グレイシャー伯爵令嬢シャロン
弟の付き添いで、シャロンは王妃の茶会に参加した。
弟ケントは初めて、シャロンも数えるほどしか社交の経験がない。
シャロンは、かろうじて在学中に何度かお茶会に行ったことがあるだけで、学園の卒業パーティーが社交界デビューの扱いだ。――男爵家や騎士爵家などの下位貴族ではよくあるが、伯爵家の令嬢で王宮の舞踏会に参加したことがない者は滅多にいない。
ケントは王都が初めてだった。
グレイシャー伯爵家の王都屋敷は売ってしまい、シャロンは寮住まいなので、ケントはホテルに泊まらせた。
そこまでして参加した茶会だが、顔ぶれを見てシャロンは後悔した。
(プラトー伯爵夫人……)
参加していると予想はしていたけれど、いまだにシャロンを目の敵にしているとは思っていなかった。
(退治しても次々現れる害虫みたいにしつこいわね……)
離れた席に座ったのに、わざわざ近くのテーブルに移動してきて聞こえよがしに悪口を言い出す。
領地から一度も出ないままでは、入学後にケントが困ると思って参加した茶会だったのに、これでは逆効果だ。
針の筵に座っている気持ちでいたところ、「こちら、よろしいかしら?」と声をかけられた。
(この方、ラグーン侯爵夫人だわ!)
シャロンも知っている有力貴族家の夫人だ。ラグーン侯爵が外務部の高官なので、外交関連のパーティーに夫人を同行していて、新聞に夫婦の写真がよく載っていた。
ラグーン侯爵夫人ベリンダは、雰囲気で察しただろうに何も言わずにシャロンのテーブルについた。
侯爵令嬢セリーナも、屈託なくケントに話しかけてくれる。
セリーナの婚約者だというアリスターは、ケントがセリーナに興味を持つかどうかをきっちり見ていた。ケントがセリーナに好意を抱かなかったことを確認してから、友好的になる。
(ケント、あなた今、公爵令息を敵に回すかどうかの瀬戸際だったのよ!?)
横で見ていたシャロンだけがハラハラしていた。
やっとケントに友人ができたと安心したとき、またプラトー伯爵夫人が何やら言ってきた。
――プラトー伯爵家には、王太子の婚約者を狙っていた令嬢の他、彼女の兄にあたる令息が二人いる。
在学中、その次男との縁談を申し込まれて、シャロンは断ったのだった。
次男はシャロンより二学年上だった。彼自身はシャロンに断られても痛くも痒くもない様子だったが、――というか学園で遠目に見ただけで話したこともない――、伯爵夫人は縁談を断ったあと学園まで乗り込んできたのだ。
幸い、教師が様子を見に来てくれたため、なんとかお引き取りいただけたが、シャロンは教師に助けられるまで一時間近くずっと文句を聞かされていたのだった。
(ケントがいるのに、私に婿入りだなんて、家を乗っ取るって宣戦布告しているようなものじゃないの! 誰がそんなやつと結婚するもんですか! ありえないわ! それに、貧乏貧乏って馬鹿にして! そんなに貧乏だって思っているなら、なんで縁談なんて申し込んできたのよ!)
シャロンは心の中で憤慨したものだった。
グレイシャー伯爵家が貧乏になったのは両親のせいだった。
シャロンが学園に入る一年前、十四歳のときだ。
父が偽の投資話に引っかかって大損した。よく聞けば、女に言い寄られて持ち上げられ、いい気分になってサインしたらしい。
(最低ね……)
シャロンはそう思った。
ほぼ同時期に母も騙された。家にあった宝石や株券を換金して役者に貢いだそうだ。金を渡したら役者は消えたと言う。金があれば演劇の勉強ができていい役が取れると言われて、私がこの子を育ててあげなくちゃ、と思ったらしい。
(お母様が育てなくちゃならないのは、私とケントでしょ?)
