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【セシル視点】
「どうしてルージュ様のことを庇ったんですか!?」
エレナが今にも掴みかかりそうな勢いで詰め寄ってくる。あの告発騒動の数日後、僕は彼女に講堂裏へ呼び出されていた。
「庇った? 僕はただ、自分のしたことを正直に話しただけだよ」
そう答えると、彼女は不満そうに眉をひそめ、子どものように声を荒らげた。
「で、でも! 普通こういうときって黙ってるものでしょ!? なんで言っちゃうの!」
「嘘だと分かってて黙ってる方が卑怯だと思ったからね。だから言ったんだ。……まずかったかな?」
「そ、それは……」
彼女は視線を逸らした。自分が悪いことをしたという自覚はあるらしい。なら最初から、そんなことをしなければいいのに。そう思ったが、口には出さない。
「でも、セシル様なら味方でいてくれるって信じてたのに……」
そう言って唇を尖らせて頬を膨らませる彼女に僕は首を傾げる。
「どうして? 僕がやったと知られただけじゃないか」
「だけど、あれじゃ私が嘘つきみたいじゃない!」
「……事実だと思うけど」
「ひどい! そんなこと言うなんて!」
抗議を正直に受け流すと、エレナは目を潤ませ、感情をそのままぶつけてきた。
酷いかな? でも、あの場で彼女の名前を出さなかっただけでも、僕はずいぶん優しくした方だと思う。
僕はあのあと担当教師に自白して、それなりの処分を受けている。
もっとも、被害者であるルージュ様が進言してくれたおかげで、『授業をサボっていた分を含む、驚くほど大量の課題』という罰で済んだ。正直きついけれど、侯爵令嬢に危害を加えた割には軽いものだ。
……もし首謀者としてエレナの名を出していたら、彼女はこの程度では済まない。良くて退学なのだが、彼女はそんな想像をすることもない。
「はぁ……裏切りそうな声だって言われてたけど、本当に裏切るキャラだなんて思わなかった」
「何の話?」
「こっちの話」
エレナが大きなため息をついた。
「……もっと優しい人だと思ってたのに」
「そっか。ごめんね」
適当に謝りながら、僕は回想する。
あの日、屋上で練習をしていた僕のもとへ、殿下が現れた。『もう少ししたら教室に戻れ』――そう言われ、楽器を片づけて向かった先が、あの騒動の現場だった。
……まさか、あんな薄っぺらな告発を皆が信じかけていたとは思わなかったけれど。結果的には、ルージュ様の潔白の証明と僕の自白、両方を果たせたのだから悪くはない。
真犯人は分かっている。あの告発状を書いたのは、間違いなくエレナだ。
けれど今、それを追及するつもりはなかった。問い詰めたところで彼女は絶対に認めないだろうし、ただ機嫌を損ねるだけだ。
……ああ、そういえば。
「君の気持ちを考えずに話してしまって、悪かったと思ってる。これからは気をつけるよ」
意識して穏やかにそう言うと、エレナは先ほどより少しだけ落ち着いた様子で僕の目を見た。
「……ならいいです。ちゃんと反省してくれるなら、それで。これからも味方でいてくれますか?」
「もちろん」
僕が頷くと、彼女はようやく表情を緩めた。
……今回、僕は理由なく彼女を庇ったわけではない。
あの告発の前、殿下に言われていたのだ。『エレナを泳がせておけ』と。
だから、あえてこのような形で収めた。個人的にはあの場で全てを明らかにしても良かったのだが、殿下の頼みを無下にはできなかったのだ。
殿下の事情は分かっている。『精霊の姫君』の力を利用するため、彼女を表立って罰したくなかったのだろう。だが僕には、それだけではないように思えてならない。
エレナは見逃されたように見えるが、そうじゃない。見逃されたのは、むしろ僕の方。
――彼女は『償う機会』を失っただけだ。
殿下はそうなることを分かっていて、僕をあの場に呼んだのだ。
それに気づいたときには背筋が冷えたものだ。顔にも態度にも出さない、彼の裏にあるものを垣間見た気がした。
「……それより、セシル様。どうして髪を切ったんですか?」
「ああ、これ?」
探るようにじっと見つめてくるエレナに対し、僕は簡単に答える。
「気分かな」
「気分……?」
