52
しばらく毒沼の中を慎重に進み、ようやく沼地を抜けた先には乾いた地面が広がっていた。足を止めて深く息を吸い込むと土の香りが微かに感じられる。
森の雰囲気も一変し、少し先に目を向けると高山のような開けた空間が見えた。そこから続く山脈がこの遠征の目的地だ。
「ここまで来れば安心ですわ」
私は靴底を地面にこすりつけ、泥を落としながら前を向く。
沼地を抜けた先は想像以上に静かだった。時折、風が吹き抜ける音以外、何も聞こえない。
こんな静かな雰囲気にもかかわらず周囲から『ストーリー後半エリア特有の緊張感』が感じられるのは、出現する魔物が強いからだろう。ゲーム通りなら、出てくる魔物は全ていつの日かのドラゴンより強いはずだ。嫌すぎる。
念のため、魔物が出現しにくいルートを通る予定だが、それでも緊張は拭えない。
「ここから先の山に登りますわ」
「それはいいけど、結局何が目的なんだよ」
「……」
ダリウスの問いに、私は一瞬だけ口を閉ざした。これまで黙っていたのは、彼が知れば必ず反発するだろうと思っていたからだ。
しかし、もう隠し通すことはできない。この遠征の目的を、ついに伝える時が来た。
「とある薬師に会いに行くのです」
私がそう告げると、彼は眉をひそめた。
「薬師、だと? ……まさか」
言葉の途中で、空気がひやりと冷たくなった気がした。
「ええ。お察しの通りですわ」
風が吹き抜ける中、私の言葉を聞いた途端、ダリウスの顔色が変わった。
「それが……それが目的だったのかよ」
「悪いな。お前の家族のことについて、全てこちらで調べさせてもらった。もちろん病気のこともな」
「……なんでだよ!」
アルバートが説明したその瞬間、張り詰めていた空気が切れたように、ダリウスが声を荒げた。拳を握りしめた彼の肩が小刻みに震えている。
「……てめぇらには関係ねぇって言っただろ!」
「関係ないかもしれませんわ。でも、それでもわたくしはあなたのお力になりたいのです」
一瞬、彼の目が揺らいだように見えたが、それもすぐに険しい表情に戻った。
「力になりたいだと? そんな綺麗事、俺には──」
「いいえ、ダリウス様」
彼が言いかけたところで、私はその言葉を遮った。まっすぐに彼を見つめ、言葉を選びながら続ける。
「綺麗事でも構いませんわ」
一呼吸置き、私は心を落ち着けた。緊張で手が震えそうだったが、それを悟られないように気を張る。
「あなたが一人で全部背負い込んでいるのを見ているだけなんて、そんなの、できるわけがありませんわ」
「それでも、俺にはてめぇらを頼る理由なんてねぇよ」
彼の声が震えた。そして、背を向けて私たちから一歩、また一歩と距離を取ろうとする。
「お待ちなさい。あなたが『関係ない』と片付けたとしても、わたくしにとっては関係なくなんてならない」
私の声が彼の背中を引き止めるように響いた。彼は足を止め、振り返らずに立ち尽くす。
「ただ、わたくしはあなたが苦しんでいるのを放っておきたくない。それだけですのよ」
「っ……俺は……」
ダリウスの肩がかすかに揺れる。
「……俺は、別に苦しんでなんか──」
「嘘ですわ」
私はその言葉にはっきりと言い返した。驚いたように振り返った彼を見つめ、私は息を整える。
「ダリウス様……わたくしは知っていますのよ。あなたがどれだけ悩んでいるのか、ご家族のためにどれだけ努力を重ねているのか」
その言葉を聞いた瞬間、彼の拳がさらに強く握りしめられた。
「だから放っておけないのです。それがわたくしの本心ですわ」
「それでも……これは俺の問題だ。これ以上、てめぇらに首を突っ込まれる筋合いはない!」
「ダリウス様……!」
……まさかダリウスがここまで頑なだとは思わなかった。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「わたくしは──」
「ルージュ、もういい」
再度私が口を開こうとしたその時、アルバートの静かな声が響いた。
「……アルバート様」
「俺に任せろ」
彼は手を軽く上げて私を制した。淡々としたその仕草に、ダリウスが目を細めるのが見えた。
「さて、ダリウス」
「……なんだよ」
彼は口元に微かに笑みを浮かべ、ゆっくりと言い聞かせるように続ける。
「お前は俺に一度手合わせで負けたな。その時、何と言った?」
その言葉に、ダリウスの顔が一瞬引きつる。
「まさか……!」
後退りするダリウスに対し、アルバートは微動だにせず、視線をまっすぐに向けた。
「そうだ。お前は命令を聞くと誓っただろう? 忘れたとは言わせんぞ」
