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【ダリウス視点】
「ダリウス様、少しお話しできませんか?」
「話すことなんてねぇよ」
放課後の教室でルージュが俺に声をかけてきたが、俺はそっぽを向き席を立つ。……今はまだまともに話をする気にはなれない。気まずすぎる。
「お待ちなさい」
「……っ、離せよ」
背を向けて去ろうとした俺の腕を彼女が掴んだ。触れられた箇所が熱を持つような感覚に驚き、咄嗟に少し強めに腕を引く。
……もっとも、本気で振り払おうとまではしなかったあたり、だいぶ丸くなった自分に内心呆れる。
「……おい」
だけどこんな調子じゃまともな話なんてできそうにない。俺を掴んだまま何か考え込んでいる様子の彼女をどうにか振り払おうとしたその時、教室の扉が開く音がした。
反射的にそちらを向くと、エレナが立っている。このタイミングでか。
「や、やめてください、ルージュ様! ダリウス様が困っています……!」
そして彼女はすぐに俺とルージュの間に割って入り、俺を庇うように立ちはだかった。その様子に、俺は内心で溜息をつく。困っていたのは確かだが、なんかこう、色々と違う。
エレナは俺を庇っているというより、自分の正義を押し通しているように見えるのだ。
「急に掴んでしまって申し訳ございません、ダリウス様」
「お、おう……別に構わねぇよ」
そう言って頭を下げてきたルージュに、俺は少しだけ戸惑いながら返事をする。
だがその間もエレナは俺を守るように睨みを利かせたままだ。まるで小動物が天敵に向かって威嚇しているような表情だが、彼女がどういう人間か理解し始めている今の俺はなんとも言えない気分になる。
「お前たち、何をしているんだ?」
この状況をどうしたものかと思っていると、今度は教室の奥から別の声が響いた。振り返ると、教室の後ろの扉から殿下が現れた。……なんなんだ、今日は次々と。
案の定、殿下に気がついたエレナは勢いよく彼に訴える。
「アルバート様! ルージュ様がダリウス様を困らせているんです……!」
「そうか、それは大変だったな。……ところで、」
エレナの言葉を否定するべきかどうか迷っていると、殿下は彼女の話を流し、何事もなかったかのように俺に目を向けた。
「ちょうどダリウスに用があったのだが、時間はあるか?」
「な、なんだよ?」
「少し手合わせをしてほしいのだが」
突然の提案に俺は眉をひそめる。
「……手合わせ?」
「ああ、最近体が鈍っていてな。少し動かしたいんだ」
俺は殿下をじっと見つめる。突然現れて手合わせをしろとは、本当に目的はそれだけだろうかと勘繰ってしまう。だが、いいだろう。
「……少しなら相手してやるよ」
そう言って俺が応じると、殿下の口元がわずかに笑みを浮かべた。彼の意図は掴み切れないが、別に手合わせは嫌いじゃない。
せっかくの機会だ、叩きのめしてやろう。
蚊帳の外になっていたエレナとルージュには殿下が適当に話をつけて帰ってもらい、いつも鍛錬をしている校舎裏に移動した俺たちは模擬剣を持って向かいあう。
「剣には自信があるんだろう?」
「当然だ」
「では、万が一俺が勝ったのなら……そうだな、命令でも一つ聞いてもらおうか」
「いいぜ」
俺の言葉を聞いた殿下は楽しそうに口角を上げる。
「その言葉、覚えておくんだな」
殿下はそう言いながら剣を構える。その余裕たっぷりの表情に俺は妙に苛立ちを覚えた。こいつ、王太子だからって調子に乗るなよ。
「ああ、男に二言はねぇ。かかってこいよ」
軽く剣を回しながら挑発的に言い放つ。騎士団の息子として鍛えられてきた俺が負けるはずがない。
開始の合図とともに、俺は踏み込んだ。最初の一撃で牽制し、相手の様子を探る──はずだった。
「遅いな」
その声とともに俺の剣が弾かれる。驚くほど速く、そして正確に。反撃を食らう前に何とか体勢を整えたが、背中に冷や汗が流れるのを感じた。殿下の動きはまるで別次元だった。
そして気がつくと、殿下の剣が喉元すれすれで止まっていた。
「……!?」
一瞬で勝負を決められた屈辱に、俺は歯を食いしばる。
「っ、もう一度だ!」
叫ぶと同時に、再び突進する。剣を横に振り抜き、今度はフェイントを混ぜた連撃を繰り出す。
しかし、
「悪くない動きだが、まだ甘い」
軽々と避けられ、次の瞬間には足元を払われていた。体が宙に浮き、地面に叩きつけられる衝撃が全身を走る。
「いってぇ……!」
地面に倒れ込む俺の視界に映るのは、無傷の殿下と、どこか余裕すら感じさせる微笑みだった。
「どうした、もう終わりか?」
彼の冷静な声が耳に届く。
