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「ルージュ様。お話があります」
翌日、始業の時間を待っていると、教室の扉が静かに開いた。声に促されてそちらを向くと、そこに立っていたのはエレナだった。その背後にはセシルの姿もある。
「あら、エレナ様、ごきげんよう。何かご用かしら?」
私は自席に座ったまま、やっぱり来たな……と、内心で息を整え、二人と向き合う。エレナはそんな私を見つめ、どこか申し訳なさそうな、けれど譲る気のない表情で口を開いた。
「昨日、セシル様のバイオリンが見当たらなくなって……とても大切な楽器なので、ずっと探していたんです。それで、」
その表情は言葉と共に険しさを増していくが、彼女の声は抑え気味で、あくまで事情説明の体を取っている。
「放課後……ルージュ様がバイオリンを手にして、誰もいない廊下を歩いていくのをお見かけして。あの時は、てっきりご自身の物かと思ったんですけど……」
決して大きな声ではなかったが、それでも十分に教室中の視線を集めるには足りていた。
声を震わせながら、まるでわざと周囲に聞かせるかのようなその言葉に、私は静かに小さく息を吐く。
なるほど、今回はそう来たか。
昨日、教室の窓際に置かれていた楽器――あれがセシルのものだった。そして、おそらくエレナは私がそれを盗んだ犯人だと言いたいのだ。
ゲームでの私はセシルの楽器に嫌がらせをした。彼女は今まさにその展開に持ち込もうとしているのだろう。
でも今の私は何もしていない。ならば毅然とした態度で臨むのみだ。
「そちらの件でしたら、確かにわたくしが運びましたわ」
私が静かに応じると、セシルの眉がわずかに動いた。私は続ける。
「ですが、誤解なさらないでくださいませ。あの楽器はこちらの教室の窓際に無造作に置かれていましたの。誰かにいたずらされないよう、職員室に届けただけのことですわ。他意などは一切――」
「嘘をつかないでください!」
だが、私の説明を最後まで聞かずに、エレナははっきりと言葉を遮った。教室の空気が一気に緊張に包まれる中、私はゆっくりとまばたきをひとつ落とす。
「……嘘だなんて、心外ですわね。なぜそう思われたのです?」
「あ、ご、ごめんなさいっ。ルージュ様がそんなことをするとは思っていないです。でも、私たちもさっき確認しに行ったんです。職員室に」
あくまで穏やかに問うと、私の説明を遮った彼女の言葉は、丁寧で優しげだった。
「でも、そこにはなかったんです」
「なかった……?」
私は眉をひそめる。そんなはずはない。確かに職員室に届けたはずなのに、ないとはおかしい。
セシルの方に視線を向けると、彼もエレナの言葉に静かに頷いていた。
「それに、昨日、僕はこの教室には来ていないんだ」
彼の言葉が加わる。そこからなのか。つまり、バイオリンがここにあった時点で、私の説明にも矛盾が生じる。
「だから、私、混乱していて……どうしてそんなことに、と考えていたら」
エレナは小さく唇を噛むような仕草をした後、一歩、私の方へ進み出る。
「……本当に、ごめんなさい。疑うつもりはないんです。でも、状況が……重なってしまって」
不安そうな彼女の姿に周囲からざわめきが起こり始める。演技が巧みすぎて、本当に『心配してるだけ』にしか聞こえない。けれどその視線は、私を突き刺すように向けられているようにも見える。
彼女の狙いは明白。このまま私を犯人に仕立て上げたいのだ。
「――つまり、わたくしが嘘をついていて、セシル様の楽器を持ち去ったと言いたいと」
「いえ、そんなことは!」
私が静かに問い返すと、エレナは一瞬躊躇する素振りを見せてから、視線を伏せた。
「私は……ただ、真実を知りたいだけなんです」
うん、なるほど。『決めつけてはいない』という建前。これなら誰も彼女を責められない。
最初から全部仕組まれてたのだろう。私がセシルのバイオリンを運ぶように仕向けて、それを利用して私を陥れようと。
「……先ほど申し上げた通り、わたくしはこの教室から職員室へ運んだだけですわ。それ以外のことは誓ってしておりません」
冷静かつ明確に。感情的になったら負けだ。そう意識しつつ、はっきりと反論した、その瞬間だった。
「あ、あの……!」
教室の奥から、小さな声が上がった。
そちらを振り返り見ると、気弱そうな女子生徒が小さく手を挙げている。
「どうかなさいましたの?」
「……わ、私……昨日の放課後、ルージュ様が何かを持って中庭の方に歩いていくのを……見ました」
……はい?