領内の商家に婿入りした叔父と、長年仕えてくれている家令が頼れる存在だったのが、幸運だった。
詐欺師を訴える手続きや、取引先との調整を済ませたころ、父は「自分の失態は自分で取り戻さないとならない。もっと大きな儲け話がある」と、また怪しい話を拾ってきた。
小さいころからセリーナたちに優しくしてくれた叔父が、父に対してあんなに怒鳴ったのは初めてのことだった。
今は、叔父と家令が目を光らせる中、父は領主の仕事をしている。母は半ば謹慎状態で、社交は禁止されていた。
学園卒業は貴族の必須条件なので、シャロンは叔父の援助も受けて入学した。
容姿を磨くより成績を上げるほうが得意だったから、結婚より就職を目標にして学園時代を過ごした。
努力の甲斐あって、難関の財務部に職を得た。詐欺師は捕まらず、実家の負債はまだかなり残っている。ケントのためにも、シャロンは仕送りをしていた。
茶会のあと、シャロンはセリーナと一緒に、庭園の隅の人目につかないベンチにいた。
(どうしてこうなったのかしら)
シャロンは首をかしげた。
――茶会の場で、セリーナとアリスターは、プラトー伯爵夫人をあっさり黙らせた。身分を笠に着る者には身分で、と言わんばかりの過剰攻撃だった。
(そもそもだけれど、プラトー伯爵夫人はハツカ国王女のロマンスを目の前で見ていた世代でしょうに。なんでアリスター様のお顔を見て気づかないのかしら)
ユーカリプタス王国の王家の血と、ハツカ国の王家の血を引く貴公子だ。血筋や身分で勝負したら、プラトー伯爵家に勝ち目はない。
さらにセリーナはシャロンに王妃との縁を結んでくれた。
王妃は招待客の情報を事前に調べていたのだろうけれど、シャロンの仕事に一言もらえたのは本当にうれしかった。
いい気持ちで終わった茶会だったが、プラトー伯爵夫人はメイドを使って最後の最後に嫌がらせを仕掛けてくれた。
シャロンはぶつかってきたメイドに紅茶をかけられたのだ。
「も、申し訳っ、これは、プ、いえ。そうではなくて、わた、私っ」
と、メイドがあまりにも怯えているから、脅されているのではと心配になる。プラトー伯爵夫人たちはすでに帰って、この場にはいなかった。シャロンは会場係の責任者にメイドを引き渡して、事情を聞いてほしいとお願いした。
「すぐにシミ抜きをしたほうがいいですわ」
流れで残ってくれていたラグーン侯爵家の面々はシャロンを気遣ってくれる。
「いえ、もう帰るだけですから。私は寮なので、すぐそこですし」
シャロンはそう言ったけれど、セリーナが「ふふ、私、シミ抜きの裏技を持っているのです!」と楽しそうにシャロンをベンチまで引っ張って来た。
――そして、今。シャロンのスカートにハンカチをあてながら、セリーナがシミ抜きしてくれている。
最初は「恐れ多い」と固辞したけれど、セリーナが「見ていてくださいませ」と言う間にもシミが消えていったため、シャロンは止めるのも忘れて見入ってしまった。
ハンカチを一度あてるだけで、その場所のシミが消えるのだから驚く。
「ラグーン侯爵家秘伝の技でしょうか?」
「ええ。魔法みたいに綺麗になったでしょう?」
セリーナは笑った。
ベリンダたちは離れたところで待ってくれているから、ここにはシャロンとセリーナだけだ。
シャロンは立ち上がって、頭を下げた。
「本日は、いろいろとありがとうございました。ケントに話しかけてくださったことや、私の仕事に理解を示してくださったこと、王妃殿下にお声がけいただく機会を作ってくださったこと、感謝してもしきれません」
「いいえ。私はシャロン様のためにやったわけではありませんわ。……ここだけの話ですけれど、社交の課題を母から出されていたのです」
セリーナはシャロンの両手を取って顔を上げさせる。
「だから、私のほうこそありがとうございます。同じ席になったのがシャロン様たちで良かったですわ。プラトー伯爵夫人と同席だったりしたら、私、テーブルをひっくり返して、お母様からお叱りを受けることになったかもしれませんもの」
「冗談がお上手ですね」
「あら、冗談ではありませんわ」
セリーナが笑うからシャロンも笑った。
――セリーナが本気で言っていたとシャロンがわかるのは、もうしばらく先のことだ。
皆のところに戻ろうとしたところで、声をかけられた。
「やあ、セリーナ。シャロンも」
「お義兄様、ごきげんよう」
振り返ったセリーナが挨拶した相手は、シャロンの直属の上司のチャーリーだった。
財務部は班分けされており、シャロンが配属された班の班長がチャーリーだ。
シャロンは休みをもらっているが、今日は出勤日だ。チャーリーは仕事場からやってきたのか、いつもの服装だった。
「お疲れ様です」
見慣れた彼に、シャロンはいつもと同じ挨拶をしてしまう。
(そういえば、この方はフォレスト公爵家の令息で、次期公爵なのよね)
シャロンは不思議な気持ちでチャーリーを見た。普段、職場で身分を意識させる発言を彼がしないからだ。
「セリーナ、あちらにクリフ侯爵令嬢が来ていたよ」
「まあ、教えてくださってありがとうございます。シャロン様、私、先に戻りますね。シャロン様はお義兄様と一緒にいらしてくださいな」
