1. ルシアナ、思い出す(1)
「夫婦で開業、かぁ」
スマホの画面に映るのは、街角にあるヘアサロンの前で仲良く自撮りしている夫婦の画像。
先日、美容専門学校時代の同級生が結婚して、念願だったヘアサロンを開業したそうだ。
おめでとう! と拍手するクマのスタンプと「今度お祝いに飲みに行こう」とメッセージを送ってから、スマホを机の上に置いた。
同業者の幸せそうな報告に、その女性は自然とため息をつく。
高校生の時に美容師になることを志し、美容専門学校に入学。卒業後はヘアサロンチェーン店に就職して、一年前からは店長になってお店を任されている。
スタッフや顧客の管理、店舗運営に奔走し毎日が目まぐるしく過ぎていく中で、最近はこんな独立報告がチラホラと。
「やば。私、もうとっくに30を過ぎてるのか」
美容師を志していたあの頃は、『東京の一等地お店を出す』だとか『自分のヘアケアブランドを作る』だとか、「芸能人の専属スタイリストになっちゃったり〜」なんて、そんなことを夢見てた。
いざ業界に飛び込んでみれば、そんなことが出来るのはほんのひと握りの人だけで……。
毎日充実している。よね……? と女性はガランとして人気のなくなった店内を見渡した。
地方の店舗とはいえ、真面目にコツコツ努力して店長になれた。
「不安になるのは私生活が寂しいせいだな、きっと」
仕事に忙しくて、気が付いたら未だに独り身だ。みんな一体いつ、恋愛なんてしていたんだか。
ははっ、と自嘲気味に笑った女性は、改めてタブレットの画面に向き直った。
「あー、早くシフト組まなきゃ」
独り言をブツブツ言っている場合じゃない。目の前の仕事を終わらせなければ。
画面と睨めっこを始めた矢先、当然胸に強烈な圧迫感を覚えた。
「ゔぁっ……」
痛い。苦しい。シフト。仕事。スマホ。だれか……救急車……。
胸を押えながら椅子から転がり落ちた女性の手は、とうとうスマホには届かなかった。
その思考を最後に、女性の意識はプツリと途絶えた。
***
「痛い……っ! 息が……っっ!! 誰か!」
「お嬢様っ!! お嬢様?! どこが痛いのです? お嬢様!!?」
慌てふためく女性の声が聞こえてきて、ルシアナ・スタインフェルドはハッと瞳を開けた。
ものを見るのは久しぶりなのか、窓から差し込む光が眩しくて目を瞬かせていると、心配そうな表情を浮かべた初老の侍女がルシアナの様子を伺っている。
「モニカ?」
「ルシアナお嬢様! あぁ、良かった。どこか痛がっていたご様子でしたが」
「え? あぁ、大丈夫よ。怖い夢を見ていたみたい」
「左様で御座いましたか」
ホッと安堵の息を漏らしたモニカは、ルシアナの額から滑り落ちた濡れ布巾を拾い上げると、すぐ脇に置いてある桶に入れた。
「とにかくお目覚めになられて良かったです。もう何日も熱にうなされていたんですよ。今、奥様に知らせに行って参りますね」
半ば小走りになりながら部屋から出ていくモニカを見送ると、ルシアナはベッドから体を起こしてぼんやりと辺りを見回してみる。
マカボニーの赤みがかった茶色い、重厚感のある家具と、窓には贅沢にたっぷりと布地を使用してあるものの少し古ぼけたカーテン。棚の上には侍女のモニカが飾ってくれたのだろう。愛らしい花が活けられている。
ルシアナがよく知る、自分の部屋だ。
「あの夢は一体、何だったのかしら」
夢にしては生々しく、まるで実際に体験したことのようにリアルだった。
「『ニッポン』なんて国、聞いたことないわ」
家庭教師に勉強を教わっているけれど、ニッポンなどと言う国は聞いたことがない。
もしかしたらずっと遠い、海の向こうにある国なのかもしれない。まだ12歳にしかならない自分では知らないことが山ほどあるものね。とルシアナは、本棚にある資料を見に立ち上がった。
「おっとっと」
何日も寝込んでいたので足元がおぼつかない。エネルギーのなくなった体をやっとの思いで動かして、各国の地理について書かれた本を手に取った。
「うーん、ないわねぇ……。それにしてもあのスマホとかタブレットって、便利だったわよね。文字を打ち込めば、瞬時に欲しい情報が出てくるんだもの。……って、何言っているのかしら、わたくしったら。『だった』だなんて、まるでわたくしが過去に使ったことがあるみたいに言って……」
いや。確かに使ったことがある。
そんな確信めいた気持ちがルシアナの中に生まれた。
「わたくし、熱のせいで頭がおかしくなっちゃったのかしら」
ドレッサーの鏡に映る自分に話しかけるようにして覗き込むと、ルシアナは小さく悲鳴を上げた。
「やだっ! 何これ。ぐっちゃぐちゃだわ」
鳥の巣よろしく。ルシアナの美しかったプラチナブロンドの長いストレートヘアは、枕とスレてくちゃくちゃに絡み合い無惨な姿になっている。
それも汗と脂でじっとりとして、お世辞にもいい匂いとは言い難い。
これは早急に湯浴みの準備をしてもらおう。
手ぐしで絡まった髪の毛を懸命に解いていると、カチャっと音とともに母親とモニカが入ってきた。
「まぁ、ルシアナ! あなたったら目覚めたばかりだと言うのにウロウロして。具合の方はもう良いの?」
「お母様、ご心配をお掛けしましたわ。もうすっかり熱は引いたみたいでこの通り!」
片足立ちになり、くるんっとその場でターン。は、決まらなかった。思いの外体力が失われていたようで、バランスを崩したルシアナを母が受け止めてくれた。
