アリスターの婚約者
アリスターの母が亡くなったのは三歳のときだ。そのときのことは覚えていない。
物心ついたころには、兄は学園の寮におり、父は仕事で忙しくしていた。ふたりと関わる時間は少なく、アリスターは家族がどういうものかよくわからなかった。
あるとき、屋敷の番犬が子どもを産んだ。雌犬が子犬を世話する様子を見て、アリスターは、
「この犬は乳母なの?」
「いえ、母親でごぜいます」
犬の担当でもあった厩係の老人はそう答えてから、離れたところで寝そべっている雄犬を指差して、「あれが父親ですよ。犬の父親は子どもの世話なんてしませんがね」と笑った。
「犬は世話しない……」
それなら人間は? とアリスターは考えたが、自分の乳母のマリアーヌ・モースが顔を青くしているのを見て、口にするのをやめた。
(普通の人間の父親は子どもの世話をするんだろうなぁ)
親子、兄弟、そして家族。――アリスターはこのときに初めて、自分の家族について考えた。
母犬を見る。
(僕にはお母様がいない)
それはどうにもならないことだ。
アリスターは諦めることを覚えた。
八歳のとき、兄チャーリーに婚約者ができた。
当時はまだ侯爵家だったバンク家の令嬢ダイアンだ。
彼女が初めて屋敷にやってきた日は、珍しく父も兄も揃っていた。ダイアンは、父や兄、屋敷の調度など、目につく全てを「素敵だ」「素晴らしい」と褒め、アリスターには「仲良くしましょうね」と微笑んだ。
アリスターは、家庭教師と使用人以外の他人と関わることなく過ごしてきたため、ダイアンは大げさすぎて胡散臭く思えた。
「バンク侯爵令嬢はきっと気後れされていたのでしょう。いずれは公爵夫人になられるので、今後は意識を変えていかれると思いますよ」
アリスターがダイアンの印象を言うと、家庭教師のジャック・トリムはそう諭した。あまり納得した様子のないアリスターに、ジャックは、
「気になるようでしたら、また教えてください。私でもモース夫人でも構いませんよ。兄君のご婚約者ですから、兄君とお話する良い機会かもしれませんね」
「はい」
アリスターはとりあえずうなずいておく。ジャックは、アリスターと家族がうまくいっていないのを気にして、ときどきこうしてアドバイスしてくれる。しかし、アリスターが実践したことはほとんどなかった。
「兄上や父上は気にならないのでしょうか?」
「フォレスト家は公爵家ですから、阿る人もいらっしゃるでしょう。父君や兄君は職場や社交界でそういった方々のお相手をすることもあるので、慣れていらっしゃるのかもしれません。……いえ、これは私の想像ですので、おふたりに直接お聞きしてみてくださいね」
「……わかりました」
ジャックは前に父や兄に質問してその返答を提出する課題を出したことがある。けれど、アリスターが一ヶ月後に提出したレポートに『父にも兄にも一度も会わなかった』と書いたため、そういう課題は出さなくなった。それ以降は、できればやってみましょう、という発展課題にされている。
「アリスター様も数年後にはお茶会に参加するでしょう。バンク侯爵令嬢との交流はその練習になるかもしれませんね」
ジャックが言った通り、社交の練習にはなった。しかし、残念ながら悪い事例の練習だった。
ダイアンは頻繁に公爵家にやってきた。チャーリーと茶会をするためだ。アリスターは呼ばれないので参加することはなかった。
ある日、チャーリーが予定があると断った日にダイアンはやって来た。行き違いだったのか、わざとだったのか、わからない。
チャーリーが不在なのだから帰ればいいのに、ダイアンはアリスターと話がしたいと言ってきた。だから、アリスターは仕方なくサロンに茶の用意をさせた。
ダイアンはずっとしゃべっていた。流行りのドレスのこと、参加した舞踏会や茶会のこと、誰かの噂話や陰口。アリスターはひとつも興味が持てない。ダイアンはアリスターが何も反応しなくても、勝手にしゃべっていた。
(教わったマナーとは全然違うな。……兄上はいつもこんな話を聞かされているんだろうか? よく耐えられるな。それとも兄上がいるときは別の話題にしているのか?)
