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【セシル視点】
次の登校日。その日はなんとなく、普段なら出席すらしない授業に出てみようと思った。明確な理由はないけど、なんだか落ち着かない気分を振り払いたかったのだ。
結果は案の定、半分も頭に入らなかった。教室の空気を感じながら過ごすのは悪くなかったけれど、どうしても胸のざわめきが収まらない。
「……」
静けさを求めて屋上へと足を向ける。柵に手を掛け、ぼんやりと空を仰いだ。日が長い夏だからか、夕方でもまだ空は広く、どこまでも青い。けれど、その青さが今日はやけに遠く見えた。
普段なら、授業よりもこの静けさの方がずっと心地よかったはずなのに、今日はどうも違うらしい。
飛んでいく鳥を眺めながら、今朝の教室の様子を思い返す。クラスメイトたちは最初こそ舞踏会での騒ぎを面白がって話題にしていたが、半日もすればあっさりと落ち着いてしまった。
結局、僕たちにとっては命懸けの戦いだったけれど、生徒たちにとっては『ちょっとスリルのある楽しいイベント』でしかなかったようだ。裏で起きていたことを知らなければ、無理もないだろう。
「セシル様」
背後から声をかけられ、振り返る。そこには、髪を風に靡かせるエレナが立っていた。
「……エレナ」
「ここにいたんですね」
彼女は「探しました」と続け、柔らかな笑みを浮かべながらこちらに近づく。その姿が眩しくて、見慣れているはずなのに、少し近寄りがたい気持ちになる。
「どうかしたのかい?」
「あの……舞踏会、大丈夫でしたか?」
そう切り出した彼女の声色は、思ったよりも真剣だった。
「ダリウス様から聞きました。セシル様はあの時……誰かと一緒に戦っていたって。それで、怪我したりしてないか、ずっと気がかりで……」
彼女はこちらを案じるように瞳を伏せ、眉根を寄せる。
「心配してくれてありがとう。怪我はしてないから、安心して」
そう答えると、表情がぱっと緩んだ。
「よかった……」
その笑顔を見ていると、不思議な感覚に襲われる。温かさと同時に、なぜかほんの少しの違和感が胸に残った。
……舞踏会、か。
あの夜の光景が脳裏に鮮明に蘇る。明かりが唐突に消え、会場が闇に包まれた。誰かの悲鳴が響く中、気がついたときには、一人の令嬢の手を取っていた。考えるより先に、そうしていた。
なぜか分からない。ただ、彼女と共に逃げなくてはならないと思ったのだ。そこから先は怒涛の展開で――
「そういえば、エレナはあの時、大丈夫だったのかい?」
「はい。……暗くて少し怖かったですけれど、大丈夫でした。一緒に居てくれた方がいたので」
もしかしてエレナの身にも危険が迫っていたのではと不安が過ったが、杞憂だったようだ。誰かが側にいたのなら安心だ。
万が一、エレナがあの男と一人で出会ってしまったら、『精霊の姫君』だと知られてしまったら、おそらくひとたまりも無かっただろう。あの男はそれくらい強かった。魔術をかわすだけで精一杯で、こちらの一撃などほとんど通じなかった。
そうすると一つ疑問が残るのは、あの令嬢の存在だ。
あの男に一撃で痛手を負わせ、退けるほどの実力。そんな力を持つ令嬢が学園にいただろうか。同じ学年の生徒のはずなのに、誰一人として心当たりがない。
……彼女は一体、誰だったのだろう。
会場にかかっていた魔術のせいだろう。彼女の輪郭は、思い出そうとするたびに霧散し、追いかければ追いかけるほど遠ざかっていく。
ただ一つ思い出せるのは、その目だった。
『――あなたの力は誰も傷つけずにいられる、素晴らしい力です』
彼女と目があった。あの時の瞳の光だけが、妙に焼き付いて離れない。
……あの目は、どこかで――
「……ルージュ様?」