「うん。夏だし、暑いからね。たまにはこういうのもいいと思って。気に入らなかった?」
長くしたければまた伸ばせばいいじゃないかと思うが、エレナは「そういうことじゃなくて」と不機嫌に続ける。
「セシル様はそんな感じじゃないはずなのに」
「そうかな?」
僕ってどんな感じなのだろうか。
軽く返しながら、小さな疑問が浮かんだ。そういえば、今回のことで彼女に嫌われはしないだろうか、と。
けれど、その疑問に対して不思議と胸は痛まなかった。以前は嫌われるのが怖くて何も言えなかったけれど、言ってしまえば案外、何でもないものだ。胸のつかえが消えたようにすら感じる。
……なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
しばらく他愛もない話を続け、それも一段落した頃。
そろそろ練習でもしよう。そう思ってバイオリンのケースを開いた途端、エレナが目を見開いた。
「バイオリン……弾けるようになったんですか?」
「うん。ちょっと前にね」
そう言うと、彼女は信じられないというように首を振った。
「なんで……そんなはず」
そんなはずがない? それってつまり、
「もしかして、都合が悪かった?」
「――!」
図星らしく、エレナは顔を赤くして叫んだ。
「っほんと、意味わかんない!」
そう吐き捨てて走り去っていく背中を見送りながら、僕はため息をついた。
「……意味わかんないのは、こっちだよ」
一人だけになって静まり返った空気の中、弓を構える。
エレナが言いたかったのは僕のあり方についてなのだろう。どうやら彼女の中には、それぞれの人物に物語のような『あるべき姿』があるらしい。
それが一体どんな自分を指しているのかは僕には想像もつかない。だけどそれが僕にとって良いものかと言われると、そうではない気もするのだ。彼女は一体、何を追い求めているのだろうか。
そして、彼女が執着するルージュ様。エレナは気づいていないようだが、ルージュ様と殿下が不仲を装っていることくらい、僕には分かっていた。
あの二人はエレナが何をしているか知っている。きっと、今回の薬草の件も最初からお見通しだった。
考えを巡らせれば巡らせるほど、力量の差は明白。どう見てもルージュ様の方が一枚どころか何枚も上手だ。あの殿下もついているし、エレナが彼女を貶めようとしたところで、簡単に勝てるわけがない。
ただ、さっきのエレナの様子を鑑みると、まだルージュ様を陥れることを諦める気などさらさらないだろう。
――まさか、何か策があるのだろうか。
「……まあ、いいか」
この先、彼女たちはどう動くのかはまだ分からない。僕にできることは手を貸すことくらいだ。
どっちに? そんなものは決まっている。
気を取り直して演奏を始めたその時だった。
「よぉ、セシル。大変だったな」
「その様子だと、無事に解決したようだな」
背後から声をかけられ、弓を下ろす。振り返ると殿下とダリウスが立っていた。いつの間に?
「二人とも、どこから見ていたのかな?」
「その辺だ」
「ああ、その辺だな!」
「その辺って……」
あまりに適当すぎる返答に苦笑しつつ、僕は肩をすくめた。
そういえば、二人からは例のバイオリンの件でわざわざ頭を下げられている。すぐに許したけれど、正直、少しやり過ぎだったと思う。
……でも、おかげでこうして弾けるようになったのだから、結果オーライか。
「それで、今度は何の用かな?」
「ああ。実はな、俺たちは以前から『特別な鍛錬』をしていて……セシルもどうかと誘いに来たんだ」
「鍛錬?」
殿下の言葉を反芻する。鍛錬、か。あまり興味がないけれど、二人にはお世話になったし、行くべきだろうか。
それに、舞踏会でのことを思い出す。あの戦いで僕の力が足りないばかりに令嬢の足を引っ張ってしまった気がしてならなかったのだ。この機に強くなるのも良いかもしれない。
というわけで、彼らの誘いを断る理由は、どこにもなかった。
「もちろん、ありがたく参加させてもらうよ」
「よし、決まりだな!」
「週末は空いているか?」
途端に満面の笑みを浮かべた二人を見て、なんだか嫌な予感がするが、気のせいということにした。
――数日後、その予感が当たることになるとも知らずに。




