改めて考えようとその日は休んだ。
――深夜のことだ。
寒さを覚えて、ローレンスは目を開けた。
なぜだか寝室の窓が開いている。
「締め忘れか?」
ローレンスが身を起こしたため、同じベッドで寝ていた妻も目を覚ます。
「あなた?」
「窓が開いているんだ」
「まあ! 嫌だわ」
ベルを鳴らして使用人を呼ぼうとしたところ、はためくカーテンの向こうに人の顔が浮かんだ。
白く、ぼぅっと光って見える。長い黒髪が顔の造作を隠していた。
「ひぃっ!」
妻が悲鳴を上げた。ローレンスも息が止まる。
こちらを見た黒髪の女の眼窩は真っ暗だった。血の気のない唇がゆっくりと開く。
「た、す、け、て」
そう言ったように見えた瞬間、ローレンスは気を失った。
翌日、ローレンスは王都にある東国の商会を当たったが、鏡を持ってきた男は見つからない。
唯一当たらなかったサイ商会は、ルイーズと懇意にしていた商会で、フォレスト公爵家の命で散逸した遺品を取り戻している。そこに鏡を持ち込んだら、疑われるのはローレンスのほうだ。
男が見つからないまま、二日目の夜。
窓の戸締りは何度も確認し、従僕を寝室に控えさせた。ローレンスより先に失神してしまった妻は嫌がって別室で寝ることにしたため、ベッドにはローレンスひとりだ。
なんとか眠りに落ちかけたところ、ドアの外で音がした。ローレンスの浅い眠りは一気に覚める。起き上がりそちらを見ると、控えていた従僕は静かに確認に出ていった。
ローレンスは不安に駆られてきょろきょろと辺りを見回し、最後に窓に目をやった。
「開いていない。大丈夫だ、大丈夫」
そうつぶやくローレンスの肩に何か冷たいものが触れた。
「ひっ! な、なんだ!」
思わず振り払ったが、手ごたえはない。
しかし、視界の隅々を明るい茶髪がよぎった気がした。自分の髪と似た色合いだ。
「まさか、ダイアンか?」
ローレンスが思わず聞くと、耳元で女の声がした。
「おにいさま、ひどいわ」
ローレンスはまた気を失った。
翌日、ダイアンが入っている修道院に人をやった。遠方なので、ダイアンの状況を確認するのに時間がかかる。
「死んだという話は聞いていないぞ」
ローレンスは鏡を前に頭を抱えた。
――それを天井裏から覗き見ていた男がいた。檜帝国の第三皇子浩大の部下、檀だった。
(生霊は西国では一般的ではないのか?)
檀は潜伏中なのに呑気なことを考えている。
バンク伯爵家に鏡を持ち込んだのも、連夜幽霊に扮してローレンスを脅かしたのも檀だ。
浩大が購入してから、鏡に貴婦人の霊は現れていない。檀は、そもそも浩大が騙されたのでは、と思っている。
元々は西国の貴婦人の霊が映るという怪談だったところを、バンク伯爵家に持ち込むにあたって、西国と東国のふたりの貴婦人が出ることにした。そのほうがローレンスを罠にかけやすいと思ったが、首尾は上々だ。
(しかし、この屋敷は警備が甘くて簡単だな)
元からなのか没落寸前だからなのかわからないが、霊障を演出するにはちょうど良い。
檀はその場から離れて今夜の準備を進めるのだった。
ローレンスが鏡の霊に悩まされるようになってから五日後、妻が降霊会に参加してきた。
帰宅した彼女は興奮して語る。
「その未亡人のご主人の霊が呼ばれて、金庫の鍵のありかを教えてくれたんですのよ! 今まで探しても全く見つからなかったのに!」
「それで?」
話半分に聞いていたローレンスは適当にあしらった。いつもなら怒る妻だが今日は違い、身を乗り出すと、
「その降霊術師に鏡の霊を呼び出してもらえばいいのですよ!」
「はあ? ダイアンは死んでなかったんだぞ?」
「ダイアンじゃなくて、ルイーズ様ですわ!」
「おいっ! 滅多なことを言うな!」
ローレンスがたしなめるが、妻は聞いていない。
「心残りを聞いて叶えて差し上げれば、霊は消えるのでしょう? このままじゃ、ひどくなるばかりですわ。あなたは何か解決策がありますの?」
そう詰め寄られるとローレンスは反論できない。
結局、降霊術師を呼ぶことに決まった。
その降霊術師は人気らしいが、ローレンスの依頼にすぐに応じて、屋敷にやってきた。
「ご連絡いただきありがとうございます」
長い黒のローブを着た中年の男だった。ひょろりと細く、背が高い。ローレンスにはタロットカードに描かれた死神のように不吉な存在に見えた。
「先日の降霊会でお見かけした夫人が霊に悩まされているように見えたので、心配しておりました。こちらからご連絡しようかと思っていたのですよ」
彼がそう言ったから、妻は感動していた。
降霊術師に鏡を鑑定させると、彼は顔を険しくして「すぐに降霊会をしましょう」と言い出した。
妻は乗り気で、控えていた執事もうなずいている。ローレンスはいまだ半信半疑だけれど、他に打つ手がない。仕方なく、降霊会の準備をさせた。
サロンの窓をぴっちりと幕で覆い、光を遮る。丸テーブルに椅子を九脚並べて、術師とローレンス夫妻、執事や従僕なども集めて席を全て埋める。
テーブルの真ん中に置かれた燭台の蝋燭が、唯一の灯りだった。ゆらゆらと揺れる炎が心許ない。
部屋の隅は暗がりで、術師の前に置かれた鏡から女が出てくるんじゃないかと思うと、ローレンスは落ち着かなかった。
「隣の方と手を繋いでください。何が起こっても絶対に離してはなりません」
