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【セシル視点】
その日、寮の部屋に戻ったあとだった。
扉を閉め、ベッドに腰を下ろした途端、どっと疲れが押し寄せた。はあ、と短くため息をつき、視線を彷徨わせる。
まともに勉学にも励まず遊んでるだけ。真面目に頑張っている人と比べてどう考えても楽に生きているはずなのに、気分だけはずっと重いままだ。
ふと視線を落とすと、部屋の隅に置かれたバイオリンケースが目に入った。
幾人かの手によって運ばれ、また自分の元に戻ってきたそれを見つめながら、小さく眉をひそめる。
「……戻ってきた、か」
良かったと素直にそう思った。けれど、それと同時に、ほんの一瞬だけ胸をよぎった感情がある。
――『いっそ、そのまま無くなってしまえば良かったのに』
その思考に気づいた瞬間、自分自身にぎょっとした。
「……なにを考えてるんだろうな、僕は」
思わず口に出す。そんなはずはないと思うと同時に、心のどこかで、それが紛れもない本音だと感じてしまっていた。
今でも不意に、あの日のコンクールのことを思い出す。
舞台の上で演奏を止められ、酷評された。観客の視線、審査員の冷たい言葉。張り詰めた空気の中で自分だけが置き去りにされていく感覚――それが、自分の音楽の最後だった。
あれからだ。バイオリンを弾こうとすると手が震えるようになった。最初は少し疲れているだけだと思った。でも何度やっても変わらない。
そして、いつしか弓を握れなくなり、ついにはケースを開けることすらできなくなった。だから今は、ただ惰性で持ち歩いているだけ。
向き合う勇気なんて、とうに失っていた。
「もう、ダメなのかな……」
誰にともなく呟く。部屋は静まり返っていた。窓の外では日が暮れていくが、灯りを点ける気にもなれず、部屋が徐々に薄暗くなっていく。
現実から逃げるように目を閉じる。
こんなにも苦しいなら、最初から別の道を選んでいれば良かったのか。両親の言う通り、文官になる道を目指すべきだったか。
全部、諦めた方が楽になる。それはわかっている。弓を握れば、また誰かに期待される。音を出せば、また何かを証明しなければならない。
ひときわ強い風が窓を揺らす。部屋に響いた音に、肩がわずかに跳ねた。
もし音楽が自分を縛るものなら、それでも、まだ好きだと言えるだろうか?
先ほどのエレナとのやり取りを思い出す。
放課後、校舎裏のベンチに座り俯いていた彼女に、そっと声をかけた。バイオリンの件でルージュ様に詰め寄った彼女は、言い負かされて朝からずっと元気がなかった。
「大丈夫だよ。無事に見つかったんだし、もういいんだ」
だから気にしないで、と続ける。泣きそうな顔をしていた彼女に、あえて問い詰めたりはしなかった。この出来事には彼女が関わっているのだと、内心では気づいていたのに。
しばらくすると彼女は少しだけ元気を取り戻したようで、顔を上げて言った。
「本当に戻ってきてよかったですね、セシル様。きっと、また弾けますよ」
それは優しい声だった。けれどその無邪気さが突き刺さるように苦しくて、思わず顔を背ける。
「ごめん……それはもう、無理かもしれない」
「え……?」
小さく問い返す声。その視線が、心の奥を見透かしてくるようで、胸が苦しい。
「怖いんだ。弾こうとするたび、あの時の記憶が蘇って。何もかも止まって、僕だけが取り残されて……あんな場所に、もう一度立つなんて想像もしたくない」
震える声を必死に抑えながら、ずっと隠してきた本心を告げると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「でも、それでも――バイオリンが戻ってきた時、セシル様は泣きそうな顔をしていました」
「えっ……?」
「ほんの一瞬でした。でも私、ちゃんと見てました。……きっと、戻ってきてくれて嬉しかったんですよね?」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
……嬉しい、だって?
