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私たちは一度寮に戻り、日の落ちた頃に校庭の片隅に集合した。賑やかな日中とは異なり静まり返っているが、月明かりのおかげで視界には問題はない。
「これから何をするんだ?」
隣を歩くアルバートが少し不思議そうな顔をして聞いてくる。
「最近、夜の校舎裏に出る魔物の噂があるじゃないですか」
「ああ、そういえばあったな。夜になるとどこからか奇妙な鳴き声が聞こえるだとか、視界に入るとすぐに姿が消えるだとかいうやつか」
「それです。それを捕獲します」
「……捕獲?」
彼は納得がいかない様子で私をじっと見つめた。それもそのはず、彼には『動きやすい服装で武器は持たないように』と指示していたのだ。普通は魔物相手に武器なしなんて正気の沙汰ではない。だが、今回に関しては例外だ。
「それはどういう……」
「すぐにわかりますよ」
校舎裏へ到着し、私は持参した袋から召喚道具を取り出す。これは簡単に手に入る素材を組み合わせた今回の魔物専用のもので、本来なら噂を聞いて一つずつ集めるのだが……当然そんなことは最初から全部知っているので事前にまとめて準備しておいた。
「始めますね」
アルバートが身構えるのを横目に、私は呪文を唱えた。道具が淡い光を放ち、やがてその中心にゆっくりと影が現れる。
「あれを捕まえればクエストクリアです」
「あれが──」
出てきたのは──大きめのウサギのような魔物だった。ふわふわの体毛とつぶらな瞳が可愛らしい。
「…………あれを? それだけか?」
「そうですね」
彼は明らかな疑問を浮かべている。確かに弱そうな魔物に見えることは否定しない。どこからどう見てもただの大きいウサギなのだ。だが、
「案外強敵なんですよ」
「ほう」
実際に試してみればわかるだろうと思い、二人で挟み撃ちにするように魔物を囲む。そしてそっと近づき手を伸ばすと──魔物は瞬時に消え去り、数メートル先に再出現した。
「こんな感じで捕まえようとするとワープして逃げるんです」
「なるほどな」
これは確かに強敵だな、と彼は呟く。
一応攻撃すれば倒せるのだがクエストクリアにはならない上、そもそも経験値が美味しくないので戦う必要はない。なので捕まえる一択なのだが──
「……速いな」
魔物は素早く動き回り、捕まえるどころか追いかけるだけで精一杯だ。ゲームではワープ先がランダムなため、適当に追い回して運良く近くに現れたときに捕まえるのだが、現実ではちゃんと狙った人間から離れたところに逃げている。ゲームとは異なり明らかに知性があって賢い。
「だとしたら埒が開かないのではないか?」
「いえ、実はもう一つ方法がありまして」
「なんだ」
「魔物の魔力が尽きるまでひたすらワープさせ続けるっていう」
「……」
アルバートの沈黙が痛いが、救済措置のようなこれが最も確実な方法なのである。他に有効な手段が思いつかない以上、やるしかない。
「……二人なら追いかける労力は半分ですので」
「まさかそのために俺を連れて来たのか……?」
申し訳ないがその通りだった。でも歯応えは無駄にあるので許してほしい。
私たちは魔物の動きを観察しながら何度も捕獲を試みるが、手を伸ばすたびに空間が歪んで魔物の姿は消え、遠くに再出現する。
「なかなかしぶといな」
そう言いながらも諦めずに追い続けた。魔物はまるでこちらを嘲笑うかのようにひらりひらりと逃げ回る。
どうにか捕まえたい。そんな意地で募ってくる疲労を誤魔化しつつ身体を動かしていたが、
「あっ……!」
ついに足がもつれ、私は大きくバランスを崩した。
「? ……あれ?」
痛くない?
どさりと音を立ててうつ伏せに地面に倒れ込んだ瞬間、予想外の感触があった。冷たい地面の硬さではない──むしろ柔らかく、温かい感触。
恐る恐る上体を起こそうとした瞬間、視界一杯に人間の肩が映った。どうやら私はアルバートの胸元あたりに頭をうずめる形になっているのだと気づく。
しかも、よく見ると私が彼を押し倒す形になっていた。転んだ際に彼を巻き込んでしまったようで──その事実に混乱と羞恥が一気に押し寄せる。
「!? ご、ごごご、ごめんなさい! ──ひえっ!?」
慌てて体を起こそうとしたその瞬間、彼の腕がしっかりと私の背を支え、引き寄せられるように再び体勢を固定された。
「……!?」
「待て、大丈夫だ」
その低く穏やかな声が耳元で響き、思わず動きを止めてしまう。
「……っ、あの、本当にすみません」
状況をなんとか理解しようとするものの、頭が回らない。どうしてこうなった? 私が転んだ。それに巻き込まれたアルバートが……今、私を抱きしめている? 近すぎる距離に、心の中に浮かぶ混乱と戸惑いの声が次々と重なり合う。逃げ出したいのに、彼の腕がそれを許さない。
そして私の顔は自然と彼の肩あたりに埋まってしまい、表情を窺うこともできない。
肩越しに見えるのは地面だけだ。だけど、感じるのは彼の温もりと微かな息遣い、そして胸元から伝わる心臓の鼓動。さらに追い打ちをかけるように、それに合わせて私自身の鼓動が早まるのを感じる。
わけがわからない。胸が苦しいのは混乱のせい? 考えれば考えるほど答えが出ない。
「はは、ははははっ!」
唐突に彼が笑い出した。その音が耳元で響き、私は驚きのあまり肩をびくりと震わせる。
「……アルバート?」
震える声で彼の名を呼ぶが、彼は私の問いに答えることなく続けて言った。
「疲れた! ……少し休憩だ」
「へ……?」
散々走り回ったから疲れたのはわかるけど、休憩って、この状態で……!?