どうやってこの会を終わらせるか考え出したとき、ダイアンが人払いを命じた。
サロンにいるのはモース夫人を筆頭に全員公爵家の者だ。ダイアンの命令には従わない。モース夫人はアリスターを見る。
「壁際に下がって」
退屈な茶会の打開に繋がる新展開だと思い、アリスターはダイアンに乗った。モース夫人は気遣わしげにしながらも、メイドとともに話が聞こえない位置まで下がってくれた。
「まあ、いいわ。ふたりきりになるわけにはいかないものね」
ダイアンは椅子に寄りかかり、胸を逸らす。半目になって、アリスターを見下ろした。
「貧相な子どもねぇ」
アリスターは顔をしかめた。暴言に驚かない程度には、この茶会で彼女の本性は垣間見えていた。
(延々と陰口を聞かされていれば、さすがに予想できる)
「お前は邪魔なのよ。わたくしがチャーリー様と結婚する前に、この屋敷から出て行きなさいよ」
「なぜ、僕が出て行かないとならないの?」
「子どもの面倒なんてみたくないのよ! 女が誰もいない家だから気を使わなくていいと思っていたら、これよ! 次男の世話をしてくれですって? わたくしはまだ若いのよ?」
「ああ、なるほど……」
それは確かに嫌だろうな、とアリスターも納得する。
「そんなに嫌なら縁談を断れば良かったのに」
「はあ? 冗談じゃないわ! こんな良い話を断るわけないじゃない!? お前がさっさと出ていけばいいの。わかるでしょ?」
「出て行かなかったら?」
「追い出すだけよ」
ダイアンは甚振るような笑みを浮かべた。
「血のつながった父や兄から追い出されたくないでしょう?」
彼らに何か吹き込んで、アリスターを追い出すように仕向けるつもりだろうか。
アリスターはため息をついた。
(面倒だなぁ)
父がアリスターを不要に思うなら、実母が亡くなった時点で放逐しただろう。いまだにここにいて、教師をつけてもらっているということは、アリスターには利用価値があるのだ。――そして、おそらくダイアンよりもアリスターの価値は高い。
アリスターが黙ったため、言い負かせたと思ったのかダイアンは楽しそうに笑う。
(気持ち悪いな。社交界ってこんなやつばっかりなのか?)
これが本題だったのか、ダイアンはそのあとすぐに帰っていった。
何を話したのか心配そうに聞いてくるモース夫人を宥めて、アリスターは父と兄に初めて手紙を書いた。ダイアンに出て行けと言われたことを正直に綴った手紙を、執事に頼んでふたりの職場に届けてもらう。
なぜダイアンは、アリスターが父や兄に黙っていると考えたのだろう。アリスターには心底理解できない。彼女は口止めすらしなかった。
(僕はこの家でそんなに蔑ろにされているように見えるんだろうか)
数日後には、ダイアンは婚約者の座から転落していた。
アリスターが報告するまでもなく、兄はダイアンの素行を、父もバンク侯爵家を再調査していたらしい。
(やっぱりふたりともおかしいと思ってたんだな……)
「君は私の大事な息子だよ。追い出すことはない。好きなだけ、この家にいてくれたらいい」
父はそう言ってくれたけれど、アリスターとの間には依然として距離があった。
何も変わらないまま五年が経ったある日、父がアリスターに縁談を持って来た。
「兄上より先に僕ですか?」
執務室に呼び出されて、釣り書きを渡される。
(ラグーン侯爵令嬢。……ひとつ年上なのか)
「チャーリーは、前の婚約者のことがあるから、いろいろと難しいんだ。……アリスターの縁談は先方から打診があった。ラグーン侯爵家は君の婿入り先としてこの上ない良縁だよ」
執務机を挟んで、父はそう言って穏やかな笑顔を見せた。
「婿入り?」
「そう。セリーナ嬢は一人娘だ。我が国では女子に爵位継承権がないため、ラグーン侯爵は後継になれる婿を探しているんだ」
「え? 僕が次期侯爵になるのですか?」
アリスターは自分の容姿がハツカ国出身の母に似て東国風であることを知っていた。
「先方は僕の見た目を知っているのですか?」
「もちろんだとも」
(それなのに婿入り? 向こうから打診?)
