92
【???視点】
「今日も暑いな」
そう呟きながら、祠の屋根に腰を下ろす。
目覚めてから幾月が過ぎただろう。風が緑葉を揺らし、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。我は尻尾をゆるりと振り、遠くの空を見やった。
あの王太子とその婚約者から聞いた話だ。我が眠っている間に精霊王は『異変』を起こしており、このままではこの世界は精霊の力を失い、酷いことになってしまうと知った。
現に今もそうだ。夏草の匂いは濃いが、風が運ぶ精霊の気配は薄い。神であるこの身でさえ、ほとんど感じられぬほどだ。見れば大木の葉もところどころ乾き、色を失い始めている。
王都のほとんどの人間たちは、まだ気付いてはいまい。だが、精霊の力は確かに弱まりつつある。このままでは、日常すらまともに送れなくなるだろう。
しかし、それを解決するために現れたはずの『精霊の姫君』の働きは芳しくないとも聞いた。
本来ならば、彼女は『異変』を鎮める鍵となる存在――精霊王に立ち向かい歪みを正す役目を負うはずである。だが現実は違った。努力を怠り、他者の功を奪い、罪なき者を陥れようとする。……虚偽の証言者まで用意して、だ。
……なぜ詳しく知っているか? 我はこの地に根差した神。学園内の出来事であれば、ここからでも薄らと感じ取れるのだ。もっとも、王太子からもいくらか話は聞いているが。
まあ、それはよいとして。神として遠くから見ていれば分かる。あれは怠慢というより、意図をもって動かぬのだ。肝心の『姫君』がその状態で『異変』を鎮められるのだろうか。
なにより、彼女の力はそう簡単に代替できるものではない。今は王太子たちと仲間が代わりに動き、どうにかやり過ごしてはいるようだが、このままでは遅かれ早かれ均衡が崩れる。
しかし、我が彼らに協力しようにも、この身は学園から離れられない。
「ままならぬものだな」
とはいえ、まったく進展がないわけではない。周囲に目を向ける。あの二人が整えてくれたおかげで以前は廃墟のように荒れ果てていた環境が随分と良くなった。
王太子は時折現れ話し相手になってくれるし、婚約者の令嬢も色々なものを供えてくれるので、その対価に少々力を貸している。……なぜ我の好みをそこまで把握しているのかは不思議だが、詮索するのも野暮というものだろう。
鳥の影がひとつ、空を横切った。目覚めて以来、ここで過ごす時の流れは穏やかで、長い。この地を離れられぬ我にとって、あの二人と語らうひとときが、今では数少ない慰めとなっていた。
「……む?」
今日は来ないだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、草の擦れる音が耳に届く。しかし、この魔力の気配は王太子とその婚約者ではないとすぐに悟った。
誰だ――と静かに息を潜める。普通の人間には我の姿は見えぬ。だが念のため、祠の影に身を溶かした。
やがて現れたのは、一人の少女。見覚えのある顔だった。
……『姫君』か。
身を潜めたまま観察をしていると、彼女は祠の前に立ち、目を閉じて手を合わせた。
「……どうか、早く出てきてください。このままだと、ちゃんとしたエンディングに進めないんです!」
祈るように少女が呼びかける。その声が途切れた瞬間、風が吹き抜け、枝葉が音を立てた。
ここのところ毎日のように少女はここで手を合わせている。しかし、我はまだ姿を見せてはいない。
――ではなぜ、ここに我がいることを知っているのだろうか。
あの二人が漏らすとは思えない。それゆえ、我は姿を見せず様子を見ていた。それだけではない。二人からも念を押されていたのだ。『彼女が来ても、すぐには姿を見せるな』と。……何か事情があるのだろう。
しかし、彼女は何度もここを訪れている。そろそろ頃合いだろう。どれ、出てみるか。人の子がどんな顔をするのか、見てみたいものだ。
祠の影から静かに歩み出る。そして目を閉じて祈る少女の前に立ち、静かに声をかけた。
「呼んだか」
「!? ……あっ!」
声をかけると少女の肩が跳ねた。驚きに目を丸くし、そして我と目が合うと、ぱっと花開くように笑った。
「やった! やっと出てきてくれたんですね!」
長かったぁ、と続けるその声からは喜びが感じられる。それは悪い気分ではない。
「我に何か用か?」
