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「君、大丈夫かい?」
その声に恐る恐る目を開けると、そこには見覚えのある青年がいた。水色の長髪を緩く結び、柔らかい微笑みを浮かべている。
その顔を見た瞬間、息が止まった。
私は彼をよく知っている。いや、忘れるはずがない。この乙女ゲームの攻略対象者の一人。音楽家を志す青年。
――そして、あの時。エレナたちと共に私の魔術を妨害した張本人だった。
なぜこんなことになっているのか。それを説明するには少し時間を遡る必要がある。
エレナの衝撃的な言葉を聞いてから数日が経ち、六月になっていた。
ゲームの世界だからか、夏が始まっても適度な暑さと爽やかな風で心地よく過ごせている。だけど日差しは強いようで、学園内では窓から差し込む陽光が白い壁に反射して眩しい。
そんな中、私はここ数日の出来事を整理しながらぼんやりと廊下を歩いていた。
まず一つ目、ダリウスの件はおおよそ落ち着いた。
彼の家族はこの短期間でかなり回復しており、もう普通の生活を送れるまでになっている。……さすがに早くないかと思ったが、まあ、元はゲームの薬だしそんなものなのだろう。彼からは何度も感謝されたが、それはこれから行動で示してくれることに期待だ。
さらに、国の研究所では持ち帰った薬の解析も順調に進んでいるらしく、早ければ半年後には同じ効果を持つ薬が市場に出回る見込みだ。あの流行病の終息も近い。
そんな感じで、全体的には私たちの計画は少しずつだが確実に進んでいた。
だが、それ以外の問題もまだ山積みだった。
ゲームと同じように『精霊王の異変』は進行中。精霊たちが弱り始めているのはもちろん、その影響で作物の育ちが悪くなっているという報告もある。
街の外では、魔物の出現数が増加。メインクエストを急いで進めなければ、これらの影響はさらに広がるだろう。
そして、厄介な主人公のエレナ。彼女は今のところおとなしくしているが、油断はできない。
アルバートとダリウスが彼女に優しく接しているのでそれなりに満足そうに過ごしているが、先日の件では私を原作通りにしたいという執念を感じたし、また何か仕掛けてくる可能性が高いだろう。次のクエスト辺りだろうか。やめてほしい。
さらに大きな問題としては侯爵家の悪事についてだ。両親の動きは少しずつ明らかになってきており、決定的な証拠を掴み次第、こちらも動くつもりだ。
……だが逆に言えば、証拠が揃うまでは手出しができないということだ。
両親はかなりの強敵で、ゲームではほとんどのルートで逃げ切る彼らの尻尾をしっかりと掴む事ができるかが重要なのだ。それまでは静観する必要がある。
この辺はノアに任せきりだが、どうやらアルバートやウォルターと連携しているらしく、うまく進めているらしい。学業と並行してそんなことができるのはさすが私の推し。天才過ぎ。
そして一番の問題は――
「あっ! 危ない!」
「え?」
そんなことを考えていた矢先、不意に後ろから鋭い声が響いた。
声の方を振り返ると、視界の端に人影が映る。廊下の角から一人の生徒が勢いよく飛び出してきていた。
「っ!?」
避けなきゃと思い咄嗟に身を翻したが、油断し切っていた私はその時に足元をもつれさせ、バランスを崩してしまった。
倒れる――!
