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【王太子の従者視点】
またお会いしましたね。私は名乗るほどもないアルバート様の従者の一人。彼とは幼い頃から親しくしていたため、彼のことは仕えるべき主人でありながら、少し年の離れた弟のようにも思っている。
同僚のウォルターはラリマー侯爵家から帰ってきたものの、何やら忙しいようで、相変わらず私が筆頭従者として仕えている状況だ。
「おはようございます、アルバート様」
「ああ、おはよう」
朝の執務室はいつも通りだった。机には書類が山積みになっており、窓から差し込む陽光が室内を明るく照らしている。だが、ここ最近のアルバート様は少し様子が違っていた。
ペンを握る手は動いているものの、その目は微妙に焦点が合っておらず、書類の内容を本当に読んでいるのか怪しい。
優れた知性と冷静な判断力を持つ彼だが、解決できない悩みなどでもあるのだろうか。少し心配になり、思い切って声をかけてみることにした。
「アルバート様、何かお困りごとでも?」
「……ああ、お前なら気づくか」
彼はペンを置き、椅子に背を預けた。眉間に皺を寄せながら、しばらく考え込むような素振りを見せた後、低い声で口を開く。
「エレナという少女を知っているだろう」
「『精霊の姫君』のエレナ様ですか?」
「ああ」
エレナ様は学園で注目を集めている少女で、特例で転入した平民だ。彼女が『精霊の姫君』であることはまだ公にはされていないが、アルバート様から情報を共有されている私たち従者にとっては周知の事実だった。
「そのエレナ様がどうなさいました?」
「彼女の扱いに困っていると言えばいいのか……いや、違うな。どうするべきかを決めかねていると言った方が正しい」
「というのは」
彼は窓の外に視線を向けた。そこには遠く霞む山々が広がっている。彼の瞳はどこか遠くを見つめていた。
「俺は彼女に関心を持っているように見えるか?」
「ええ」
「ふむ。ならいい……例えば、だが」
少しの沈黙の後、彼はゆっくりと話を切り出す。
「この世界が一つの物語だとして、『主人公』が現れ、その力をもって世界を救うとする」
唐突な話題に驚きつつも、以前彼が語っていた物語の話だろうかと思い至る。
「だが、もしその『主人公』が物語と異なり、善良とは程遠い人物だったとしたらどうだ?」
「……物語の展開が大きく狂うことになるでしょうね」
私は頷きながら答える。物事がうまく進まないだろうし、誰かがその『主人公』の代わりを務める必要が出てくるかもしれない。
「だろう? しかし、それにも関わらず、俺は元の物語を見てみたいと思ってしまう。それが困難を呼ぶことになると理解しているのに、だ」
その言葉に私は思わず息を呑む。
「つまり、それが迷いの原因ということでしょうか?」
「……ああ。そういうことだ」
アルバート様がこのようにこの世界を物語に例えて語る瞬間があるが、その意図はいつも謎だ。エレナ様がその『主人公』だと言いたいのだろうか。
「具体的には……」
「それは……すまない。まだお前に話せることではない」
「承知しました」
話を切り上げるように彼は短く答える。これに私は従者としてこれ以上踏み込むべきではないと判断した。話は何もわからないが、仕方がない。彼もおそらく理解を求めているわけではないのだろう。
この話をウォルターにもしたのかと聞くと、話していないという。曰く、「ウォルターは近すぎる」らしい。近すぎるとはどういうことなのか。確かに二人の年齢は近いが、そういう意味ではないのだろう。
いずれにせよ、私たち従者には彼の深い胸の内を知ることは許されないのだろう。だが、このまま放置するわけにはいかない。彼の気分を少しでも明るくする方法を考える。私に出来ることはあるだろうか。
……一つ、思いついた。悩む間にも彼の表情が沈んでいくのを見て、意を決する。
「アルバート様」
「なんだ?」
一瞬の間が空く。だが、この機会を逃すわけにはいかない。少し迷いながらも私は口を開いた。
「それなら、楽しい方を選ばれてはいかがですか?」
アルバート様は驚いたように顔を上げた。その目が、私の言葉を追いかけるように揺れる。
「……楽しい方?」
「ええ。どちらを選んでも一長一短があるのなら、より楽しめる方を選ぶのが良いのではないでしょうか」
「……」
一瞬、執務室に静寂が落ちる。軽率な発言だったかもしれないと思った矢先、彼は予想外の反応をした。
「──、ふふっ」
彼は目を丸くし、それから肩を震わせて笑い出す。
「はは、ははは! ……そうか、楽しい方を選べばいいのか。なんだ、そんな単純なことに気づかなかったとはな」
彼は椅子を大きく軋ませて立ち上がり、両腕を伸ばして大きく伸びをする。その顔はこれまでの迷いが嘘のような晴れやかだ。
「よし、そうしよう。俺は楽しい方を選ぶことにする!」
執務室の空気が一気に明るくなったように感じる──
「というわけで早速作戦を考えて──」
いや、待て。急に不安になってきた。果たしてこれで良かったのだろうか。私の軽い提案が、どんな影響を与えたのか。楽しい方という言葉が、彼にとって何を意味するのか──
もしかすると私は押してはいけないボタンを押してしまったのでは……?
