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仮面舞踏会を終え、次の放課後。
「何か言うことはないか?」
「すみませんでした!」
目の前で腕を組むアルバートに、私は深々と頭を下げた。
今日の学園は驚くほど平穏で、生徒たちはもう舞踏会の騒ぎを忘れたかのように笑い合っていた。多少のイレギュラーはあったものの、大きな混乱は残らなかったらしい。
それに安堵したのも束の間、アルバートから呼び出されてこの場にいる。つまり、これから説教タイムが――
「反省しているのなら、それで十分だ」
「……えっ?」
あまりにあっさりした返答に思わず顔を上げる。小一時間は叱られると覚悟していたのに。
「どうした?」
「い、いえ……怒らないんですか?」
「ああ、怒らない」
……本当に?
いや、油断は禁物だ。何か裏があるのかもしれない。まさかこの腹黒王太子、ここぞとばかりに私の弱みを握って――
「……さては、俺のことを疑っているな?」
「そ、そんなわけありませんよっ!?」
「はは、図星か」
彼は口元を緩め、からかうように笑った。その軽さに戸惑ったのも束の間、すぐに真剣な声音へと戻る。
「ルージュが考えた最善手がこれだった。それだけのことだろう?」
おそるおそる頷くと彼は続ける。
「ならば、それでいい。俺は信じると決めている」
まっすぐな眼差しに、思わず息を呑む。
「それを覆すようなことはしない。俺にできることは全面的に協力するだけだ」
「アルバート……」
彼には、あらかじめイベントの流れを伝えてあった。黒幕が退くタイミングで、選ばれなかった攻略対象が現れることも含めて。
実際、彼は十分すぎるほど動いてくれた。会場を落ち着かせ、私が仕込んだ髪飾りの意図を瞬時に理解し、しかも一番欲しいタイミングでボス戦の場に現れてくれたのだから。
このイベントをシナリオから大きく外れずに切り抜けられたのは、彼のおかげだ。
「……いつもありがとうございます」
「ああ、どういたしまして」
感謝を告げると、彼はふっと苦笑いする。
「だが、気が気ではなかったぞ。次は先に言ってくれ」
「承知です」
止めるつもりはないから安心してくれと彼は続けた。
「さて……ここからが本題だ」
「なんでしょう」
「改めて今回のイベントについて、詳しく教えてもらおうではないか!」
「いつものやつですね」
身を乗り出し、先ほどと打って変わってキラキラとした目を向けてくるアルバートに肩の力が抜ける。
……まあ、イベント終わりだし、そんな気はしていた。とはいえ私も話したいことは山ほどあるので、彼の向かいに座り姿勢を正す。
「ではまずはセシルから……彼はあの後、大丈夫そうでしたか?」
「ああ。だいぶ疲れているようだったが、大きな問題は無さそうだったな」
今日はめずらしく授業にも出ていたとアルバートは言う。あの夜、セシルはかなり魔力を消耗していたはずだが、案外平気そうだったらしい。MPが高めのステータスのおかげだろうか。
「まさか俺やダリウスではなく、セシルを引き当てるとはな」
「実はゲームでは、彼が一番の当たりなんですよ」
「そうなのか?」
ゲーム内では、セシルを引くとひたすらデバフと回復を繰り返す展開になる。地味だが安定感は抜群で、クリアを目指すだけなら大当たりだ。……ただし時間だけは膨大にかかるので、RTA走者にとっては最大の敵だったり。
「というわけで、安定感だけなら随一なんです」
「なるほどな」
実際、今回の場合も彼のデバフがなければ、あの黒幕の魔術を砕けなかっただろう。彼が協力的で助かった。
あの場での私は、ただの『モブ令嬢』にすぎなかったはずだ。それでも彼は嫌な顔ひとつせず、当然のように手を貸してくれた。……やっぱり、そういうところが彼らしい。
だからこそ、この舞踏会に仕組まれた意味も、ようやく見えてきた気がする。正体を隠していても人の本質はにじみ出る。セシルが言っていたのは、きっとこのことなのだろう。
「ところで俺は?」
「アルバートを引いた時は攻撃力を活かして短期決戦を狙います。拳で」
「拳」
武器がないので仕方がない。美貌の王太子がひたすら腕力で押し切る光景は正直面白かった。
……アルバートがどこか遠くを見ているが、ひとまず話を戻そう。
「あとは黒幕についてですが、流れはおおよそゲーム通りでしたね」
舞踏会といえば、あの黒幕だ。結局あのまま逃げられてしまい、手先も全て消えてしまったが、これは原作通りなので問題ない。むしろそうでなくては困る。
「しかし、ルージュを『精霊の姫君』だと誤認したまま、と」
「それなんですよね」
結局、誤解は解けないままイベントが終わってしまったのだ。だから彼は、いまだに私……というか『あの夜の令嬢』を『精霊の姫君』だと信じている。
