72
「そろそろ時間ですわね」
幾つものシャンデリアが輝く大広間。普段なら息を呑む美しさも、今夜はどこか空虚で、嘲るように私を照らしていた。
もうすぐ始まる――これはただの舞踏会なんかじゃない。
私は小さく息をつき、背後の気配に視線を向けることなく、静かに告げた。
「……さあ、行きましょうか」
そして一歩、音を立てぬよう、豪華な絨毯へ足を踏み入れた。広間の空気が変わる。冷たく、鋭く、何かがこちらを値踏みするような気配がする。
その瞬間、天井から舞踏会の開始を告げる鐘の音が響き渡った。
――時は遡り、数日前の放課後。いつもの部屋で私たちは向かい合っていた。
「ルージュのところにも来たか」
「はい、もちろん」
私は封筒を指先でひらひらと振る。その表面に刻まれた仮面の紋章が、窓からの光を受けて妖しく光った。
「三年生全員に配られてるみたいですね」
そう言いながら、記憶が自然と今日の昼下がりへと引き戻されていく。
――教室の窓際に初夏の光が落ちる中、同じ封筒を手にした生徒たちがざわめいていた。
「あなたにも届いていましたのね」
「ええ。けれど、差出人の名前がなくて……」
扇子で口元を隠した令嬢が、ちらりと隣の席を覗く。その手紙は貴族の社交界への正式な呼び出しのようで、しかしどれも差出人の名がなかった。
「たちの悪い悪戯かしら。だけど、この封蝋の紋章……どこかで見覚えがある気がするのよね」
「うちの執事も同じことを言っていましたわ。昔の名門に似た意匠だと。でも……」
彼女たちの間に小さな沈黙が流れる。それ以上、誰も明言できないのが不気味だった。
招待状には、『今宵一夜限りの舞踏会へのご招待』と記されている。しかも、会場は王都郊外の古い迎賓館。日頃は立ち入りが禁じられているような建物だった。
そして、さらに不思議なのはその注意書き。
「『仮面はご用意いただく必要はありません』……ですって」
「変ですわ。仮面舞踏会なのに、仮面はいらないなんて」
その場にいた誰もが、言葉にしないまま同じ違和感を覚えていた。
「もしかして主催者が用意してくださるのかしら」
「だとしたら残念ね。仮面を選ぶのも、楽しみのひとつですのに……」
令嬢たちが口々に不満をこぼす中、ひとりの令息が腕を組んで呟いた。
「……もしかして仮面をつけずとも、顔が見えなくなるような仕掛けがあるんじゃないか?」
その一言に、ざわりと教室の空気が動いた。
「でしたら、それは少し不気味ですわね……」
仮面ではなく他の仕掛け――もしかしたら、本当にお互いの顔も身分もわからない中で舞踏会をやるということになるのだろうか。だとしたらどのように?
ふざけた遊びのようでいて、どこか底知れぬこの招待状。誰が仕組んだものなのかもわからない。けれど、それがただの冗談で済むようなものではないということは皆、理解していた。
「でも……ふと、思ったの。少しだけ、夢みたいじゃありません?」
そんな緊張した空気の中、ひとりの令嬢が微笑んだ。
「素敵というのは……?」
「だって、まるでおとぎ話のようではありません? 正体を明かさずに出会う運命の相手なんて」
「確かにそうかも」
「言われてみれば面白そうね……!」
いつの間にか、先ほどまで気味悪がっていたはずの生徒たちは皆、彼女の言葉に興味をそそられ始めていた。
名も、顔も知らない誰かと踊る――まるで幻のような舞踏会。そんな非現実に惹かれてしまうのは、若さゆえか。それとも。
誰もがそれぞれの思惑を隠して仮面はなくとも仮面を被っている。この不思議な夜に、何が起きるのか。
そんな、期待と警戒の入り混じる空気で教室内は満たされていたのだった――
「――って感じでしたね!」
「妙に具体的な回想だな」
「ゲームとは違うクラスなのに、似たような話が持ち上がってたので、つい気になって」
私は苦笑しながら、再び目前の現実に意識を戻した。ちなみにその時の私は会話に参加せず、ずっと本を読むフリをして黙って聞き耳を立てていた。
「ゲームでもこんな風に、最初は誰もが警戒していたんです。でも気づけば、ほとんどの生徒が参加を前提に動いている」
