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【騎士団長の息子ダリウス視点】


 週明けの放課後。校舎裏には俺の呼吸と剣の音だけが響いていた。


 剣を振るたびに、まだ少し冷たい空気が肌に纏わりつき、手のひらの感覚が徐々に鈍くなる。それでも鍛錬を止める気にはなれない。


 俺の名は、ダリウス・デュラン。


 騎士団長である父の名は、誰もが知っている。俺が幼い頃から、彼の背中はまるで山のように大きく、揺るぎないものだった。そんな父の息子として生まれた俺にとって、剣を握ることは当然の義務であり、誇りでもあった。


 だが、時にそれは、逃れられない呪縛のように感じることもある。


「はぁ……はぁ……っ」


 剣を振る手を一瞬止め、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。視線を上げると、西の空が薄紅色に染まり始めていた。


 名門の家柄であること、そして剣の腕を磨く日々を送っていることは誇らしいが、時折息苦しさを覚える。俺はいつまで『騎士団長の息子』という肩書きに縛られるのだろうか。


 それに、家族も。


 病に苦しむ母や妹たちの顔が脳裏をよぎる。俺と父以外の家族は流行病にかかり、体調が優れない日が続いていた。俺が剣を振っている間、どんな思いで過ごしているのだろう。


 剣を納めると、胸に広がる罪悪感を押し殺すように深く息を吸い込んだ。父が言うように俺はまだ若い。まだ答えを出す必要はない──そう自分に言い聞かせながら。


 そもそも騎士として、自分はどうなのか。そう自問せずにはいられない。これまでの行動が正しかったのだろうか。


 あの日、ルージュがエレナを突き飛ばしたと、俺は迷いなく彼女を悪と断じた。高位貴族の傲慢さを象徴するような行動だと思ったし、エレナの震える姿を目の当たりにしてしまえば、それ以外の解釈などありえないと思ったからだ。


 侯爵令嬢という立場にあぐらをかき、弱い者を踏みにじる典型的な悪党だと、そう決めつけた。


 しかし、先日の魔術試験で彼女と行動を共にしてから、その見方が揺らいでいる。俺たちは魔術暴走に巻き込まれたが、彼女は動じることなく状況を見極め、冷静に対処していた。


 彼女の表情や仕草には、あの時感じたような傲慢さは微塵もなかった。むしろ、俺よりも冷静で、正しい判断を下していたのは彼女のほうだっただろう。


 そして、問題はその後のエレナの行動だった。彼女は周囲に向かって、まるで自分一人の手柄のように状況を語り始めたのだ。俺たちの存在などまるでなかったかのように。


 あの魔術暴走を収めたのはほとんどルージュの力だった。なのに、それを平然と横取りする──それは、俺が抱いていた『無垢で傷つきやすい平民の少女』というエレナのイメージとはかけ離れていた。


 もしかしたら、ルージュが突き飛ばしたというのも事実ではなかったのでは? あの時もエレナは嘘をついていたのでは? そんな考えが頭をよぎる。


 もちろん、表面上は良い人間を装いながら、裏では何をしているかわからない者もいる。けれど、少なくとも魔術試験でのルージュは、俺が最初に決めつけた『悪』ではなかった。


 真実はどこにあるのか。どちらを信じるべきなのか。考えれば考えるほど、わからなくなる。


 だが、一つだけ確かなのは俺の中で彼女たちの見方が変わり始めているということだ。


「……わかんねぇよ」


 考え込んでも答えが出るわけではないと、自分に言い聞かせて首を横に振る。そして鍛錬を再開しようとしたその時、視界の端に見慣れた姿が飛び込んできた。


「あれは……」


 アルバート殿下が校庭の一角で誰かと親しげに話している。そして、その隣に立っているのは──


「エレナ?」


 最近、殿下とエレナが親しげに話しているのを見かけることは珍しくない。だが、今日の二人は妙に距離が近い。殿下には、たとえ不仲だとしても婚約者──あのルージュがいるはずだ。


「いや……まさか、な」


 嫌な予感が胸をよぎる。


 俺は校舎の影に身を潜め、二人の様子を窺った。殿下は穏やかな笑みを浮かべ、彼女に何かを囁いている。エレナは頬を赤らめながら、それに応えるように微笑んだ。


 その光景を見た瞬間、胸の奥がざわつく。


「なんだよ、それ」


 エレナと親しげに話す彼の表情が、俺の知る彼のものとは違って見えた。そのことに違和感が募る。エレナが平民だからか? それとも、婚約者への不義理に対する苛立ちなのか?


