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『──は?』
普段聞き慣れない、まるで別人のような低い声が響き、一瞬、誰が話しているのかわからず耳を疑う。
『婚約を解消、だと? なぜ俺がそんなことをしなければならない』
アルバートの声は驚くほど低く、空気そのものが凍りつくかのようで、その雰囲気に気圧されたダリウスは声だけでわかるほど動揺していた。
『な、何をそんなに……そもそも、てめぇら、仲が悪いんだろ? だったら、』
『俺が、いつ、そう言った?』
『あの時確かに………………いや、言ってねぇな……?』
ダリウスの声が、一歩引くように遠ざかった。
アルバートのことだ。直接的な言葉を避けつつ、相手に誤解を植え付ける術には長けている。私と不仲であるように見せかけつつ、言質を取られないように立ち回っているのだろう。さすがと言っていいのかわからないけれど、敵に回したくないなと心底思う。
『なんでそんな不仲のフリを……』
もっともな疑問を口にするにダリウスに対し、アルバートが冷静な声で返す。
『そうだな……お前には教えておこう。このことはくれぐれも内密にしてほしいのだが』
そう前置きし、アルバートは語り始めた。簡単に言えば、私が王太子の婚約者であることに嫉妬した人間が、私を陥れようとすることが後を絶たない。そのことに危険を感じているため、不仲のフリをして身を守っているのだと。
その言葉は説得力があるが、よくもまあ、それっぽい理由をすらすらと言えるものだと感心する。しかしエレナが私を陥れようとしている事実はあるので嘘ではないが、『後を絶たない』というのは誇張だ。あんな人間が複数もいてたまるものか。……いないよね?
『そうだったのかよ……じゃあエレナのことは』
『そちらも少々事情がある。だが、今は教えられない。すまないがそういうことで頼む』
『わ、わかった』
ダリウスの声には困惑が見えるが、アルバートの威圧感に押されて、それ以上何も言えないようだった。
『少なくともエレナとはそういった関係はない。それに、このことはルージュも知っている。彼女も全て承知の上だ。いいな?』
アルバートはそう続けて念押しする。つまり、『二人の間には何も問題はないから余計な口を挟むな』ということである。それを聞いたダリウスは力が抜けたように声を出した。
『はぁぁ、もうなんだよ、紛らわしいことしやがって……てっきりルージュ様に愛想尽かして浮気でもしてんのかと思っちまったじゃねぇか』
ダリウスの言葉に、アルバートは深くため息をついた。そして、何でもないことのように続ける。
『愛想を尽かすだと? 見くびるな。俺はルージュのことを──』
『愛している』
「──っ!?」
聞き間違いではない。アルバートの声は通信機越しでもはっきりと聞こえた。いつもの冷静で自信に満ちたトーン。それが、まっすぐにそう告げた。
「〜〜〜っ!」
膝の力が抜け、その場にしゃがみ込む。そして手で無意識に顔を覆い叫びそうになるのをどうにか耐えた。
心臓が激しく跳ねる。彼が私を想っていることは知っている。だが、これほど明確に言葉にされるのは初めてだ。しかも、それを私に直接ではなく、第三者に対して語っているという事実。
『これで満足か?』
『……お、おう』
通信機の向こうからダリウスの戸惑った声が聞こえる。彼もきっと驚いているのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。今の私の頭の中は、アルバートのその一言で完全に埋め尽くされていた。
彼が本気で言っているのは分かる。いや、ダリウスを納得させるための演技や方便かもしれない? だとしても彼ならば、もっと軽い言い方をするはずだ。じゃあやっぱり本気で言っているのか。
混乱する私をよそにアルバートは何事もなかったかのように言葉を続ける。
『一応言っておくが、このことは誰にも口外するなよ?』
『わかってるって』
そう言ってダリウスがアルバートから離れたのか足音が遠ざかっていく。どうやら一触即発の状況は終わったようだとほっとしていると、
『──ルージュ、聞こえるか? 次は屋上に向かうぞ』
「ひぇ!?」
突然名前を呼ばれ、私は反射的に通信機に応じた。
「は、はい! わかりました!」
声が震えるのが自分でも分かる。平静を装おうとしたが、完全に失敗して挙動不審になってしまった。
『どうした?』
一方で彼の声は冷静そのものだ。まるで先ほどの言葉が、ただの何でもない日常会話であったかのように。
「いえ、大丈夫です! 私もすぐに行きますね! では!」
