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「ここは……?」
目の前には古びた扉がある。かすかに風の音が聞こえてきた。
目的地も告げられず、ただ「着いてからのお楽しみだ」と笑ったアルバートに導かれ、王城の奥深くの見慣れない回廊や薄暗い階段を通ってここまできた。
「王族専用のバルコニーだ」
「私、入っていいんですか?」
「……誰にも言わなければバレないだろう?」
その言い方はダメな場合のやつでは?
なんだか急に不安になってきた私に対し、彼は囁くように続けた。
「大丈夫――俺たちだけの、秘密だ」
『影』もここまでは入れない。そう言って、いたずらっぽく笑い、突然私の手を取る。
「わっ!?」
「ほら、行くぞ」
そのまま私は彼に手を引かれて、前に踏み出した。
「ちょっ、ま、待ってくださ……!」
不意に触れた手の温もりに、頭が回らなくなる。心の準備なんて何もできていなかったから、私はただ素直についていくことしかできない。
そしてアルバートが扉に手をかけ押し開けた瞬間――まばゆい光が、私たちを包んだ。
「わっ、眩し……っ」
反射的に目を瞑る。そして、少しずつ目を開けて慣らしていくと、その光の中に世界が浮かび上がった。
「――!」
鮮烈な光景に、時間が止まったような錯覚を覚える。
王都の街並みが、陽光のなかで静かに広がっていた。まるで絵画の中に足を踏み入れたようだ。
「……綺麗」
私は呆然と呟いた。
視界のすべてを奪われるような絶景だった。風が髪をかき乱しても、それすらも心地よく感じるほどに、私はただそれに見惚れていた。
街並みの美しさだけではない。広場に目を向けると、そこに集まった人々の楽しげな姿が見える。賑わった店のパンや花の香りが風に乗って届きそうで。
「……王都って、こんなに綺麗だったんですね……」
――これがワールドマップの表示じゃない、本物の王都の景色。この街に命が宿っていると、そう改めて感じた。
「そうだろう。だが、ここからの眺めは、俺たち王族でも限られた者しか知らない。普段は鍵がかけられていて、滅多に開けることもないからな」
そう言いながら私の隣に来たアルバートは、静かに目を細める。太陽の光が横顔を照らすと、整った顔立ちが、少しだけ寂しげに揺らいで見えた。
「じゃあ、どうして私をここに?」
「それは……」
ずっと胸の奥でくすぶっていた疑問を、ようやく口にすると、彼はそっと目を伏せた。
「……」
時間が止まったかのような静けさのなか、風だけがそっと二人のあいだをすり抜けていく。
沈黙がだんだんと重くなり、その重みが不安に変わりかけた頃――彼は、少し困ったように、ふっと笑った。
「……お前なら、きっと喜ぶと思ったんだ」
そうこぼした彼の声は、いつになく控えめだった。彼の耳のあたりが赤く染まっているように見えたのは、気のせいじゃないと思う。
胸の奥がふわりとあたたかくなる。私のことを思って、彼がここに連れてきてくれた。
「だが、それだけではない」
彼は私から視線を外さぬまま、言葉を続ける。
「お前だからだ」
「……私?」
一瞬、意味がわからなかったが、彼のまっすぐな瞳には誤魔化しも躊躇いもない。
「ああ。ルージュがここに立っているのを、ただ見たかったんだ」
その瞳の奥に、自分が映っているのがわかって、私は思わず視線を離せない。
「……ルージュ。この景色は、好きか?」
優しく、確かめるような声。私はこくりと頷く。
「……はい。とても、好きです」
「良かった。……俺が幼い頃から好きだった景色なんだ。気に入ってもらえて、嬉しい」
その笑顔に胸が跳ねた。本当にそう思っているんだとわかる、優しくて嬉しそうな表情。
彼は冷静で、真面目で、それでいて少し影のある人だ。なのに今は柔らかくて、温かくて。
この人は――
「……そんな顔もするんですね」
思わず漏れた声に自分でも驚く。
「変だったか?」
「……いえ。ただ、少し、意外で……」
言葉を選んでそう返すと、胸の奥が妙にざわめいた。鼓動が速くなるのを誤魔化すように、手すりに視線を落とす。
変なのは私のほうかもしれない。そんなことを思いながら横目でそっと様子を窺うと、彼は少しだけ首を傾げつつ、
「意外、か。それも悪くはない」
と言って笑っていた。普段よりもずっと穏やかで、何も取り繕わない静かな笑み。
