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「ダリウス様、少しお時間をいただけるかしら?」
授業の合間、移動中の廊下で声をかけると、ダリウスは怪訝そうに片眉を上げた。
「いいけど、なんか用か?」
「ええ。セシル様のことなのですが……最近、何か変わった様子はありませんか?」
「セシル?」
彼は『なんで俺にセシルのことを?』といった顔をしながら、顎に手を当て少し考えて口を開いた。
「別に、いつも通りだろ。授業は相変わらず大体サボってるしな」
「バイオリンはどうです?」
「持ち歩いてるけど、弾いてるのは見たことねぇ。あれじゃ飾りだな」
「そうですか」
予想通りの答えに頷く。けれど、ダリウスは少し考え込み、続けた。
「……そういえば、この前、ちょっと妙なことがあったな」
「妙?」
「講堂の裏でぼーっと突っ立ってた。声をかけても生返事しか返ってこねぇし。最近、よくそこにいるらしい」
講堂の裏――人目のつかない場所だ。そんなところで一人で佇んでいる? そう思っていると、ダリウスはぶっきらぼうに言った。
「つーか……あいつ、何考えてんだか分かんねぇんだよな」
「というのは?」
「だってそうだろ? 元から割とそうだったけど、昔はもう少しマシだった……それに」
少し思い詰めたような表情を浮かべ、彼は口を開いた。
「あいつ……エレナにいいように使われてるだろ」
そう言って私を見たその目は、どうしようもなく悔しそうに見えた。
「あいつだって、それくらいは分かってんだろ? そのくせに、声をかけられるとすぐに頷いちまう。呆れるしかねぇよ」
その声には、セシルに対する苛立ちと落胆が混じっているように思えた。だけどそれだけじゃない。
「……ですが、見捨ててはいないのですね」
「は?」
「本当に呆れて果てていたら、今のようにわたくしに愚痴など零しませんわ」
「っ……」
一瞬、ダリウスは言葉を詰まらせる。さては図星か。
「ったく……しょうがねぇだろ。俺だって、人のこと言えねぇんだから」
小さく舌打ちし、視線を逸らしてバツが悪そうに頭を掻いた。彼も少し前までいいように扱われていたことだし、思うところがあるらしい。
「だけど、俺には何もできねぇ。あいつが自分でどうにかしようとしねぇ限りな」
セシルが自ら立ち上がらなければ誰も救えない――確かにその通りだ。けれど、それをわざわざ私に伝えるあたり、突き放すふりをしながらも放っておけないのだろう。
「貴重なお話、ありがとうございます」
「……おう。ほら、とっとと授業行くぞ」
そう。セシルにはまだ片付いていない大事なことがあった。それがバイオリン――つまり彼自身の内面にも関わること。
彼個人の問題は、まだ解決していない。忘れていたのはこのことだった。
なぜこんなことになっているかというと、仮面舞踏会の対応でそれどころではなく、しかもセシル自身は妙に協力的だったので、つい後回しにしてしまっていたせいである。
明確に敵対はしてこないものの、バイオリンは音も出せず、授業にもほとんど顔を出していない。エレナに肩入れする理由も分からない――このままでは、セシルはバッドエンド一直線だ。
早急に問題を解き明かす必要がある。だからこそ、ゲーム知識の先入観のないダリウスに頼ったが、手に入れたのは曖昧な手がかりだけだった。
「とりあえず、観察から……ですかね」
「なんか言ったか?」
「いえ、ひとりごとですわ」
見落としたものは、自分で取り戻さないと。まずは現実の彼を良く知ることから始めるしかない。
そうと決まれば、すぐに行動開始だ。
放課後、廊下でセシルの姿を見つけ、その背を追う。彼はバイオリンを大事そうに持ち、迷うことなく校舎の奥――講堂裏へと足を運んでいった。
「……本当に、ダリウスの言っていた通りですね」
人をこっそり追いかけるのは久しぶりだ。青の大精霊の際に使った認識阻害をかけ、建物の影からのぞくと、セシルは譜面を広げて腰を下ろした。
練習をするつもりだろうか。けれどバイオリンには触れず、譜面を指でなぞるばかり。長い沈黙の後、ふと顔を上げ虚ろな眼差しで空を仰いだ。
……やっぱりゲーム通り、ケースを開けることすらできていない。
観察を続けていると、セシルが諦めたように長く息を吐き、腰を浮かせかけた――そのとき、足音が近づき、彼の背に影が落ちた。
「やっぱりここにいらしたんですね」
立ち上がり振り返った彼の前に現れたのはエレナだった。
「……エレナ」
「またひとりで練習ですか?」
彼女の声は柔らかい。だが、その端には『まだ弾けないの?』という含みがあるように聞こえた。
「いや、練習ってほどでも」
セシルは言葉を濁し、俯くように視線を逸らした。
「なら、少しお願いしてもいいですか?」
「なんだい?」
エレナは小瓶を取り出し、彼に差し出す。中には細い植物が入っていた。
「これは?」
「偶然、良い薬草が手に入ったんです。せっかくなので次の合同実習の時にルージュ様にこの薬草を渡していただけませんか?」
「……これをどうしてルージュ様に?」
セシルの言葉に、エレナは困ったように首を横に振った。
「ごめんなさい。理由を言っても、信じてもらえないかもしれません。でも、どうしても必要なことなんです」
「……」
「もしかして、嫌ですか?」
エレナは残念そうに目を伏せた。その仕草に、セシルの肩がびくりと震える。
「嫌じゃないよ。ただ……」
「これですか?」
薬草を指差して言いよどむ彼の言葉を、エレナは小瓶を掲げて微笑むことで遮った。
「珍しい薬草ですよね。でも、私、きっとルージュ様に嫌われているから、直接は渡せなくて」
だから『見つからないようにこっそり渡してほしい』と彼女は続ける。
「やっぱり、ダメですか? でも、誰かがやらなきゃならないことなんです。だから、お願いしたいんです」
「それは――」
セシルは口を開きかけて、結局その言葉を飲み込んだ。
「……それで、君は満足できるのかい?」
「もちろんです!」
「……わかった。それなら、僕がやるよ」
「! ありがとうございます!」
エレナはぱっと花が咲くような笑みを浮かべ、セシルの手に小瓶を押しつけた。
「よかったぁ。じゃあ、お願いしますね、セシル様っ!」
セシルの肩がびくりと震えた。だが、エレナの笑顔に押し流されるように視線を落とし、抵抗する術もなく、黙って頷くしかなかった。
その様子を見た彼女は満足げに微笑み、足取り軽く去っていく。
「……」
その背を見つめ、セシルは握りしめた指先に力を込める。『これでいい』と、自分に言い聞かせるように。
……。
「そうなるかぁ……」
思わず頭を抱えた。
先ほどの様子からすると、セシルはあの草の正体を知っているのだろうし、本当は断りたかったのだろう。けれど、今の彼には簡単なことではない。結局、セシルは理由すらよく分からない説明でエレナに言いくるめられて頷いてしまった。
そして、あの草だ。あれは、近くで特定の属性の魔術を使うと発火する性質がある。本来、私が主人公に仕掛けるはずだった嫌がらせの材料だ。
ゲームでは、ルージュの細工で実習用の薬草に紛れ込んでいた。それが授業中に暴発し、エレナの失敗を演出する展開に使われたのだ。
今回は、それをエレナが私に向けてきた。……なんとも分かりやすいやり口だ。
だけど、原作のルージュに関する知識はある彼女がこの出来事を利用してくることは予想済みなわけで――
「――それで、お前はどう動くつもりなんだ?」
「っわあ!?」