このままだと聞いていたことがバレてしまいそうですぐに通信を切り上げた。落ち着けと何度も自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。けれど、なかなか余韻が消えない。彼がこの場にいなくて助かった。いたら心臓が爆発してたかもしれない。
「……行かなきゃ」
どうにか呼吸を整えてゆっくりと立ち上がる。今はクエスト中だ。まだ鼓動は落ち着かないけれど、足を前に進めなければ。そう自分に言い聞かせて、私は屋上へ向かった。
屋上にたどり着いたとき、すでに戦闘が始まっていた。
強烈な衝撃音とともに、瓦礫が飛び散り、屋上全体が揺れる。眼前には魔物が立ちはだかり、最後の抵抗とばかりに暴れ回っている。最後の三戦目はこれまでよりも強い。
「くっそ……っ!」
アルバートとダリウスが立ち向かっていたが、どちらも先ほどまでの余裕はない。屋上を覆う濃い霧が視界を奪い、動きの制限を強いている上、魔力を吸われているのだ。相当やりにくいのだろう。
私は息を整えながら、戦況を観察する。なぜアルバートに手加減をお願いしたのか、その三つの理由を頭の中で整理する。
一つ目、このクエストはストーリー上、学園の皆に『異変』に対する危機感を持たせるために必要だから。アルバートがあっさり魔物を倒してしまえば、この事態は大したことがなかったと周囲に思われてしまう。それでは今後の進行に悪影響が出かねない。……これはもう十分だろう。
次に二つ目、エレナにアルバートの強さを知られたくないから。彼女の性格からして、アルバートの力を利用しようとするのは目に見えている。最悪の場合、彼を単騎で危険な戦場に送り込む可能性すらあるだろう。というか、十中八九そうすると思う。
……そういえば、今回はエレナの動きが妙に静かだ。途中から追ってくると思っていたのだが。来ないなら来ないでいいのだが、なんだか嵐の前の静けさのようで不気味だ。
戦闘に意識を戻す。霧がさらに濃くなり、二人が徐々に消耗していくのがわかる。
「ダリウス、ここはまずお前が──」
「っ命令すんじゃねぇ!」
アルバートが冷静に提案を口にしようとするが、ダリウスは苛立った声でそれを突っぱねた。そしてその勢いのまま魔物に切り掛かる。
「お、おい!」
……何かがおかしい。アルバートも明らかに戸惑っている。先ほど変だと指摘されていたが、確かにそうだ。普段のダリウスなら、もっとスムーズに戦闘を進められるはず。
なのに今は見てわかるほど動きが乱れている。一体、どうしたのか。
「……仕方ないですね」
せめてもの援護として、私は物陰からそっと魔術を放ち、魔物の動きを妨害する。小さなダメージを与えることで、少しでも二人の負担を軽減しよう。
戦いを続けると魔物は徐々に弱ってきた。あと少し、アルバートが慎重に隙をついてトドメを刺せば、この戦闘は終わるだろう。
しかしその直前、ダリウスが勢いよく魔物に突っ込んでいった。彼は剣を全力で振り上げ、一気に斬りかかろうとしている。
「いけない......!」
アルバートに手加減をお願いした三つ目、そして最も重要な理由。それは、この魔物が『カウンター攻撃』を持っているから。
倒し切る瞬間、トドメを刺した攻撃の威力に応じた反撃を繰り出してくる初見殺しの仕様だ。もしアルバートが全力で攻撃を仕掛ければ、その威力がそのまま跳ね返りとんでもないダメージを受ける。だからこそ、彼は威力220──いや、今は270のあの剣を封印して、普通の剣でHPをチマチマ削っているのだ。
だから、たとえレベリングをしていないダリウスだろうと、全力の大技でこの魔物を倒してしまえば、ただじゃ済まない。
「ダリウス! 下がれ!」
攻撃を制止しようとするアルバートの叫び声が響く。しかし、ダリウスは止まらない。剣が振り下ろされ、魔物に深々と突き刺さる。
その瞬間、魔物の体が強烈な光を放った。
「な、なんだ!?」
「くっ……!」
アルバートが即座に動いた。信じられない速さで魔物とダリウスの間に割り込み剣を構え、放たれたそのカウンター攻撃を身を挺して受け止める。
「──!」
その瞬間、周囲に強烈な衝撃波が広がり、瓦礫が舞い上がった。
私はとっさに瓦礫の影に身を潜め、吹き飛ばされるのを防ぐ。そしてその衝撃が収まり顔を上げると、アルバートは剣を振り抜き魔物を力づくで弾き飛ばしていた。
「……な、なんだよ、今の力……」
その圧倒的な力にダリウスが驚きの声を漏らす。アルバートは肩で息をしながら、魔物をじっと睨みつけていた。そして、力尽きた魔物が完全に倒れ、魔物が纏っていた霧が離散する。
戦闘が終わった。屋上には静寂が戻り、辺りを覆っていた霧が少しずつ晴れていく。
ちょっと危なかったけど、これでクエストクリア。そう思ってようやく緊張を解いた瞬間、
「二人とも! 大丈夫ですか!?」
全てが終わった屋上にエレナが現れた。