それほどまでに、公爵家と縁続きになりたいのか?
嫌悪感が顔に出てしまったのか、父は「全てを打算的に受け取るのはやめなさい」と注意した。
「ラグーン侯爵は外務部に勤務している。ルイーズが嫁いで来たときには、ハツカ国との折衝役のひとりだった」
そう言われてうなずいたものの、アリスターの心には響かない。
アリスターは母ルイーズの思い出がほとんどないため、思い入れがない。ダイアンがルイーズの遺品を盗んだと聞いても、呆れはしたが怒りが湧くことはなかった。兄のほうがよほどひどい剣幕だった。
「顔合わせを行うことは決まりで良いな? 会ってみて嫌なら断ればいい。無理強いするつもりはない。……前にも伝えたが、君がこの家にいたいならいつまでもいてくれて構わないんだぞ」
アリスターは顔合わせに承知した。
(どうせ相手から断られるだろ)
その予想は大いに裏切られることになった。
セリーナはおかしな令嬢だった。
ダイアンみたいな反応は想定していたけれど、顔が好きと言われるとは思ってもみなかった。
さらに、魔法使いで浮遊体質。
(僕にときめくと浮くって、何? 訳がわからない……)
後悔、憐憫、嫌悪――そういった負の感情が一切ない視線を向けられたのは初めてだった。
二度目の顔合わせで婚約が決まったあと、アリスターの頭の中は混乱していた。
婚約をやめさせようとして、セリーナに自分は厄介者扱いされているなどと大げさに言ってみたけれど、彼女は気にしなかった。それどころか、アリスターが好きだと宣言した。
(好きって、あんなに気軽に言えること?)
きっと彼女は、お気に入りのドレスやデザート、かわいらしい小動物と同列に考えているんだろう。
それでも、セリーナが浮くのは好意の証明だと言われると、彼女が浮くたびにほっとしてしまうのだった。
父や兄からそこまで疎まれているとは思わない。でも、完全には信じきれない。厄介者ではなくても、持て余されてはいるだろう。――セリーナの家族の仲の良さを見せつけられたあとでは、自分の家族のぎこちなさが際立って見えた。
そんな中、セリーナの好意はわかりやすい。
アリスターはいつのまにか彼女と会うのが楽しみになっていた。
兄が何か画策しているようだと気づいたのは、セリーナを公爵夫人の部屋に案内したときだ。
母の手鏡が盗まれたままなのは確かだが、もうほとんど諦めていた。今さらセリーナに協力してもらったところで、新事実は出てこないだろう。
セリーナが帰ったあと、
「兄上、何をするつもりですか?」
「セリーナ嬢に危険はないよ。ラグーン侯爵夫人にも手伝ってもらっているから、安心していい」
兄チャーリーはそう言って微笑む。
「セリーナ嬢はアリスターの顔が好きなんだってね」
「ええ。そう言っていますね」
それで? と促すと、チャーリーは「彼女は東国人の知り合いはいないらしい」と続けた。
「東国人に会わせてみたら、どうなると思う?」
「それは……」
アリスターは二の句が継げない。
「今のうちに確かめておくべきだ」
チャーリーの顔は真剣だった。
決行の日、アリスターはチャーリーに連れられて街に出かけた。
フォレスト公爵家では夏に避暑を兼ねて領地に行くが、それ以外で兄と外出したことがあっただろうか。
チャーリーと並んで歩きながら、アリスターはいろいろな意味で緊張していた。
「この先にサイ商会の店がある。サイが侯爵夫人とセリーナ嬢を店に誘ってくれる手筈になっている」