「シナリオの都合か?」
「いいえ、ちゃんと理由があります」
私は少し声を潜め、件の手紙を持ち上げて光にかざす。すると、その全体からぼんやりと魔術の痕跡が浮かび上がった。
「……この手紙、触れた者の精神に干渉する魔術が掛けられているんです」
それは『対象に興味を持ってしまう』ような、魅了系の魔術。そして、その対象こそが、この仮面舞踏会。
それを聞いた彼はわずかに眉を動かした。
「なるほどな。だから、皆あっさり乗るわけか」
「そうです。なかなか巧妙に仕込まれてますよね。とはいえ、この程度の魔術はもう私たちには効きません」
この魔術に飲まれないほどレベルの高い者は、実際にはごく一部に過ぎない。三年生で完全に効いていないのは、私たちとダリウスくらいだろう。それ以外の生徒は大なり小なり影響を受けているはずだ。
「確かに俺はなんともないな。それで、この舞踏会だが……おそらく重要なイベントなのだろう?」
アルバートが低く問う。昼の光が彼の横顔に落ち、金糸のような髪がわずかに揺れた。
「ふふふ……アルバートも随分と勘が良くなりましたね」
「どう考えても何かあるだろう。この感じは」
それはそうである。明らかに怪しすぎる。何もなかったら逆に驚くレベルだ。
「お察しの通り、今後を左右するほどの重要なイベントです」
その言葉に、彼は口元が楽しげに緩ませ、改めて興味深そうに招待状に目を向けた。
「ところで、『仮面は要らない』とあるが、これは?」
「それはですね。会場では仮面で顔を隠す代わりに、『お互いが誰か分からなくなる』魔術が掛けられるんです」
「……なんと」
彼は驚いたように目を見開く。
たとえ顔が見えていても、声を聞いても、なぜかそれが誰か分からない。そんな魔術だ。見知ったはずの人が目の前にいるのに他人にしか見えない。そんな違和感の中で、踊る――
「待て……踊るのか?」
「あ、これは別に踊らなくても大丈夫なやつです」
私は意地でも踊らないのでご安心ください。と続けるとアルバートは苦笑した。いや笑うな。今回は絶対に踊らないから。本当に。フラグではなく。
「しかし、お互いが誰だか分からなくなる、か」
顔も、声も、仕草も。全てが曖昧になる。気づいたときには、誰かに心を許していた。でも、それが誰かわからない。
「つまり、いつの間にか警戒すべき相手に心を開いてしまうかもしれないというわけですね」
「……それは、確かに恐ろしいな」
彼の声が少し低くなる。その危うさを感じ取ったのだろう。
正直、普通の仮面舞踏会ならば、仮面を被っていてもなんだかんだ目の前の人間が誰だか分かっているのだ。暗黙の了解で分からないフリをするだけで。
だが今回はそうはいかない。そこにあるのは名前を失った人々の渦だ。
「……もしやこの魔術もレベルが高ければ回避できるのか?」
「難しいですね。原理的には私が使った認識阻害と似たものですが、今回は術者が強力でして」
実はこの魔術、複数人の術者が協力して会場全体を対象に掛けているのだ。したがって、ただレベルが高いだけでは簡単には打ち勝てない。
「なるほどな。ならば……受けて立つしかないか」
彼は諦めたようにため息をついた。
とある目的のために周到に用意された舞台だ。あの場には、真実を隠したい者も、暴きたい者も集まってくる。
仮面を使わず、認識を歪めることで、立場も身分も意味をなさない。
だからこそ――油断すれば本音が漏れる。
ルールを理解していない者には、それはただの変わった催しにしか見えないだろう。でも、知っている者、利用したい者にとっては違う。
政略、野心、秘密。それらを隠すには、あまりにも都合が良すぎる。罠も駆け引きも、いくらでも潜んでいるというわけだ。
「……ルージュ」
アルバートの低い声が、私の思考を現実へ引き戻す。
「なんですか?」
彼はしばし沈黙したあと、手元の封筒をなぞるように見つめた。
「お前は、もう知っているのだろう? この舞踏会で何が起きるのか」
「そうですね」
私が頷くと、ほんのわずかに彼の目が細められる。
「――では教えてくれ。この舞踏会の『本当の目的』を」