いや、違う。違うはずだ。思わず口にした名を、頭を振って否定すると、すぐ傍らでエレナが小首を傾げた。
「ルージュ様って……もしかして、あの人に何かされたんですか?」
「……あ、いや、」
不安そうな声に肩が跳ねた。そうだ、彼女はルージュ様を苦手としていたはずだと思い出し、焦りを隠すように言葉を続ける。
「あの会場、魔術のせいで皆の顔はよく分からなかったけど、ルージュ様なら普通に立ってるだけでも目立ちそうでしょう? でもそんな感じの人は見かけなかったなぁと思ってね」
「もしかしたら、参加してなかったのかもしれませんね」
確かにそうかもしれない。そういえば、彼女が舞踏会に姿を見せたことは、これまでほとんどなかったはずだ。好まない場ならば、あの令嬢が彼女である可能性は低いのかもしれない。
「じゃあ多分いなかったんだね」
「きっとそうですよ。……なんだ、ここは変わってないんだ」
「……え?」
ぼそりと呟かれた言葉が耳に入る。何を指しているのか理解できずに咄嗟に聞き返すと、彼女は小さく笑って囁いた。
「だって、本当は私が戦わなきゃいけなかったのに、ずっと端で待ってたら回避できちゃったんだから。もっと色々変わっててもおかしくないって思うでしょ?」
……エレナが戦わなければならなかった?
その言葉の意味を理解できず立ち竦む僕をよそに、彼女は続ける。
「それに、暗くなった時もダメ元で隠れてたら他のキャラでシナリオが進んだみたいだし。このゲームってこんなにバグが多かったっけ……?」
「その、バグっていうのは」
「えーと、なんだろ。何かの間違いとか、ちょっとした綻び……だっけ?」
間違い? 綻び?
まともに聞き返すこともできずにいると、彼女は照れ隠しのようにはにかみながら「こんなこと言っても分からないよね」と言って肩を竦めた。
「ゲームと色々違ってて意味わかんなかったけど、こんなバグなら悪くないかな。お陰で怖い思いしなくて済んだし」
……この人は、さっきから何を言っているのだろう。
「もしかしてこの調子なら、案外簡単にクリアできちゃったりして?」
難しい話ではないはずなのに、何も理解ができない。彼女はただ可憐に笑っているだけなのに、知らない人間を前にしているような錯覚を覚える。いつも通りのはずなのに、強烈な違和感が拭えない。
そして、ふと気がついた。彼女の言い方はまるで、
――最初から事件が起こることを知っていたみたいじゃないか、と。
「――!」
その瞬間、背中に寒気が走った。
見ないふりをしていた小さな不信感がどんどん大きくなる。彼女は、何をどこまで知っているのだろう。
「っ、それは、」
問い詰めれば何かが分かるかもしれない。けれど、
「……それは、良かったね」
その先は結局口にしなかった。ただ肯定を返すと、彼女は嬉しそうに笑う。
問いただすことは簡単だ。けれど、聞いてしまえば、二度と今の関係には戻れない。真実を知るよりも、こうして側にいてくれる彼女を失うことの方が怖かった。
こんな臆病な自分が改めて嫌になる。
「そうだ! セシル様、これから時間ありますか? 学園の近くに新しいカフェができて――」
僕の内心を知ってか知らずか、彼女は子供のような弾む声で無邪気に次の話題を振ってくる。まるでさっきのことは何もなかったかのように。
「大丈夫だよ。せっかくだし、今から行こうか?」
「やったあ、ありがとうございます!」
彼女が笑って僕の手を取る。その手の温もりが、なぜか冷たく思えた。
……あの男は誤認していたが、『精霊の姫君』はエレナだ。なのに、最も強い加護を持つのは、あの謎の令嬢だと言った。
その矛盾が示すものは、僕にはまだ、何一つ掴めない。
だけどきっと、何かがずれているのだろう。
見上げた空は澄み切って青い。けれど、その青のさらに奥に、どこまでも深い闇が潜んでいるように見えた。