さらに混乱する私をよそに、アルバートは私を抱き寄せたまま、少しだけ力を抜いた。
「……ルージュ」
「な、なん、ですか……?」
声が震えるのを抑えられない。心臓がうるさい。まともに話せそうにないのに、そんな私の心情に気づいているのか否か、彼は落ち着いた声で語り始める。
「……不思議だな」
「?」
「いや──楽しいと思ってな」
「楽しい、ですか?」
言葉の意味がわからず、反射的に問い返す。だが彼はそのまま静かに言った。
「……昔はこんなこと、くだらないとすら思っていたんだ」
彼は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を続ける。
「他人に振り回されるのが嫌いだった。目標を定め、それに向かって一直線に進むこと以外は、時間の無駄だと思っていた」
「……」
その声から、少しだけ昔を思い出すような寂しさを感じた私は何も言えなくなる。
「だが、いつの間にか気づいたんだ。一人で進み続けるのは簡単だが、それではずっと虚しいままだと」
彼の言葉が静かに響く。
「こうやって、無駄に見えるようなことに付き合って、一緒に笑ったり怒ったりする──そういう時間も案外悪くないものだな」
そう言った彼は、穏やかな声で笑った。
「さて……そろそろ休憩は終わりにするか」
やがて彼の腕が緩み、私はようやく自分の体を動かすことができた。
体を起こし、立ち上がりながら彼の顔を見ようとしたが、アルバートはすでにこちらに背を向け、呼吸を整えるように深く息を吐いていた。
「……気を取り直して、もう一度やってみるか」
彼が軽く肩を回しながらそう言うのに合わせ、私はどうにか深呼吸をして気を落ち着けた。
「……そうですね」
言葉を返しながら、まだ早まる鼓動を抑えきれない自分が少しだけ悔しかった。
改めて魔物を追いかける。アルバートはむしろ先ほどよりも楽しそうにしていて、そんな姿に少し呆れつつも、私も自然と笑みを浮かべていた。
しばらく追い回していると、彼がふと足を止める。
「どうしました?」
「これは……規則性があるな」
彼の言う通りに魔物の動きを見てみると、確かにある程度決まった場所に移動しているような気がする。
「本当ですね……それならば」
「ああ。ワープ先で待ち構えよう」
頼もしい彼の提案に、私はすぐ頷いた。
二人で手分けして動き、魔物が現れる場所とタイミングを見計らう。これまで逃げ回っていた魔物が、今度は次第に追い詰められていく。
そして──
「捕まえた!」
アルバートから逃れ、私の目の前に出現した魔物に素早く手を伸ばし、しっかりと捕獲する。魔物はジタバタと暴れたが、しばらくすると一冊の本をその場に落として消えた。アルバートがそれを拾い上げまじまじと観察する。
「これがクリア報酬というやつか?」
「そうです。そして、」
報酬であるこの本──魔術書の中には指定箇所へのワープ魔術が記されている。使用できる場所こそ決まっているが、一度行ったエリアにすぐに行けるようになるのだ。例えば、学園から精霊王のもとへすぐに向かうことも可能である。
「すごいな」
「なんと城にも一瞬で行けますよ」
「それは……とんでもなく便利だな!」
「ですよね! 早速覚えましょう!」
すぐに魔術書を開き二人で読む。これでクエストやらなにやらの先回りがやりやすくなるし、お互いに帰省も楽だ。そしてなにより長距離移動の度に馬車を手配するめんどくさい生活から解放される……!
「必要だと思ったらエレナさんにも教えてあげてください」
「ふふ、そうだな」
読み終えた魔術書をアルバートに預ける。私の意図を察したのか、彼は少しだけ意地悪そうに笑った。
彼女の移動を制限する──これも彼女への密やかな対策である。このサブクエは一回クリアすると二度と出現しない。だから、もう彼女にはこの魔術書の入手手段はないのだ。
彼女が何をしでかすのかわからない今、自由に動き回られるのは厄介である。少し大人しくしてもらおうではないか。
寮への帰路、今週末は帰省することを告げるとアルバートは特に追及することもなく頷いた。私が何をしたいのかおおよそ見当はついているようだ。
「アルバートの方はメインクエストですね」
「うむ」
最初のメインクエストはシナリオ通りなら今週末に発生する。ゲーム通り私は参加しないが、簡単だから気楽にやって大丈夫だと彼に伝えた。
しかし、また主人公絡みで想定外の事態が起こるとは、この時には考えてもいなかった。




