35.ルシアナ、言質を取る
……今日もお誘いして下さらないのね。
舞踏会が明日に迫った日の午後、ルシアナは最後の練習にケイリーの部屋へと来ている。
「2週間前に比べると、随分上達したね」
「ケイリー様のお陰ですわ。これで明日、お相手の方の足を踏まずに済みそうです」
ふふっ、と笑ってケイリーの方を見たが、前髪の奥にある瞳は床ばかりに向けられて、ルシアナの方を向いてはくれなかった。
ちょっとでもわたくしのことが好きなら、嫉妬くらいしてくれるかと思ったのに。
やはりルシアナの思い違いのようだ。
「ケイリー様は……」
「うん?」
どうしたいのですか?
そんな質問は、気持ちの沈んでいる人に投げかけるべきじゃない。
きっとルシアナがここに来る以前に、多くの人に言われたはずだ。
傷跡なんか気にするな。
いつまでそうやって引きこもっているつもりだ。
結局、どうなりたいんだよ? と。
ケイリー自身はきっと傷跡があっても堂々と人前に立ち、胸を張って「これが自分だ。気にしてない」って言いたいんだと思う。
実際、初めのうちはそういうスタンスでいたのだから。
でもそれは続かなかった。
よく『自分が思ってるより、他人は自分を見ていない』なんて言うけれど、果たしてそうだろうか?
見てないって言うのなら、なぜケイリーはあれ程までに、人の視線を気にして怯えるようになったのだろう。
自意識過剰だから?
そんなことは無い。
誰だって簡単に、陥りうる心境だと思う。
どう声掛けしたらいいのか分からなくなったルシアナは、静かに首を振った。
「いいえ……やっぱり、なんでもありません」
「……」
もうすぐベアトリスの湯浴みの時間になる。明日の準備もあるしそろそろ戻らないと、とルシアナは気持ちを切り替えてケイリーを見た。
「2週間お世話になりましたわ。今度御礼をさせて下さいませ。それでは失礼致します」
一礼して去ろうとしたルシアナの手を、ケイリーが掴んできた。
「ケイリー様? ちょ、ちょっと?!」
「ごめん、こんな僕に抱き締められたって気持ち悪いだけだよね」
「いえ、そういう事ではなくて……」
手を捕まれそのまま手繰り寄せられたルシアナの体は、ケイリーの腕の中にすっぽりと収められてしまった。
ルミナリアに来た時は同じくらいの背だったのに、いつの間にかこんなに差をつけられていたのか。
男性の成長期とは恐ろしいものね。
髪の毛がボサボサで無精髭を生やした、だらしのない男なんて御免だと、突き飛ばしてしまえばいいものを。心臓が痛いくらいにバクバクと強く鼓動を打っているのに、嫌な気はしていない自分がいる。
だから抱きしめられたまま、目を閉じた。
「ケイリー様は……変わりたいですか? わたくしの隣に並ぶのに、相応しい男になりたいと思いませんか?」
高飛車すぎる物言いだとは思うけど、ケイリーならきっと許してくれる。
腕の中から見上げたケイリーの顔は、苦しそうに歪んだ。
「変わりたい……。けど人前に出たところで、また同じ事が繰り返されるのかと思うと、どうしても一歩を踏み出せないんだ」
自信を喪失したケイリーに、ルシアナの声はなかなか届かない。
「……明日の舞踏会、楽しんできて」
腕の拘束から解かれたルシアナは、静かに部屋から出ていき、そして微笑んだ。
『変わりたい』
――言質はとったわ。
◇◆◇
舞踏会は夕方から始まるが、王宮内は朝から皆忙しそうに、使用人たちが動き回っている。
参加者であり主役の一人でもあるルシアナも、今回は例外ではなく朝から身支度に忙しい。
ドレスよしっ! 靴よしっ! アクセサリーよしっ!