「ぐっ……」
苦い表情を浮かべ視線を地面に落としたダリウスを、アルバートは目を細めて見つめた。その視線はなんだか楽しげだった。
……アルバート怖い。これも計算通りだったりするのだろうか。手合わせでどんなやり取りがあったのかはわからないが、完全に手玉に取っている。本当に敵じゃなくてよかった。
一方、ダリウスは苛立ちを抑えきれない様子で歯を食いしばり、アルバートを睨みつけていた。
「嵌めやがったな……!」
「そう思うかもしれんが、それはお前が誓いを立てた結果だろう?」
「……っ!」
アルバートは淡々とした口調でダリウスの怒りを煽る。彼の肩が小さく震え、強く握られた拳の先が微かに白くなっている。
「ダ、ダリウス様……」
恐る恐る名前を呼んでみると、彼の鋭い瞳がこちらを向いた。その視線に思わず怯みそうになるが、アルバートは一切気にする様子もなく言葉を続ける。
「まあ、そういうわけだ。おとなしく着いてこい。これは命令だ」
「くそっ……!」
その声にダリウスは悔しそうに唇を噛む。口約束だとしても彼は命令を無視することはできないのだろう。
「わかった。行けばいいんだろ、行けば」
しばらくの沈黙の後、深く息を吐いた彼は諦めたように私たちに向き直った。
無言で山道を登る。険しい道のりに加え、既に疲れが出ていた私たちは全員が言葉少なに進んでいた。先ほどまでの険悪な空気は薄れたものの、完全に和らいだわけではない。
そんな中、静かに口を開いたのはアルバートだった。
「ダリウス。お前が俺たちを頼りたくない理由はなんとなくわかった。だが、一つ聞かせてくれ」
「……なんだよ」
ダリウスは疲れたように低く返事をした。
「本当に誰も頼らずにいられると、そう信じてるのか?」
その問いに、彼は苦々しい表情を浮かべ、しばらく沈黙した後、首を横に振った。
「信じてねぇよ。だけど……俺は、ただ、自分の力だけで守りたかった」
「だが、それはただの意地だろう?」
アルバートの静かな指摘に、ダリウスは無言で目を伏せた。
「まあいい。お前が何を目指していようと、それを邪魔するつもりはない。だがな、ルージュはお前のために動いたんだ。病について調べ、腕のいい薬師の噂を集めてな」
「……そうなのか?」
戸惑うようにこちらを見るダリウスに私は答える。もちろんゲームの知識もあるが、ちゃんと文献なども私は調べていた。
「ええ、わたくしはあなたが少しでも楽になる方法を探したかった。それだけですのよ」
「……」
そう告げると彼は沈黙した。
「ダリウス様は騎士を目指していますのでしょう? 強くありたい、誇り高くありたい、そう思うのは素晴らしいことですわ」
私は彼をまっすぐ見つめ、静かに言葉を続ける。
「でも、それと誰かを頼らないことは別でしてよ」
彼が頼りたくないのは、弱さを見せたくないから。だけど、それは本当の強さではない。その思いを私は彼に届けるように丁寧に言葉を選んだ。
ダリウスはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。山道を吹き抜ける冷たい風が、彼の髪をかすかに揺らしている。
「……そうだな、それも、そうだ」
ようやく口を開いた彼の声は少し掠れていた。そしてダリウスは視線をわずかに逸らしながらも、はっきりとした声で言った。
「こんなことで意地張ってもしょうがねぇよな」
立ち入り禁止エリアである視界の開けた山脈へと足を踏み入れる。空は澄み渡り、どこまでも続く青が広がっている。
周囲には険しい岩肌がそそり立ち、ところどころに背の低い灌木が生えている。足元は岩場が広がり、歩くたびに小石が音を立てて転がる。
「……ここ、本当に進んで大丈夫なのか?」
ダリウスが不安げに呟く。
正直、大丈夫かと聞かれると……不法侵入だし、良い子は真似しちゃダメなやつである。でもゲームでは問題なかったので大丈夫だろう、多分。
「ダメでしたら引き返しますの?」
私は冗談めかして返したが、ダリウスは眉をひそめたままだった。それを見たアルバートが肩をすくめて口を挟む。
「今更だろう? お前もここまで来たんだ、腹を括れ」
「……そうだな」
適宜休憩を挟みつつ歩みを進めると、冷たい風が吹き抜ける中、ふいにかすかな鈴のような音が耳に届いた。
それは澄んだ音色で、山脈に溶け込むように響いている。
「……なんだこの音は。誰か人がいるのか?」
「いえ、違いますわ」
言葉にしながら、私は背中に冷や汗をかいていた。
私はよく知っている。この音は──
「……魔物です」