 いや、それだけじゃない。彼女といる殿下は、まるで心の底から安らいでいるように見えた。


 殿下がどこかへ立ち去った後も、俺はその場に立ち尽くしていた。


「……何してんだ、俺は」


 二人が親しげに話していた光景が、どうしても頭から離れない。殿下には婚約者がいるにも関わらず、なぜ平民の彼女にあんな特別な態度を取るんだ。


 思考が堂々巡りを繰り返す中、気づけば足は自然と彼女のいる方へ向かっていた。



「エレナ!」


 立ち去ろうとする彼女の後を追い、声をかける。彼女は驚いたように振り返ったが、俺を見てすぐに柔らかい笑顔を作った。


「ダリウス様……どうしましたか?」


 俺はその問いに答えず、彼女の前に歩み寄った。


「少し話がしたいんだけど、大丈夫?」


 彼女を怖がらせないように慎重に言葉を選ぶ。以前ルージュに口調や態度を注意されたが、俺だって意識すれば(・・・・・)丁寧に話せはするのだ。普段は面倒だから意識していないだけで。


「? 大丈夫ですけど、何についてですか?」


 そう言って彼女は不思議そうに俺の顔を見上げた。俺は一瞬、言葉を探したが、率直に切り出すことにする。


「……前にあっただろ? あのルージュ……様が、廊下で君を突き飛ばした時のこと」

「それが……どうしたんですか?」


 ルージュの名前を出したその瞬間、エレナの顔色が変わった。俺はその反応に一瞬戸惑いを覚えたが、話を続ける。


「正直に言うと、あれが本当に起きたことなのか、まだわからないんだ。エレナ、君は嘘をついているんじゃないか?」

「な、なんで……そんなこと言うんですか」


 俺の言葉にエレナは目を見開き、手を口元に当てた。


「嘘、だなんて……そんなこと、私がすると思うんですか?」


 そう言った彼女の声は震えていた。まるで俺に疑われたことそのものが耐えられないかのように。


「俺だって、君ことを信じたい。でも、」


 言葉を選びながら伝えようとしたが、その先がどうしても続かない。少しの沈黙の後、エレナは小さく息を吐き、ぽつりと囁くように言った。


「ルージュ様に何か言われたんですか?」

「……!」


 核心を突くようなその言葉に、俺は思わず目を逸らしてしまう。


「ルージュ様が……私のことを悪く言ったんじゃないですか? 私が、嘘をついてるって。だから、ダリウス様は私を疑っているんでしょう?」


 そう言ってエレナは俺を見上げる。その瞳には涙が浮かんでいるが、それでも懸命に微笑もうとしているように見えた。


「……私はただ、一生懸命頑張っているだけです。それなのに、疑われてばかりなんて……」

「エレナ……」


 彼女の健気で悲しげな表情を前に、俺は言葉を失った。


 本当に彼女が嘘をついているのだとしたら、こんな顔ができるだろうか? それとも、彼女はこの場で演技をしているのだろうか?


 俺は、彼女を信じるべきなのか、それとも距離を取るべきなのか。考えれば考えるほど、頭が混乱していく。


「……俺はどうすればいいんだ」


 無意識に呟いたその言葉に、エレナは小さく首を振った。


「ダリウス様がどう思われても仕方ありません。ただ、私は……本当のことを……」


 それ以上の言葉は続かず、エレナは小さく礼をしてその場を立ち去った。


「……」


 彼女の背中を見送ったあと、俺はその場に取り残されるように立ち尽くしていた。エレナが本当に嘘をついているのかどうか。考えれば考えるほど、わからなくなる。


「……もういい。今は忘れよう」


 自分にそう言い聞かせ、鍛錬に戻ることにした。頭を切り替えなければならない。剣を振ることで雑念を払おうとしたが、その後の鍛錬は散々だった。


「……くそっ」


 思わず剣を地面に突き立て、大きく息をついた。このままではいけない。父の名を汚すだけだ。


 俺は剣を収めると、荒れた呼吸を整えながら校舎裏を後にした。



 寮に戻ると、一通の手紙が届いていた。封蝋に記された家紋は、見慣れたものだ。


「家族からか」


 俺は封を切り、中身を読む。その瞬間、全身から血の気が引くような感覚に襲われた。


「……どうして」


 手紙に記されていたのは、母と妹たちの病状がさらに悪化しているという知らせだった。


「どうして今なんだ」


 呟いた言葉は誰にも届かず、寮の静寂の中に消えていった。


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