「まだだ……まだ終わってねぇ!」
俺は泥まみれの手で剣を掴み直す。心の中では、すでに勝てる見込みがないことを悟っていた。それでも、諦めるわけにはいかない。このまま終われば、俺は俺自身を許せなくなる。
俺は歯を食いしばりながら、握った剣を渾身の力で振り下ろした。狙いは完璧だ。速さも威力も申し分ない。
だが──
「甘いな」
カン、と乾いた音が響く。殿下は自分の剣を片手で持ち、あっさりと俺の一撃を受け止めた。
「なっ!?」
俺の全力を簡単に止めるなんて、どんな馬鹿力だよ。いや、そうだ、こいつ、あのデカい魔物を力づくで振り抜いて──
「これで全力か?」
そう言うと同時に、殿下は剣を軽く振り上げる。その瞬間、俺の剣が弾き飛ばされた。
「っ、くそっ!」
何とか持ち直そうとするが、彼の剣が一瞬で俺の間合いに入り込む。目で追う間もなく、体の動きが先に反応していたが、間に合わない。
「……これで終わりだ」
彼は素早く俺の背後を取ると、剣の腹で軽く俺の肩を叩く。その瞬間、俺は敗北を悟った。
「どうして、そんなに……」
強いんだ。とは言葉にできなかった。肩を押さえながら振り返ると、殿下は汗一つかいていない。
俺の全力は、彼にとってはただの戯れに過ぎないようだった。
最終的に、俺は一度も殿下に触れることすらできなかった。
「嘘……だろ……」
「うむ。いい運動になったな」
手合わせが終わると、殿下は汗ひとつかいていない様子で剣を収める。本当にいい運動になったのだろうか。対して俺は膝をついたまま荒い息を吐いて、ただその姿を見上げていた。
「……何をどうしたらそうなるんだよ」
思わず口をついて出たその問いに、殿下は眉を少し上げる。
「知りたいか?」
「……当たり前だ」
俺がそう尋ねると殿下は軽く笑った。
「簡単な話だ。俺は特別な鍛錬をしている」
「特別な鍛錬……?」
……鍛錬でここまで強くなるのか?
興味を引かれながらもどこか疑いの目を向ける俺に、彼は笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「気になるか? 知りたいのなら、お前には教えてやっても構わない」
「いいのか?」
「もちろん。ただしその代わり──」
その瞬間、彼の瞳が怪しく細められる。
「近々とある遠征があるのだが、それに同行してほしい」
「遠征、だと?」
何を対価にさせられるのかと身構えた俺は拍子抜けした。俺が遠征に着いていくことが条件とは意味がわからない。
「一体なんのために……」
「悪いがそれは機密事項だ。まあ、今すぐに答えろとは言わん。少し考えてくれ」
そう言って俺に背を向ける殿下を追うように立ち上がろうとしたその時、そこに割って入る声が響いた。
「アルバート様! ダリウス様!」
振り向くと、エレナが息を切らしながら駆け寄ってきた。またか。帰ったんじゃなかったのか。
「アルバート様っ! やめてください!」
「……なんのことだ?」
急に責められた殿下は不思議そうに首をかしげる。
「これはただの手合わせだが」
「嘘です! だって、ダリウス様がこんなに泥だらけで──!」
エレナの視線が俺の姿を見て震える。どうやら手合わせと言いながら俺たちが本気の喧嘩でもしていると思い込んだらしい。
「エレナ、落ち着けって」
俺は手を振って否定したが、彼女は聞く耳を持たない。
「アルバート様! 王太子としての立場を忘れないでください! ダリウス様を傷つけるなんて、そんなこと──」
「傷つける、か」
殿下は呆れたようにため息をつくと、俺に視線を向けた。
「どうやら誤解されているようだな」
「……エレナ、俺はただ殿下と手合わせをして、ただ負けただけだ」
「え……?」
……自分で言って情けないがそれが事実である。エレナを落ち着かせるようにゆっくり伝えると、彼女は言葉を失ったように固まった。
それを見た殿下が口を開く。
「そう、これは鍛錬の一環だ。喧嘩をしていたわけではない。誤解させて悪かったな」
そして固まったままのエレナをよそに、言いたいことを全部言った殿下はこちらを向き直る。
「というわけで、手合わせは終わりだ。俺はそろそろ帰るとしよう」
「待て」
「……なんだ?」
俺は咄嗟に、背を向ける彼を引き止めた。そして、彼の目を見て続ける。
「──さっきの話、俺も行かせてくれ」
「……いいのか?」
「ああ」
「! そうか。ならば日時は後ほど伝えよう」
うまいこと乗せられている気がしなくもないが、遠征程度に着いていくだけで特別な鍛錬を教えてもらえるのなら安いものだ。
……そう思った俺はこの話に乗ったことをすぐに後悔することになるのだった。




