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黒幕が片手をひらりと翻した瞬間、紫がかった衝撃波が空気を切り裂き、セシルめがけて走る。
「くっ!」
彼はギリギリで身を捻り、滑るように床を蹴ってかわす。反撃に淡青色の魔力を撃ち込むが、黒幕は一歩も退かず、傷一つ負っていなかった。
「弱いですね。その程度の力で、私を止められると本気でお思いです?」
「……っ」
黒幕が口の端を持ち上げ、嘲笑する。セシルは眉間に皺を寄せ、一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「そんなこと、やってみなければ分かりません」
「はは……それはそれは」
けれど黒幕はさらに楽しそうに笑うだけだ。私はセシルの腕を軽く引き、数歩後ろへ下がる。
……さて。なぜ、この黒幕をここで倒してはいけないのかといえば答えは単純。物語終盤に必要になる人物だからだ。ここで倒せば展開が狂うため、絶対に生かさねばならない。
ゲームでの彼は現時点は倒せず、一定のダメージで自動的に撤退する仕様があったが、今は現実。鍛えた私の力なら、うっかりすれば普通に倒してしまう。それゆえに私は迂闊に動けない。
加えて、もう一つ問題がある。
「これならどうです!」
セシルが指先を鳴らす。魔力が走り、黒幕の足元に現れた魔法陣から光が伸びて絡みつく。だが――
「悪くない試みですが、」
そう言って黒幕が軽く手で払うと、その光はあっさりと散った。
「なっ……!?」
「小細工は効きませんよ?」
そう。この黒幕、ボス仕様なので妨害に対してかなりの耐性があるのだ。
飛んでくる魔術を回避し、体勢を立て直す。ちらりとセシルの様子を見ると、額に汗が滲み、息は荒い。得意の戦術が通じず、しかもレベル差もある。今の彼には荷が重い相手だ。
……ならば私はどう動くべきか。武器はない。使えるのは体術と魔術だけ。呼吸を整え、次の動きを思案する。
――よし。
「……耳を貸してください」
セシルの耳元に顔を寄せ、小声で簡潔に指示を出すと、戸惑いながらも彼は頷いた。
「こそこそと何をなさっているのか知りませんが、準備はもうよろしいですか?」
黒幕の声は絹のように滑らかだが、視線は冷たい。足元に淡い紋章が浮かび、照明を受けてじわりと紫を帯びていく。
「来ます!」
黒幕がセシルに向けて攻撃しようとした瞬間に合わせ、私は魔術を放った。直線的な一撃は黒幕の肩口に命中し、小さく火花を散らす。
「効きませんね」
彼は軽く眉を上げただけで、『その程度か』という目をした。……でもこれは作戦の内。そのまま油断していてくれればいい。
流れはこうだ。まず、黒幕の注意をこちらに引きつけ、セシルへの攻撃を防ぐ。そして次に――
「こちらです」
「ああ、またです? 私にそんなものは……っ!?」
セシルの声とともに霧のようなものが黒幕の周囲に浮かび上がる。それが絡みつくと、黒幕に集められていた紫の光が揺らいで弱まった。
「……なるほど、そういうことですか」
黒幕の瞳が不愉快そうに細められる。
そう。これは直接拘束するのではなく、魔力の流れを鈍らせる――攻撃力を下げるデバフ。実は拘束は弾かれるが、これは通るのだ。これで危険度が大幅に下がる。
耐性はあっても、完璧ではない。穴があるなら、そこを突けばいい。
あとは守りに徹しながら撤退するまで地道に削るだけ。……戦い方が地味過ぎる? 無事に勝てればいいのだ。
「……小賢しい真似を」
黒幕の口元が憎々しげに歪む。
「つまらない感想は結構です。それより、あなたの目的はなんですか?」
「おや、まだお分かりにならないのですか?」
眉を顰めながらセシルが問いかけると、黒幕はめんどくさそうに口を開いた。
「簡単なこと。この国から『精霊の姫君』を奪うことですよ」
「……『姫君』を……?」
セシルが何か言いたげにこちらを見たので首を横に振る。流石に私がエレナではないことくらいは既に察しているだろう。
それに、ここまで来たら『エレナのフリ』の目的は達成している。黒幕を欺き続ける必要もないわけで。
「申し訳ございませんが人違いです。私は『姫君』では――」
勘違いと分かれば穏便に退いてくれるかも――そう思った矢先、耳に聞き捨てならない言葉が飛び込んだ。
「おや、嘘はいけませんよ。大精霊の加護が最も強い女性が『姫君』でないはずがないでしょう」
想定外の言葉に思考が止まる。
「……最も強い?」
「ええ。あなたの持つ加護は群を抜いている……それが答えではありませんか?」
私がエレナより強い加護を持ってるってこと? そんなはず……いや、待て。
『――あ、そうだ。君にはオマケも付けといたよ』
脳裏に青の大精霊の軽い声が蘇る。あれか。オマケの分で加護が上乗せされていたら、そりゃ一番になるじゃないか!