一瞬、頭が真っ白になる。中庭は職員室とは逆方向。しかも私は昨日、そちらには一度も足を運んでいない。
つまり、この証言は明らかな虚偽だ。
信じられない思いでその生徒を見つめると、彼女は気まずそうに目を逸らした。……なるほど。そこまで手を回していたのか。
「中庭? そんなところに持って行って、何を……」
首を傾げながらそう呟いたセシルに対し、一人の生徒が不用意な言葉を放った。
「中庭だったら、もしかして、池に投げたとか?」
そのとんでもない一言で教室中の空気を変わる。ざわめきが一気に膨らみ、視線が私に集中する。
「池に? まさか、そんな」
「でも、中庭に行ったって証言があるなら……」
「バイオリンがなくなったのも事実だし、あり得る気がする」
……いや、この流れで池に投げ込むのは飛躍が過ぎない? もしかしてここではこんな足の引っ張り合いがよくあることだったりするの? だとしたら治安悪いな。
ともかく、元々エレナだけの言葉だけでは皆、半信半疑だった。だが、目撃証言という『事実』が加わったことで、彼らの想像が一気に確信へと変わってきているのだろう。
そして、まるで断罪の瞬間のように、生徒たちの視線が一斉に私へと向けられている。
――というわけで、結局またこの展開である。
かなり強引ではあるが、彼女は原作通り、私の悪行を断罪する流れに持っていくつもりらしい。
セシルルートでは、私は彼のバイオリンを学園の中庭にある池に投げ捨てる。それも彼の目の前で大胆に。
今回はそこまで忠実には再現できなかったのだろうが、それでも、似たような状況になるように細工されていたというわけだ。楽器に悪さをした私を、皆の前で追及するというシナリオに。
「……繰り返しますが、わたくしはそのようなこと、一切しておりません」
あまりに理不尽な展開だ。ため息を堪えながら、落ち着いた声で告げると、エレナは苦しそうに眉を寄せた。
「どうして、正直に話してくださらないのですか……? ルージュ様が楽器を持って中庭に向かうのを見た人がいるのに……」
「やってもいないことを認めるわけにはいきませんもの」
私がきっぱりと言い切ると、彼女は唇を震わせ、目を潤ませた。完璧だ。まるで『傷つけられた善意の少女』の顔。
「そんな……悲しいです。ルージュ様ならちゃんと話してくれるって、信じてたのに……」
予想はしていたが、彼女は私を陥れるためにかなり周到に準備をしている。偽の証言者まで用意できているということは、味方は攻略対象者やお助けキャラだけじゃないということ。さすがこのゲームの主人公、これはなかなかに厄介だ。
周囲からは、ひそひそとした声が耳に届く。
本当に私がやったのか疑いつつもこちらに冷たい目線を向ける者、許せないと怒りに震える者、どうせ権力で揉み消すだろうと呆れたような口調で語る者。
どう見ても教室の空気は完全にこちらに不利。周囲は完全に『ルージュ=悪者』の構図に傾き始めていた。
さて、どうしたものか。
あちら側には証言者がいて、私にはいない。圧倒的に不利な状況。
このままでは、私はゲームの通り『セシルへの嫌がらせのためにバイオリンを盗み、池に捨てたとんでもない悪女』として扱われてしまう――
なんてね。
証言者がいなくても決定的な証拠があればいい。そうでしょう?
口元をそっと手で覆い、その裏でこっそりと口角を上げた瞬間、
教室の扉が、静かに音を立てて開いた。
しばらくお休みしていましたが、本日から更新再開します。
これからは週2回くらいのペースでのんびり進めていきますが、引き続きよろしくお願いします!