それが吉と出るのか、それとも凶と出るのか。今はまだ判断できない。
『――今日のところは引きましょう。次は、必ず』
あの憎悪に満ちた声音を思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。あれはただの捨て台詞じゃない。執念そのものだ。
彼とはまた必ず、どこかで相まみえる。
……ならば、その時に備えて今のうちに動かなければ。
「すみません。少し用事を思い出しましたので、今日はこの辺で失礼しますね」
「用事?」
「ええ、ちょっと……危ない橋を渡りに」
簡単に事情を説明すると、アルバートは目を丸くして固まった。その顔を横目に、私は微笑んで立ち上がる。
「続きは明日、またここで」
アルバートと長話したせいで、すっかり陽は傾いていた。石畳には赤い光と長い影が伸び、街全体が別世界のような色合いに染まっている。
私の目の前には、とある建物――学園から少し離れた王都の路地裏に今回の目的地があった。
「遅くなっちゃいましたけど、まだ大丈夫ですよね……?」
入口に目を向けると、古風な木製の扉に吊るされた札には『OPEN』の文字。よかった、まだ開いている。
……でもめちゃくちゃ入りにくい。
ひっそりと構えるその二階建ての店は、周囲の商店とはまるで違う気配をまとっていた。灰色の石壁には蔦が絡み、窓には色硝子がはめ込まれている。
いかにもファンタジー世界らしい建物だが……どう見ても、ただの店には見えない。周りの他の店と比べて明らかに異質で、『何かある』雰囲気だ。
……まあ、実際その通りなのだが。内情を知っているからこそ、余計に入りにくいのだ。
でもここでずっと躊躇しているわけにもいかないわけで。
深く息を吸い、胸の鼓動をなんとか抑える。緊張するけど大丈夫。ここで詰むことはない。
「……よし」
扉を押し開けると、鈴の音とともにひんやりとした空気が肌を撫でた。薄暗い店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
「いらっしゃいませ。……おや、これは珍しいお客さんですね」
カウンターの向こうに立ち上がったのは、緩く編まれた長めの薄紫の髪を肩に流した男。その背後には整然と陳列された商品が所狭しと並んでいる。
「ごきげんよう。こちらに良い魔道具屋があると、お噂を耳にしましたの。よろしければ、いくつか見せていただいても?」
「ええ、ぜひ。こちらへどうぞ」
あの夜とは違う、穏やかな笑み。その中性的で整った顔立ちも、今ならはっきりと認識できる。
……そう、お察しの通り。この店は仮面舞踏会イベントを越えた先で解禁される特別な魔道具屋。
そして目の前の男こそ、例の黒幕なのである。
再会が早すぎにもほどがある? それはそう。だけど、私は勢いだけでここに来たわけじゃない。
店の奥へと私を案内しながら、彼は柔らかな声で問いかけてくる。
「もしかして、何かお目当てのものでも?」
「ええ、ありましてよ。……あなたにしか用意できない、とっておきの品が」
微笑みを浮かべつつ囁くように告げると、彼はゆるやかに目を細め、「それはそれは」と口元をほんの少しだけ吊り上げた。
「そちらを見せていただけるかしら?」
「もちろん構いませんよ。……あなたが望むのでしたら、ね」
その含みのある言葉に内心口角が上がる。
彼はラリマー侯爵家と繋がりがある。ならば侯爵令嬢である私を認識していると予想していたが、どうやら正解だったらしい。
つまり、彼にとっての私はかなりの上客にあたる。
それだけではない。当然だが、こんなに早く『あの夜の令嬢』と再会するなんて彼は夢にも思っていないはず。
先日のように『大精霊の加護』を見抜くためには特別な魔術が必要で、その発動は容易ではない。それに、あの会場の認識阻害は彼にも作用していた。私が彼を誤認させるために演技をしていたこともあり、本来の私の顔も声も、そして人柄も割れていないに等しい。
それゆえに今の私と『あの夜の令嬢』を結びつけるのは難しい。つまり、まだ正体はバレていない。
だからこそ、今は私が有利に動けるのだ。
……このチャンスを逃すつもりはない。
「こちらです」
彼に案内され、店のさらに奥へと進む。幾重にも仕掛けられた鍵が外され、重厚な棚の扉が彼の手で静かに開かれていく。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください。……ルージュ様」
彼はこちらを振り返り、意味ありげに目を細める。私はその視線を真正面から受け止め、口元に笑みを浮かべて応えた。
利用できるものは、徹底的に利用する。
――この物語の悪役同士、せいぜい仲良くさせてもらいましょう。