完全に忘れていた……こうなると勘違いを解くのは難しいだろう。仕方ない、もう今は私が『精霊の姫君』ってことでいいです。この先のことを考えるのは後回しにして話を戻そう。
「……手を引いてはいただけないのですね」
「ええ、もちろん。……無駄話はこの辺に。どうやら、少々お遊びが過ぎたようです。こちらに来る気は起きましたか?」
「いいえ。お断りします」
「それは残念です。……ふふ、私としてはそれでも構いませんが」
「え?」
いいの? 言葉の意味が分からず黒幕の顔を見て……背中に寒気が走った。
「なぜなら――最悪、消してしまってもいいのですから」
……私たちを見るその目が、いつの間にか獲物を測る狩人のものに変わっていたのだから。
黒幕の手のひらに集まった紫の光が、強く揺らめきながら脈打つ。空気が唸り、足元の床石がわずかに震えはじめた。
「な、なんで……?」
……待って、ゲームとシナリオが違う。
いやそれより、この予備動作。見覚えしかない。
私の目の前で紫の魔力が確実に形を成していく。これは間違いなく、この黒幕最大の魔術。だけどそんなはずはない。本来なら、まだ使われないはずだが……まさかゲームでは、手加減していただけってこと? 嘘でしょ?
……どちらにせよ、まずい。これが来たら終わる。少なくともセシルが耐えられるような威力じゃない。
「っ、下がって!」
セシルの前に出て魔力を練り、発動を阻止しようと試みる。だけど黒幕の詠唱は淀みなく、魔力が刃のように研ぎ澄まされていく。
――ダメだ、これじゃ間に合わない!
「――破滅を知れ」
最後の音が広間に落ちた瞬間、紫黒の波が押し寄せ、照明が色を失ったかのように錯覚する。広間の温度が急降下し、耳の奥でキンと高い音が鳴った。
空間ごと呑み込むような重圧。攻撃力を下げても、なお桁が違う。食らえばタダでは済まない。
考える前に床を蹴り、右手に魔力を込める。
だって、止められないなら――砕くしかないじゃないか。
……でもこの技を使えるということは、黒幕のレベルが想定より高いかもしれない。だとしたら私の力でいけるだろうか。
そんな不安が胸の奥によぎった時、ふいに目の前の魔術の波が揺らぎ、勢いが一回り削がれた。
「! これ……!」
攻撃力低下のデバフ!? 追加で発動してくれた……?
――ナイス、セシル! これならばいけるはず!
私は全力で魔力を練り上げ、そのままの勢いで光に叩きつけた。
『――』
その瞬間、音が消える。
そして一瞬の静止の後、ガラスを叩き割ったような破砕音が広間を裂いた。紫黒の塊が、内側から弾け飛んでいく。
「!? ……馬鹿な!」
黒幕と私の間に、色を失った光の欠片が、はらはらと舞い落ちていく。どんな強い魔術でも、砕ければただの魔力の屑だ。
「――」
セシルが息をのむ音が耳に入った。彼の視線が私に突き刺さるのを感じるが、今は構っている暇はない。
魔術を粉砕したなら、次は本命。私は腕をひねり、砕けた光の流れをそのまま導線に使って魔術を一直線に通した。
「は――」
驚愕をその目に浮かべた黒幕の元へ、閃光が走る。
回避されるだろうか。いや、それはない。あれだけの大技を放った余韻が残っているなら、確実に反応は半拍遅れる――
「ぐぁ!? あ……がっ……ぅぅぅ……ッ……!」
――直撃。黒幕の身体がのけぞり、肩口から赤が飛び散った。
その体から紫の光が離散し、広間が静まり返る。
……。
……あ、やばい。やりすぎたかもしれない。
咄嗟のことだったから、加減がきかなかった。
「……っ、こんな、はずは……!」
恐る恐る覗くと、黒幕はふらつきながらもこちらを睨んでいる。良かった、倒れてはいない。なら大丈夫……だろうか。
ゲームより明らかに深手を負わせてしまった気がするが、このダメージではまともな反撃はできないだろう。
肩から力が抜ける。散った光がまだ雪のように舞っている中、足音と視線を感じ横を見れば、セシルの瞳が驚きで開いていた。
「君は、一体――」
「そこで何をしている!」
セシルの問いかけを遮るように反対側の通路から声が飛んできた。目を向けるとアルバートとダリウスが入ってくる。
それを見た黒幕は舌打ちし、私たちから距離を取った。
「……っ、今日のところは引きましょう。次は、必ず」
その声と同時に、広間の照明がふっと落ち、闇が一瞬で視界を奪った。
数秒の後、すぐに明かりは戻ったが、もうそこに黒幕の姿はない。代わりに、硬い床を蹴る足音だけが遠ざかっていく。
「くそっ、逃がすかっ!」
黒幕の背を追って踏み出そうとしたダリウスの肩を、アルバートが掴んだ。
「待て、今は追うな」
「だけど!」
「危険だ。追えば足をすくわれかねん」
ダリウスは歯を食いしばって止まる。
そうしているうちに、黒幕の気配は完全に消えた。イベントクリアだ。
でも、安堵している暇はない。イベントが終わったということは、会場の認識阻害魔術がもうすぐ切れるはず。その前にセシルから離れないと。
アルバートも『こっちは任せて、はよ行け』みたいな目でこちらを見てるし!
……ということで、私も逃げます!
「助けていただき、本当にありがとうございました! では、私は用事があるのでここで!」
「あ! ちょっと――」
深く礼をし、踵を返す。セシルの呼び止める声が耳に入ったが、散った光の粒子がまだうっすらと宙に舞っている中、私は振り返らず駆けだした。
――この時の私は気づいていなかった。
セシルがずっと私を見つめていたことに。