視界が傾いてぐらりと揺れる世界の中で、私は必死に目を瞑り、次に来る衝撃に備えた。
だけど、それは一向に来ない。
その代わりに、ふわりとした温かさに包まれる。柔らかな香りが鼻をかすめた。
「え……?」
「君、大丈夫かい?」
至近距離から掛けられた聞き覚えのある声に恐る恐る目を開け、
――そして、今に至ったわけである。回想終わり。
「あれ、大丈夫?」
「……え、ええ。大丈夫ですわ」
私は動揺を隠すように微笑み返したが、内心は混乱していた。まさか、こんな形で彼と遭遇するとは。
「怪我はないかい?」
「おかげさまで」
私の言葉に、彼は安心したようにふっと笑う。その笑顔はどこまでも穏やかで敵意の欠片も見えない。
だけど私は知っている。この人物はあの魔術試験で暴走を止めようとした私を妨害した。つまり彼はエレナの味方だ。ならば私に優しくする理由はないはず。それなのに今はただの親切な青年のように振る舞っている。
「足元には気をつけてね。じゃあ、またね」
軽く手を振りその場を去ろうとした彼を引き止めるように私は思わず口を開いた。
「……お待ちください」
彼の足が止まる。そしてゆっくりと振り返り、穏やかな表情のまま私に問いかけた。
「どうかしたかい?」
「なぜわたくしを助けてくれたのです?」
私の言葉にほんの一瞬、彼の瞳が揺れたように見えたが、すぐに柔らかな笑みに戻った。
「理由がいるのかい? 目の前で誰かが倒れそうになっていたら、手を差し伸べるのは当然じゃない?」
「……それは、そうですけど」
それはもっともらしい言葉だった。だけど、どこか腑に落ちない。そんな私の迷いを察したのか、彼はくすっと微笑む。
「何か気にしているようだね」
「いえ、別に。ただ……少し驚いただけですわ」
正直に言えば、『意外だった』の一言に尽きる。彼は私とほとんど接点がなかったはず。そして彼は一度、私を妨害している。それなのにこんなふうに迷いなく手を伸ばせるものだろうか。
彼はそんな私の視線を受けながらふっと目を細めた。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
「……別に、警戒なんて」
「そう?」
その瞳の奥からただの優しさだけでは説明できない何かを感じた私は、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。どこまで本気なのか、何か試されているのか、読めない。
なぜ今、彼が私を助けたのか。その意図を知りたいだけなのに、その表情には彼の真意を掴む手掛かりがない。
だから、これは偶然? それとも。
「……いえ、」
答えを探すことを中断して、私は小さく息を吐いた。そんなことより、助けてもらったのだから今はちゃんとお礼をしないと。
「改めまして、助けてくれたこと、感謝いたしますわ。ありがとうございました」
そう伝え頭を下げると、彼は満足そうに微笑んだ。
「どういたしまして。それじゃあ、またね」
軽く手を振ると、彼は再び歩き出す。私はその背をじっと見送った。
足音が遠ざかると、ふと窓から射し込む陽光がちらついて気になった。
彼の言葉も表情も、あまりにも自然すぎる。だけどそれが、かえって引っかかる。でも彼の表情は何も裏がないように見えるのだ。訳がわからない。
軽く手を振りながら去っていく彼の背中からは余裕すら感じられた。穏やかで、敵意も悪意もない。少なくとも今はそう見える。
だけど私は知っている。彼の行動がいつも正直とは限らないことを。
「わ、わからない……」
思考が堂々巡りを始める。彼はエレナの味方をしているはず。だから、先ほどの行動にも何かしらの意図があるはずだ。
この件は慎重に動かなければ。そう考えた私はその場を離れ、人目の少ない場所へと足を向けた。
学園の廊下を抜け中庭の奥へと向かうと、そこには昼間でも人通りの少ない東屋がある。私は一人になりたいときによくこの場所を訪れていた。
ベンチに腰を下ろし、目を閉じる。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「それにしても、彼とはこんな出会い方をしますか」
先ほどの回想のように問題は山積みだが、その中でも今、最も気にするべきは彼のことだった。
ゲームのお助けキャラの彼女が私に謝罪をしたことで明らかになったあの魔術試験の真相。
エレナとお助けキャラ、そして先ほどの彼の三人。彼らがあの時、魔術暴走を止めようとした私に妨害を仕掛けていた。この件に関して、エレナはもちろん、お助けキャラの動機も判明している。
だが、彼に関してはその行動の意図が結局わからずじまいだった。そして、それが問題なのだ。これから何をしでかしてくるのか読めないから。
妨害したこと、先ほど助けてくれたこと。その意図について頭の中でいくつもの仮説が浮かぶが、どれも確証がない。
「そもそも、彼は今、エレナさんとどんな関係になっているんでしょう」
少なくとも彼はエレナの側にいる。そうである以上、警戒を解くことはできないし、先ほどの彼の行動を完全には信じられない。
「だとしても、答えは出ませんね」
今は情報が足りない以上、迂闊に動くことは禁物だ。
私は深く息を吸い、足元に揺れる柔らかな光を見つめた。そしてもう一度深呼吸をするとざわついた気持ちが少しだけ落ち着いた。私は静かに立ち上がる。
「よし、アルバートにも聞いてみましょう」
現在かなり仕事が立て込んでいるので、しばらく不定期更新になります。できるだけ週に一回は更新するつもりです!