「もう、ルシアナったら。モニカ、この子がベッドで大人しくしているよう見張っておいて頂戴」
「うふふ。はい、奥様」
湯浴みは体力が十分に回復してからと言われ、ルシアナがようやく湯浴みを出来たのは、それから2日後のこと。
髪の毛を櫛で出来るだけ解きほぐした後、モニカに手伝ってもらいながら石鹸で髪を洗っていく。
「はあ゛ぁ゛〜、気持ちいい〜」
「あらあら、お嬢様。おじさんみたいな声を出して。はしたないですよ」
「失礼しましたわ」
クスクスと朗らかに笑うモニカが、今度は水の張った木桶を近くに持ってきた。
「さあ次はこちらの桶に髪の毛を浸けてくださいまし」
水からツンと鼻を突く香りが漂ってきて、ルシアナは思わず顔をしかめた。
「この酸っぱい香り、何とかならないのかしら」
「いつもの事ではございませんか。良く濯げば匂いはほとんど残りませんよ」
ほらほら、とモニカに促されて髪の毛を温い水に浸していく。
この水から酸っぱい香りがするのはお酢が入っているから。石鹸でアルカリ性に傾いた髪を酸性の酢で中和するのだ。この工程を行わないと石鹸カスが髪の毛に残って髪の毛がギシギシ・ベトベトになってしまう。
「ヘアコンディショナー欲しいなぁ」
高熱にうなされ目覚めてからのこの2日間、ルシアナは夢の中の出来事はもしかして、自分の前世だったのではないかと言う結論に至った。
だって目が覚めたら、この世界では見た事も聞いたこともないような知識や道具について知っているなんておかしすぎる。
人間の魂は肉体が滅んでも残って、また生まれ変わるのだと聞いたことがある。
もしそれが本当ならきっと、ルシアナの前世はニッポンという国に住む一般女性だった。
一般女性って言ったって、その前世かもしれない世界ではこの世界のように、明確な身分差などというものは存在しなかったのだけれど。
今世の世界には明確な身分差というものがあり、ルシアナの祖父は貴族の中でも最高位である『公爵』の爵位を持ち、父はその跡取り。
プラチナブロンドのストレートヘアに、青リンゴのような翡翠色の瞳をもつこの容姿を前世の自分が表現するのならば、ファンタジーな世界のお嬢様だ。
「何ですか? 『へあこんでぃしょなー』って」
これまで当たり前に酢水で髪をすすいできたのに、前世の記憶を取り戻してしまったせいか、このツンとする匂いが凄く気になる。思わず口から出てしまった言葉に、髪の毛をすすいでくれていいるモニカが首を傾げながら聞いてきた。
「髪の毛をコーティングしてサラサラにするクリームみたいなものよ。あ、でも開いたキューティクルを閉じて痛みを防ぐって意味では、このお酢だってコンディショナーだわ」
「……?? えぇと、きゅー……??」
「キューティクルよ。なにかいい方法はないかしら。お酢の代わりにレモン汁を使う方法もあるって聞いたことがあるけれど、さすがにそんな量のレモン汁なんて難しいわよねぇ……」
ルシアナの住むルミナリア公爵領はこの国の中でも北に位置し、冬には雪が降る。温暖な気候を好むレモンはあまり手に入らない。
前世の記憶を手繰り寄せながらぶつぶつと独り言を喋り続けるルシアナに、モニカもまた心の中で独りごちた。
(ルシアナお嬢様は、幾日も高熱に晒されたせいで変になったのかしら……)
心配するモニカをよそに洗髪を終えたルシアナは、スッキリサッパリして上機嫌である。
鼻歌混じりにお気に入りの香油を髪の毛に揉み込み、丁寧にブラシで梳かしてもらう。
「やっと元のサラツヤ・ストレートヘアに戻ったわ」
「はい。いつ見ても美しい髪ですね」
ルシアナの髪の毛はほとんど癖のない真っ直ぐな髪。それを前髪・後髪の区別なくストンと腰の辺りまで伸ばしている。
その姿が映る鏡をじーーっと見続けているルシアナに、モニカはまたもや首を傾げた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「ねえモニカ、わたくしってちょっと面長よね?」
「え……? えぇと、そうですねぇ。そうでしょうか……?」
「卵型と言うよりかは少し縦長だと思うのよね。それなのに、こんな縦を強調するような髪型にしているなんて……!」
「そんなことを気にする必要は御座いませんよ。ルシアナお嬢様は世界で一番可愛いお嬢様です!」
自分の容姿にコンプレックスを抱いて落ち込んでいるとでも思ったのか、モニカはルシアナの可愛さについてツラツラとのべ始めた。
「ルシアナお嬢様の髪は絹糸がサラサラと風にゆれるようですし、お顔立ちだってパッチリとした翡翠の瞳にふっくらとした愛らしい唇をお持ちです。それからお肌だって……」
「あー、分かった。分かったわモニカ」
ルシアナに赤子の頃からお世話係として仕えているモニカは、ルシアナ贔屓だ。色眼鏡をかけてルシアナの事をみているのであんまり参考にならない。
「ねえ、髪の毛を切りたいの。理髪師を呼んでくれない?」
「それでしたら直ぐにでも呼べますよ。丁度今、ベロニカお嬢様の髪を切りに理髪師の方がいらしていますから」
ベロニカはルシアナの4つ年上、16歳の姉だ。
そういえば来週、公爵家でパーティーかあるんだけっけ。
そこにベロニカの婚約者候補に上がっている男性も来ると言っていた。
ルシアナとは真逆の、クセの強い髪の毛を気にしているので、少しでもマシになるようにと髪の毛を整えてもらっているのだろう。
健気な姉である。