ゲームではもちろん、転生してからも彼とはそこそこ一緒にいる。でも、こんな顔は初めて見たかもしれない。
きっと彼には、私の知らない顔がまだまだあるのだろう。
――今の彼を、もっと見ていたい。
「――え?」
そんなことを思った自分に、少しだけ驚いた。
それはどういうことだろうかと、その感情を確かめるように再度、彼に目を向ける。
「……」
うん。見慣れたこのご尊顔……いや待って。改めてよく見ると、アルバートめっちゃまつ毛長くない? うそ、すごい、造形があまりにも美。この端正すぎる顔立ちに見惚れてしまうのも確かに無理はないというか――
「どうした?」
「!? な、なななななななんでもないですっ!?」
「なんでもない人間の反応ではないが」
「いや違っ……あ! ほら、あの塔、見えますか? あれって、時計塔ですよね!」
無意識のうちに顔をガン見してしまっていたらしい。なんでもいいから話を変えようと適当に目についた建物を慌てて指さす。
……どう考えても挙動不審です、はい。
そんなあからさまに話題をずらした私の様子に小さく笑いながらも、アルバートは空気を読んで少し身を乗り出して私の指し示す方向を眺めてくれる。
「ふふ、……そうだな、時計塔だな。もしやゲームの中では何か特別な場所だったのか?」
「はい。とあるクエストで爆破されかけました」
「……爆破?」
「しかもそのクエスト、何も考えずに挑んだら全滅確定のやつで」
「全滅」
「でも面白いですよ。攻略法さえ分かれば、めちゃくちゃ熱い展開で――」
そうやって、いつものように話しているうちに、だんだんと顔の火照りも落ち着いてきた。心臓の高鳴りも、会話の流れに隠してしまえた気がする。
気がつけば、景色はゆっくりと茜色に染まり始めていた。そろそろ戻ろうかと私たちはバルコニーに背を向けて歩き出す。
「……今日は来てくれて、ありがとう」
良い気分転換になったとアルバートは続ける。
「こちらこそ、色々な場所を案内していただけて楽しかったです」
「そうか。また、こうして来たいものだな。お前と、一緒に」
「そうですね、」
その声に、扉に向けていた足が、ふと止まった。
「……ルージュ?」
急に立ち止まった私を不審に思ったのか、アルバートは振り返ってこちらを見つめる。私は小さく息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「アルバート、私……今日、ここに来れて良かったです。それで、その……」
だけど、そこから先の言葉が上手く出てこない。もちろん、言いたい感謝の言葉がいっぱいあった。だけどそれだけじゃなくて、
この時間が終わってほしくない――もう少し、隣にいたい。
気がついたら、そんな我儘が喉まで出かかっていたから。
「……」
けれど私はただ、笑って小さく首を横に振った。そして、
「いえ……今日はありがとうございました」
また連れてきてください。そう言って、彼を追うように私は一歩踏み出す。
扉を閉める時、風が髪を揺らす音が、やけに心地よく耳に残った。
……翌日。まるで昨日の穏やかな時間が幻だったかのように、私は普通に学園に登校していた。
「……姉上」
「あら、ノア」
いつも通り教室前に向かうと、そこにはいつもと違い、久しぶりに見る義弟の姿があった。彼は私に気がつくと足早で向かってくる。
「ごきげんよう。わたくしに何か?」
「……これを。……姉上宛の手紙が屋敷に届いていました」
彼はそう言って私に封筒を差し出してくる。
なるほど。最近屋敷に帰ってなかったから見落としていたか。それにしてもわざわざ持ってきてくれるなんて優しすぎる推しである。
「ありがとう、助かるわ」
きちんとノアに礼を言って差し出された封筒を受け取る。そして何気なくそれに視線を落とし、私は目を見張った。
「……どうかされたのですか?」
ノアが無表情ながら少し不安げに私の顔を覗き込んでくる。無理もない。今の私は相当険しい顔をしているのだろう。
「……いえ、大丈夫よ」
そう伝えつつ、改めてそれに目を向ける。そこに書かれていた言葉は『仮面舞踏会』。
ああ――ついに、来たか。
思わず指先に力がこもる。このイベントはゲーム序盤の締め括り。物語が大きく動き出す分岐点だ。ただの冗談めいた社交会じゃない。
立場も関係も曖昧になり、欲望と陰謀が交錯する、一夜限りの舞台。
そして私は、知っている。
――この夜は『運命』が試されるのだと。