術師に言われて、ローレンスは隣の妻と手を繋ぐ。逆隣は術師だった。彼もローレンスと手を繋いだ。ローレンスは逃げ場を失ったような気持ちになる。
「これから、この鏡に残された想いを辿って、その方の霊を呼び寄せます。蝋燭が消えたら、私に霊が降りてきた合図です。私の口を使って霊が話をされますので、それを聞き、残された想いを汲み取って差し上げてください。霊に聞きたいことがあれば、そっと問いかけてください。まずはお名前を確かめることをお勧めします」
術師はローレンスの顔を見た。
「始めてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ」
「それでは、始めます」
術師は小声でどこのものかわからない言葉を唱え始めた。彼の目は鏡を見つめている。
だんだんと術師の上体が揺れ始め、がくんと突然頭が前に倒れた。
誰かが「ひっ!」と小さな悲鳴を上げた。ローレンスも術師と繋いだ手を引きそうになったが、なんとか耐えた。
ふっと蝋燭が消える。
部屋は真っ暗になった。
ざわつく室内に、ローレンスはなんとか気持ちを奮い立たせて、「手を離すなよ」と声をかけた。
「ここは、どこ?」
術師の声がした。
――霊が降りたのだ。
「こ、ここ。ここは、ごほんっ」
ローレンスは恐る恐る口を開き、震えそうになった声を咳払いでごまかして、再度、霊に話しかけた。
「ここはユーカリプタス王国です。あなたはどなたですか?」
「ハツカ国のルリと申します。……ああ、そうです……私は結婚しました。フォレスト公爵の妻ルイーズですわ」
男の声で語られる女言葉への違和感は、話の内容ですぐに消えた。
繋いでいる術師の手がひどく冷たく感じる。
ローレンスは質問を続けた。
「ルイーズ様。なぜ鏡に取り憑、いえ、鏡に想いを残されているのでしょうか?」
「鏡に? 鏡って?」
「漆塗りの赤い手鏡です。萩の花の」
「ああっ!」
ローレンスの言葉を遮ってルイーズが大きな声を上げた。
「あの女が私を呼び寄せて鏡に捕えたのよ!」
「わたしよりあいされるなんてゆるさない……」
「いやぁ! もう離して!」
声は全て術師のものだが、別々のふたりが発しているように聞こえた。
ふたり目の霊はダイアンなのか?
修道院に確認したところ、ダイアンは普通に生活していた。寝込んだりもしていないらしい。
ローレンスはダイアンらしき霊に話しかけた。
「お前はダイアンなのか?」
「そうよ」
「生きているのに、なぜ鏡に取り憑いている? そこから離れろ。お前はどれだけ私に迷惑をかけたと思っているんだ。もうやめてくれ!」
「ひどいわ、おにいさま」
「さっさと消え失せろ!」
ローレンスが叫ぶと、「ひどいひどい」とぶつぶつ言っていた声が消えていく。
「まあ! あの女が消えたわ! なんてこと!」
ルイーズらしき霊が声を弾ませた。
これでやっと彼女も鏡から解放されるのかと思ったが、ルイーズは「まだ出られません」と言う。
「他に何か心残りがありますか? フォレスト公爵家にお連れしたら、お気が晴れますでしょうか?」
「いいえ、こんな姿をハワード様にお見せしたくありません。ハツカ国に連れて行ってください。祖国の術師なら私を解放する術を知っているはずです」
「ハツカ国、ですか……」
「ええ。今私をここに呼んでくれた術師に鏡を託しなさい。彼にハツカ国まで運ばせるのです」
ルイーズにそう命じられて、ローレンスは了承するしかない。
「かしこまりした」
そう返事をすると、蝋燭の火がふいに灯る。弱々しい光でも、真っ暗闇に比べたらずいぶん明るく感じた。
術師がゆっくりと頭を上げた。冷たかった彼の手は今は温かい。
「いかがでしたか? 霊とはお話できましたでしょうか?」
術師にそう聞かれて、ローレンスはぼうっとした頭のまま、「ああ」と返事をする。
「それでは、降霊会を終了いたします」
ユーカリプタス王国の出国審査を通過して、壇は降霊術師の男と大陸横断鉄道の車内で合流した。
ローレンスは降霊会でルイーズの霊に約束した通り、術師に鏡を託し、旅費を与えてハツカ国に送り出した。
「うまくやったもんだな」
壇はバンク伯爵家での降霊会の様子を天井裏から見ていたが、術師の手際には感心しきりだった。
「まあ、慣れてますしね。魔法って裏技も使えますから」
降霊会のときとは装いも表情も異なり、明るく笑った術師は魔法使いでもある。
浩大皇子のご所望の西国の妖術使い。壇はバンク伯爵家に行く前に、魔法使いを見つけ、檜帝国に来てもらう話をつけていた。
それだけでは浩大への土産話には足りないと思って、壇は一芝居打ったのだ。魔法使いも脚本に関わっている。
檀が無表情でいても全く気にしない、肝が据わった魔法使いはにやりと笑う。
「どうです? 俺、皇子殿下に気に入られそうでしょう?」
「そうだな。帝国でも降霊会をやれと言われるだろうな」
壇は素直に認める。
おもしろ好きの皇子は絶対にやるだろう。
「そしたら、帝国の言葉を教えてもらえますか? 帝国の霊を呼ぶのに、西方の共通語じゃ雰囲気出ないですからね」
うなずいた壇は、仕事熱心な魔法使いから旅の間中ずっと語学講座を求められるとは思ってもみなかった。