「……」
……まあいいか。私は考えることをやめた。
アルバート様が笑顔を取り戻したのだから、ひとまずは良しとしよう。
エレナ様の話が一区切りした後、私はふと思い立ってもう一つ気になっていたことを尋ねることにした。
「ところで、ルージュ様とはいかがですか? 最近はあまりお会いされていないようですが……」
「ん?」
ルージュ様──アルバート様の婚約者だが、最近は二人間に冷えた空気が流れているという噂が、学園の生徒たちの間で囁かれているようで、この王城にまで伝わってきている。従者として公には触れないよう努めてきたが、気にならないわけではない。まさか、かつてのように不仲になってしまったのだろうか。
私がそう言うと、アルバート様は少し驚いたように私を見た後、苦笑を浮かべた。
「何を言っている。ルージュとは相変わらずだぞ」
「ですが、以前と違って──」
思わず口を滑らせた私に、アルバート様は意味深な笑みを浮かべた。その笑みは、彼が何かを隠している時によく見せるものだ。
「ははは、どうだろうな。お前から見てどう思う?」
「どうと言われましても……」
含みのある一言。従者としてあまり踏み込むべきではないと分かっていながらも、何か引っかかるものを感じる。
最近の二人の関係の噂こそよく聞いているが、今のアルバート様の表情からは、不仲などではなく、逆にむしろ、彼女に対して何かしらの特別な感情を抱いているようにも見える。
「普通に仲良くしているということですか……?」
「さあな。だが、このことは内密に頼む」
……話を切り上げられてしまった。この流れなら詳しく教えてくれてもよくないですか?
アルバート様が再び書類に向き直ったタイミングで、私は自分の中に湧き上がる疑念を無理やり押し込める。そんな私の様子を見た彼は心底愉快だと言わんばかりの表情で口を開いた。
「お前が言った通り、楽しい方を選ぶのが正解かもしれないな」
「……そうですかね?」
「そうだぞ。少なくとも、俺が悩んでいる姿をルージュに見せたくはないからな」
つまり……どういうことなのか。抽象的過ぎて何もわからない。
彼は一体何を考えているのだろうか。今日もまた、謎は深まるばかりである。
その日の夕方、私は王城の廊下でルージュ様と出会った。城に用事でもあったのだろうか。彼女は私に気づくと、ふわりと微笑んだ。
「ごきげんよう、ロベルト様」
「……!」
その一言に私は足を止め、慌てて頭を下げる。そうです私はロベルトです。
名乗った覚えもないのに、ルージュ様に名前を知られているとは驚きだった。アルバート様が教えたのだろうか。……ただの従者の名前を? 何故?
「アルバート様をよろしくお願いいたしますわね」
その一言が何を意味するのかを考える。もしかして、彼女もまた、何かを知っているのだろうか?
私は「ええ、もちろんです」と答えながら、彼女と目を合わせた。だが、その視線に全て見透かされているようで、少し身がすくんだ。
彼女が歩き去った後も、胸の中に渦巻く疑問は消えることなく、ただ膨らむばかりだった。
その夜、執務室の片隅で、私は一人、今日一日の出来事を振り返っていた。
アルバート様とルージュ様が秘めているであろう何か。それは私には知ることのできない深い事情があるのだろう。
従者である私にできることは、彼らの未来が少しでも良い方向に進むよう、陰ながら支えることだけだ。
「……さて、まずはこれを終わらせないと」
そう思い直し、目の前の書類の山に視線を戻した。