呼んだからには何か用があるのだろう。我がそう問いかけると、少女は一度深呼吸し、口を開いた。
「いきなりですが、私と取引しませんか?」
「……取引?」
思わず片眉を上げる。神である我に対して取引などと言い出すとは。
「申してみよ」
「はい。実は――私、シナリオ……じゃなくて、この先に起こることが分かるんです」
促すと、少女は語り始めた。この世界に何が起こるのか、どうすればそれを止められるのか。内容は到底信じがたいものだったが、我は口を挟まず耳を傾けた。
「――ということなんです」
「それゆえに我の力を求めると」
「はい」
少女はしっかりと頷く。彼女が持ちかけてきた取引は、ありふれた祈りとは程遠かった。
「お願いします。この世界を救うためにはどうしても必要なんです!」
誰かを救うため――ひいては、この世界を元の姿へ戻すためだと少女は言う。聞こえは美しいが、その願いは危うかった。一歩誤れば執念となりかねない。しかし、『姫君』はそれを望むという。
「……ふむ」
軽く目を細め、空を仰ぐ。いかにも無謀で愚かな願いだ。だが――
「よかろう」
「――!」
そう言うと、我が承諾するとは思っていなかったのだろう少女の目が驚愕で見開かれた。
「ほ、本当ですか!?」
「構わぬ。その代わり、相応の対価を求めよう」
「…………え?」
しかし言葉を続けると少女の表情がそのまま固まった。初対面の人の子に神が無償で手を貸すと思うか? そして、そもそも。
「『取引』とは、そういうものだ」
持ちかけてきたのはそちらだ。我が望むものを差し出せるならば、手を貸す。それだけのことだ。そう淡々と告げると、少女は不満げなそぶりを見せながらも、渋々頷いた。
「では、その『対価』とはなんですか?」
「例えば――」
その後も幾つかのやり取りが続いた。少女は何度も問い、我はそれを笑いながら受け流す。
結局、交わされた『取引』はすべて我の手の内。彼女の知らぬうちに、いくつかの条件を我の思惑どおりに織り込んでおいた。
話が終わると少女は深く頭を下げ、祠を後にした。
その背を見つめる。我が求め、彼女が差し出すと決めた『対価』。その重さをまだ知らぬのだろう。だが、それは罰ではない。成長とは、試練を経てこそ得られるもの――ただ、それだけのことだ。
去り行く足音が遠ざかると、程なくして別の気配が現れた。
「先ほど、誰か来ていたのか?」
目を向ければ、そこに立つのは整った顔立ちの青年――あの王太子である。
「来るのが少し遅いな」
「……何かあったのか?」
「神がすべてを語ると思うか?」
くくくと笑えば、王太子は困った顔をした。
「案ずるな。害あるものではない」
「本当か?」
「我はそう思うぞ。信じぬなら、己の目で確かめるがよい」
我がそう言うと彼は「一体何を……?」と首を傾げつつ苦笑する。この王太子、からかうには実に良い相手だが、程々にしておこう。
「ところで王の子よ。あの令嬢とは、うまくやっているか?」
「ルージュのことか?」
何気なく問えば、王太子は『よくぞ聞いてくれた』と言わんばかりに語り出した。
「聞いてくれ。実は先日、共に新しいカフェに行ってな――」
我は相槌を打ちながらそれを聞く。……まあ、仲良くやっているようで何よりだ。
このような穏やかなやり取りは、悪くない。だが、こうした時間が長く続かぬことを我は知っている。この裏で世界の綻びは確かに広がっているのだ。笑っていられるのも今のうちだろう。
それに――先ほど去っていった少女の顔を思い浮かべる。あの瞳に宿っていた光。
「……あれは思ったより骨があるかもしれんな」
「何がだ?」
「流れが変わりつつある。そういうことだ」
「………………そうか」
王太子は理解を諦めたらしく、ため息をついた。その姿を見ながら、我は小さく笑う。
……これから退屈はしないで済みそうだ。
自分にしか聞こえないであろう声で呟くと、木々の間を風が再び吹き抜けた。その流れの中に、微かに精霊の気配があった気がした。
長らく祠に籠もっていたが――どうやら、ようやく我の番が来たようだ。
三章は以上になります。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。来週から四章に入ります。
もしよろしければ評価やブックマーク等いただけると嬉しいです。執筆の励みになります!