前日の夜にきちんと準備してから寝たので、衣装は揃っている。
ベアトリスの当日の支度は、ほかの侍女がきっちりやってくれるので問題ない。
メイクとヘアセットはしたので、あとは着るだけ。
その前に……。
「さぁて、行くわよ」
ルシアナ愛用の道具が詰め込まれた鞄を手に取り、ケイリーの部屋へと向かった。
「ケイリー様、ルシアナです」
ノックをして呼びかけると、すぐにドアが開いた。
「ルシアナ? どうしたの。今日は忙しい……うわっ」
ケイリーの反応を見ている余裕などない。早く支度を済ませないと。
ルシアナは床が汚れないように大きな布をひろげ、その上にイスを置いてポンと背もたれを叩いた。
「ケイリー様はとりあえず、こちらに座ってください」
「座ってって……一体何をする気?」
「もちろん、身だしなみを整えるのですわ」
鞄から髪切り鋏を取りだしたルシアナは、にんまりと笑いながら刃を動かして見せた。
「何を言って……」
「いいから、いいから。座ってくださいませ。わたくしがいい具合にして差し上げますから。ね?」
戸惑うケイリーの背中を押して、無理やりイスに座らせた。
実はルシアナだって凄く緊張している。
こんな方法で、ケイリーの心を動かせるのか分からない。
けれど他に、ルシアナが出来ることは思いつかなかった。
座ったケイリーにフワッとケープをかけて、後ろで紐を結んだ。霧吹きで湿らせた髪をクリップで止めてブロッキングし、クシで髪をすくいとる。
「ケイリー様は前世を信じますか?」
「え?」
ルシアナのまるでオカルト信者のような問いかけに、ケイリーは益々困惑を極めたようだ。ポカンと口を開けて、ルシアナの方を見てきた。
「わたくし前世では別の国の、ごく普通の女の子でした。母が倹約家で、大きくなるまでは母がわたくしの髪を切ってくれていたのです」
チョキチョキと鋏を動かしながら、ルシアナは前世の自分を思い出していた。
ルシアナが話した通り、貧乏という訳ではなかったけれど母が倹約家で、中学までは母が自宅で髪の毛を切ってくれていた。
オシャレにさほど興味がある訳でもなかったので、それを特段不満にも思わなかったし、それでいいと思っていた。
黒髪ストレートを胸元まで伸ばして、前髪はパッツン。
日本人形のような髪型だったと思う。
高校に上がる前の春、母が「そろそろ美容室で切ってもらわないとね」と言って、駅近くの美容室に連れて行かれた。
いつも母親任せでどうやってオーダーしたらいいかも分からなかったので、「全部お任せします」とお願いした。
後で思えば、美容師泣かせの無茶ぶりオーダーだったことに気付いたが、美容師のお姉さんは「じゃあ飛び切り可愛くしちゃうよ〜」と言って切ってくれた。
鏡越しに見る美容師の手さばきに目取れているうちに、あっという間にカットが終わった。
終わったと声を掛けられ、改めて自分を見た時の感動を、今でも忘れない。
髪の長さはさほど変わらないし、カラーリングをした訳でもないのに、自分がずっと垢抜けて、ずっと可愛く見える。
――魔法だ。
在り来りな言葉だけど、本当にそう思った。
初めて美容室へ行った日以来、鏡を見るのが楽しみになった。オシャレが好きになった。
今日はどんなヘアアレンジをしよう?
どんな服を合わせよう?
その代わり、前髪がちょっと決まらないだけで一日やる気が出なくなる。そんな経験もして……。
髪型ひとつでこんなにも毎日が楽しくなったり、逆にやる気をなくしたりするんだって知ったから、美容師になろうと思った。
――私も、魔法をかけたい。
「初めてプロに切ってもらった時には、感動しました。自分で言うのもなんですが、見違えるように可愛くなったって思いましたの。それこそ髪を切ってくれた方が、魔法使いかと思ったくらいですわ。それから前世のわたくしは、プロを目指して理容師になりました。自分も誰かの魔法使いになりたいと……」
ケイリーのもっさりとしていた髪の毛は、ルシアナの手によって、はらりはらりと落ちていく。
ルシアナはケイリーのこの生々しい傷跡が残る顔を、醜いとは思わない。
そんなこと気にせず顔を上げたらいいと言う、他の人の意見に激しく同意する。
でもケイリーの心は、それでは休まらない。
落ち着けない。
「ケイリー様に魔法をかけてあげます。きっと自分を好きになれますわ」