気を利かせてくれたのか、セリーナはシャロンとチャーリーを残して戻って行った。
シャロンは彼女の背中を見送った。
(天真爛漫って感じね。侯爵夫人もセリーナ様を大事にされていたし、アリスター様にも好かれていて……。愛されることを知っているから、愛することができるのかしら。好きだってあんなにまっすぐ伝える令嬢は初めて見たわ)
そんなことを考えていたせいか、
「無条件で愛された経験がある方って、最強ですね……」
思わず口から出てしまった。
はっとしてチャーリーを見たら、彼はセリーナを見送ったまま柔らかい表情で笑っていた。
「全くその通りだな。……弟にとって良い出会いだったし、私も助けられている」
シャロンはゆっくりと歩き出しながら、「いいですね」とつぶやいた。
「私も無条件で誰かを愛したいです」
すると、隣でふっと小さく噴き出す声がした。
「愛されたい、ではないのかい?」
「まさか。愛されたいなんておこがましいです」
「そう?」
「はい」
チャーリーの笑う声に、シャロンは神妙にうなずいた。
(容姿も大したことないし、文官だって言うと引かれるし……。それに、異性に騙された両親を見ていたから、恋とか愛とか言われても信じられないのよね。……私に来た縁談って結局、プラトー伯爵家の乗っ取り案件だけだったわね)
負債があって、持参金も期待できない令嬢を迎えたいという家はないだろう。
「君は、弟君のことを愛しているように見えるけど?」
「そうですね。弟はかわいいです。チャーリー様もですよね? 今日、いつから見ていらしたんですか?」
「わりと最初から」
チャーリーはシャロンの指摘に肩をすくめて肯定した。
「愛したいか……」
チャーリーは独り言のように繰り返して、
「いいね。私も愛したいな」
「そうですか」
何を思ったのかチャーリーは、適当に返事をしたシャロンの手を掴んで足を止めさせる。
「私は君を愛するから、君は私を愛してくれないだろうか」
「は? は、はは。おもしろい冗談ですね」
(え? 何言ってるの、この方。全然おもしろくないんですけど!)
シャロンが乾いた笑いを返すと、チャーリーはにやりと笑った。
「前から思っていたんだけれど、君は頭の中ではけっこう失礼なことを思っていないかな?」
「え?」
「うっすら顔に出ているよ」
「え」
シャロンは空いている手を頬にあてる。
ときどき弟に「姉上、暴言がにじみ出ています」と言われることがあるけれど、職場では隠せていると思っていた。
「ああ、やっぱり失礼なことを考えていたんだね」
「え、あの……」
「やっぱり、君にしよう。おもしろいと思って見ていたんだけれど、先ほどの『愛したい』は決定的だった」
「えーと、何のお話でしょうか」
「求婚だよ」
「寝言は寝て言ってくださいます?」
シャロンが思ったままを口にすると、チャーリーは楽しそうに声を上げて笑った。
職場では見たことがない様子に、シャロンは戸惑う。
「……本気ですか? 冗談だって言うなら今ですよ?」
「悪いけれど、本気だ」
「無理ですよ。家格が違うじゃないですか」
「文句を言う親戚はいないよ。他家だって何も言ってこないさ。……うちは呪われているらしいから」
「そんなのは流言飛語ですよ。呪いなんてありえない」
シャロンがきっぱり言うと、チャーリーは一度瞠目してから、今度は目を細めた。変な色気まで出してきて、シャロンの頬に手をあてる。
(あ、なんか、本格的に良くない気がするわ……)
一歩下がりたいのにシャロンは動けない。
「あのですね。きっとご存じでしょうけど、うちには大きな借金があって……」
「経済支援でも、立て直し計画の提案でも、なんでもできるよ。……それから?」
「私は仕事を辞めたくなくて……」
「私も君に辞められると困る。結婚してからも続けてくれ。……あとは?」
「えっと、あと……」
シャロンは悲鳴をのみこみながら、働かない頭を必死で動かしたが悪あがきは続かなかった。
(嫌じゃないのよ……。嫌じゃないから困るのよ……)
――後日改めて話し合いの場で、シャロンは実家の事情やプラトー伯爵家との因縁を話す。
「あのプラトー家が君に縁談ね……。タイミングが良すぎる。詐欺もプラトー家が画策したんじゃないか?」
「それは叔父も言っていました。でも、証拠はなくて……」
「そのあたりは私に任せてくれ」
チャーリーは請け負ってくれたが、シャロンは何年も前のことだと期待していなかった。
(まさか、一週間足らずで証拠が集まって、プラトー伯爵家を追い詰められるなんて思ってもみなかったわ……。公爵家を舐めていたわ……。いえ、チャーリー様がすごいだけかしら。もしかして、逆に我が家がダメすぎるだけ?)
詐欺師も捕まって、プラトー家から取り上げた財産がグレイシャー家に戻されることになり、実家の借金はあっさり消えた。
「さて、他に結婚に際しての障害はあるかな?」
かたっぱしからぶち壊すよ、と聞こえない声が聞こえる気がした。
シャロンは大人しく婚約を受け入れたのだった。
――ここまでわずか半月の急展開だった。