「母の手鏡は口実ですか?」
「セリーナ嬢は善良だから、探そうとするだろう?」
人の善意を逆手に取るなんて、と思いつつ、アリスターも効果的な作戦だと考えてしまう。兄も自分も善良とは言いがたい。
ため息をつきながら歩いて行くと、セリーナがいた。
「ん? まだ店に行っていなかったのか」
兄のつぶやきも耳に入らない。
セリーナの前に東国人がいたからだ。
アリスターと同じく黒髪の男だ。こちらからは見えにくいが、彼も、セリーナが好きと言った『すっきりした顔立ち』なのだろう。
セリーナが彼を見て、話している。
アリスターは息が止まるかと思った。
そこで侯爵夫人がこちらに気づいた。セリーナにも教え、彼女も振り向いて……。
アリスターとセリーナの目が合った。
その瞬間、彼女はすぅっとわずかに浮いた。
アリスターは婚約のときにセリーナから教えられたことを思い出した。
『私が浮いているときは、アリスター様のことを思って幸せな気持ちに浸っているときなんですよ?』
他の誰でもなく、アリスターへの気持ちだ。東国風の顔なら誰でもいいわけじゃない。
向けられた笑顔が眩しい。
浮いたセリーナはすぐに地面に降りて、跳ねるようにしてこちらに駆けて来た。
「アリスター様! ごきげんよう。お約束していないのにお会いできるなんて、うれしいですわ!」
セリーナの笑顔を前に、アリスターは顔が熱くなるのがわかった。
心臓が痛い。
彼女が自分にだけ浮くことに、アリスターは歓喜していた。
チャーリーを引っ張ってその場をあとにして、ふたりは馬車に乗っていた。
「良かった……」
我が事のように、チャーリーはほっと息をつき、両手で顔を覆った。
「セリーナ嬢との結婚は、きっと君を幸せにしてくれるよ」
「はい、そう思います」
アリスターがきっぱりうなずくと、チャーリーはこちらを見た。
「心境の変化があったのかい?」
「はい。自分の気持ちがはっきりわかりました」
アリスターはチャーリーをまっすぐに見つめた。
「だから、兄上は二度と手出しをしないでください」
チャーリーは一度目を瞠ってから、しっかりとうなずいてくれる。
「わかった。でも、困ったことがあればいつでも言ってくれ。協力は惜しまないよ」
アリスターはチャーリーに礼を言ってから、
「早速ですが、兄上。ハツカ国と連絡を取るにはどうしたらいいですか? 後ろ盾になってもらいたいのです」
「それなら、ラグーン侯爵に頼めばいい。伝手をお持ちだ。アリスターの後ろ盾はセリーナ嬢のものにもなるから、協力してくれるさ」
兄は頼られてうれしそうだ。
(なんだ。こんなことで良かったのか……)
アリスターはチャーリーにどう接していいかわからずにいた。
だいぶ歳の離れた兄弟。顔を合わせることも少ない。
チャーリーもアリスターの扱いに困っていたように思う。ときどき一緒にとる夕食では、当たり障りのない話題をお互いに探していた。
(これもセリーナのおかげだな)
アリスターは婚約者のことを考える。
顔だけでも、気軽な好意でも、今はそれでいい。
愛し合う夫婦になりたいと言ったのはセリーナだ。
アリスターはそれを叶えてあげるだけ。
自分と彼女では、愛の重さが少し違うかもしれないけれど。
(セリーナを絶対に離さない。……ああ、でもいきなりだと驚くか。逃げられても困るし、少しずつ慣らしていかないと)
――セリーナは恋で浮いたけれど、アリスターは恋に落ちたのだ。