そうじゃない。そうじゃないんだ。戻ってきたことは確かに救いだった。でも、それ以上に怖かった。手放せなかったのは、未練であって希望なんかじゃない。
「それは……」
違う、すぐにでも否定したい。けれどエレナの目があまりにもまっすぐで、言葉が飲み込まれていく。そのまま黙り込んだ僕をどう思ったのか、彼女はそっと目を伏せた。
「私、バイオリンのことはよくわかりません。でも、」
彼女は膝の上で握っていた手をそっとほどき、真っ直ぐに僕を見て続ける。
「セシル様が街角でバイオリンを弾いていたのを見たことがあるんです。あの時の音、今でも覚えてます。綺麗で、力強くて……心が動く音でした」
「……そう、だったのかい?」
「はい。昔、一度だけ。……だから、私も信じたいんです。セシル様が、音楽を好きだった気持ちを、また取り戻せるって。だって、あんなふうに弾ける人が、本当に嫌いになれるはずないですから」
好きだった気持ち。
――僕にとって、それが、今や一番信じられないものだというのに。
「っ……そっか、それならきっとまた弾ける」
無理矢理に絞り出した自分の声は、ほんの少しだけ震えていた。
「そう言ってくれて、嬉しいよ……ありがとう」
「良かったです! また演奏を聴けるの、楽しみにしてますね!」
ぱっと明るくなった彼女の表情に胸の奥に小さなささくれが刺さったような痛みが走る。どうしてそんなことを言ってしまったのだろう。嘘だとわかっているのに、口が勝手に動いた。
いや……もういいか。すべてを理解されることは、もう望まない。最初から都合のいい言葉を並べるほうがずっと簡単だ。
部屋の隅で、ケースの金具がわずかに光を反射していた。そこにぼんやりと映る自分の姿を見て、すぐに目を逸らす。
「……本当に、どうしようもない人間だな、僕は」
きっと正しかったのは、ルージュ様の方だろう。
そもそも仮にルージュ様が本当にバイオリンを持ち去った犯人だったとしても、少なくともあのように人前で晒し上げるようなことは良くない。本来ならばエレナの行動を窘めるべきだった。
あの魔術試験の時だってそうだ。暴走を止めようとしたルージュ様の妨害をするエレナに、自分は手を貸した。そうするように誘導された、と言うのは簡単だが、それは言い訳でしかない。最終的には自分で決めたことなのだから。
結果、そのせいでルージュ様とダリウス君を危険に晒したのだ。当然、後悔しているし、ちゃんと謝らなければならないとも思っている。でも、なんと言えばいいのか分からずじまいだった。
どうしてそんな判断をしてしまったのか、今でもわからない。でも――あの時は本当に、何も考えたくなかった。
全てが嫌で、逃げる口実を探していた。そこに手を差し伸べてきたのがエレナだった。そして『あなたのためだから』と言われれば、そうなのかもしれないと思ってしまった。彼女は誰よりも先に『大丈夫』と言ってくれたから、そんな存在に嫌われたくなかった。
……止めなければいけない。なのにできない臆病な自分が嫌になる。
机の上の楽譜が目に入る。埃をかぶったそれに手を伸ばしかけて、やめた。わずかに震えたその手は、結局膝の上で力なく握られるだけだった。
何度こうして繰り返しただろう。数ヶ月弾かなかっただけなのに、もう音が浮かばない。あれほど好きだった音楽に、今の自分は怯えていた。
音楽、エレナ、傷つけてしまった人たち。そのすべてから目を逸らし続けている。
……エレナは、この国を救う『精霊の姫君』という特別な少女だという。それが誰かの希望になるのだとしたら、こんな僕の存在はなんなのだろう。
彼女の行動の意図もよくわからない。なぜルージュ様に執着するのか。自分は彼女の言う通りに動いていて、それでいいのか。
今回も結局、彼女の思い通りにはいかなかったようだが、もし上手くいったらどうなってしまったのだろうか。
考えれば考えるほど、すべてが複雑に絡まり合って、何も解けないまま今日も終わっていく。
「僕は……どうしたら、いいんだろうな」
答えは、もう何度も嘘で誤魔化してきた。本当の気持ちなんて、もう自分でも分からないのかもしれない。




