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「……姉上?」
聞き覚えのある声に振り返ると、義弟のノアが立っていた。驚きつつも口を開く。
「……ノア?」
「……はい」
私は彼がここにいる理由が分からず、一瞬戸惑った。どうしてここに?
ノアは周りを一切気にする様子もなく、一直線に私に近づいてくる。ここは三年のフロアで、彼はまだ一年生だ。迷子……というわけでもなさそうだけど、一体何の用事だろうか。
「わたくしに何か用かしら?」
「……はい。姉上に渡したい物が、」
そう言いかけたところで、ようやく周囲の状況に気づいたらしい。視線を巡らせ何か考え込んでいる。そして彼の目がエレナに留まり──
「……昨日の……?」
「! あっ、その……」
え、昨日? もしかして二人、廊下でぶつかったとか? 頭の中で可能性を巡らせる。『転入初日に廊下でノアとぶつかる』──それは主人公と彼の出会いのシーンだ。もしそうなら隠しキャラの攻略ルートも既に解禁されている状態なのかもしれない。……ノアルートは難し過ぎるから極力避けてほしいけど。
だが、そんなことを考えている場合ではない。今はこの場の混乱をどうにかしないと。
「ノア、今は少し間が悪いわ。この後でも大丈夫かしら」
「……問題ありません」
よし、とりあえず後回しにできた……そう思いながらエレナに目を向けると、彼女はノアを見て目を見開いていた。
「な、なんでノアが……そんなはず……」
「? ……僕がどうかしましたか」
「い、いえっ!」
ノアが尋ねると、彼女は肩を跳ねさせるようにして答える。だが、それだけでは終わらなかった。
「なんだよてめぇ」
突然、騎士団長の息子がノアに噛み付いてきた。
「? ……なんですか」
「『姉上』ってことはそいつの弟なんだろ。なら──」
「えっ、ちょっ、ダメ……!」
騎士団長の息子が言葉を続けようとしたその時、エレナが慌てた様子で制止に入った。
「や、やめてください! 私、気にしてませんので……!」
彼の言葉を必死に遮るエレナの姿に、騎士団長の息子は不満げに唇を噛んだ。それを見た彼女はまるで焦ったような仕草を見せた後、ふと思い出したかのように顔を上げる。
「わ、私……あ、そうだ、アルバート様をお待たせしてるんでした。なので失礼しますっ!」
「……それなら俺も行くよ、今みたいに絡まれないようにしないといけないから」
「あ、ありがとうございますっ……!」
彼女は騎士団長の息子に支えられながら、最後に一瞬だけこちらを睨み、そそくさと逃げるように去っていった。……あれは確実に敵意のある目だった。私が何をしたっていうんだ。
やがて、この茶番の主役がいなくなったことで周囲の人々も徐々に散り始める。
「……」
助かった。それにしても、私の前で『アルバートと会う』なんて言うとは。知らなかったとしても元のルージュ相手なら確実に火に油を注ぐような行為だ。それに加えて『平民が王太子に会う』ということを皆に暴露するなんて自分の首を絞めるだけだと思うのだが、なんのつもりなのか。
一方で状況を飲み込めていないノアは疑問符を浮かべていた。
「……何かあったのですか」
「あなたは気にしなくていいわ」
彼が首を傾げる。その仕草が妙に可愛く見え、ほんの少し心が和らぐ。
その場をなんとかやり過ごし、彼を一旦教室に戻らせた私は、一人でため息をつく。
「なんてこった……」
誰にも聞こえないよう、静かにそう呟いた。
「──ということがありまして、簡単にいえば主人公と攻略対象の出会いの引き立て役にされたわけです」
「なんと」
少し時間を置いてからノアに会って物(報告書だった)を受け取った後、いつもの部屋に来た私は、先ほどの出来事をアルバートに報告した。彼は腕を組み、真面目な顔で答える。
「それは災難だったな。……踏まれた足は大丈夫なのか?」
「はい。なんと無傷です」
「無傷」
確かに踵で思いっきり踏まれた感触があったのに、レベルがそこそこ高いおかげか傷一つなかった。結構痛かったんだけど……一周回って怖い。
「……アルバートは私を疑わないんですね」
「当然だ」
「ふふ、頼もしいですね」
今さら彼にまでみんなのように疑われたら、私の心は確実に折れるだろう。最悪、闇堕ちして世界を滅ぼすルートに進んでしまうかもしれない。
「……滅ぼそうと思えば割といける気がするんで」
「やめてくれ。止められる気がしない」
という冗談はさておき。
それにしても、足を踏まれただけで悪役扱いされるとは。しかも誰も彼も私を疑うではないか。確かに悪役顔だし身分の差もあるけど、それだけで決めつけられるのは納得がいかない。
「理不尽だな。しかし、彼女はなぜそのような真似を……」
「どうでしょうね。本当につまづいただけかもしれないので」
そう言いながらも、私は静かに目を細める。
嘘だ。確信がある。あれは絶対にわざとだった。間違って踏んだ程度ではあんなに体重がかかるわけがない。そして私が何もしていないのにあんな風に倒れるわけもない。
そんな真似をした彼女が何を企んでいるかは分からない。だが、今は騒ぎを大きくするつもりはなかった。
ここで怒りに任せてゲームのルージュのように報復したらどうなるか。答えは簡単、断罪まで一直線だ。気をつけないと。彼女はこの世界の救世主、国に護られた存在であることを忘れてはいけない。
私は深く息を吸う。
「これからはたとえ……ぶつかられようが踏まれようが斬りかかられようが、笑顔で動じないくらいの精神力を身につけます。そして倒れそうになった人間は全て支えられるように……」
「それは人間に出来る範疇ではないのでは……?」
彼の至極真っ当な指摘に苦笑いする。でもレベルカンストまで鍛えれば案外どうにかなるのではないかという妙な自信もある。
アルバートに今日の出来事を報告し終えた私は、ようやく一息ついた。エレナに足を踏まれ、騎士団長の息子に絡まれ、挙句の果てには悪役扱いされるという散々な一日だったが、少なくとも彼には真実を伝えられた。
……けれど納得がいかない。なぜこんな展開になってしまったのだろう。
やっぱりシナリオの強制力で悪役になる方に向かわされているのだろうか。主人公に変な行動をさせてまでゲーム通りに進めるということか。
「シナリオ通り、か」
「そうですね」
「……ルージュが悪役扱いされた理由は、それだけか?」
彼はそう言うと、顎に手を当てて考え込むように目を伏せた。どこか引っかかっているものがあるのだろう。沈黙がやけに長く続いた。
「何か気になることでもありましたか?」
「……少しな」
彼は視線を少し落とし、低い声で続けた。
「主人公の行動が少し気になった。仮にルージュを悪役にするとしても他に方法はあるだろう? 彼女は随分と妙な動きをするな、と」
「確かに変ですけど、それはゲームのイベントの通りに──」
──ふと、ある違和感に気づいた。
ゲーム通りならおかしいことがある。
「……アルバート。ちょっと確認なんですけど」
「なんだ?」
アルバートにこれまでのエレナの様子を尋ねる。彼曰く、昨日はちゃんと戦闘チュートリアル(例の負けイベント)を説明し、先ほど──私がここに来る前には今後の方針について話したようだ。その時の彼女は特に違和感のあるような様子は見えなかったらしい。……今日は騎士団長の息子も一緒に来ていたが、そっちは話を始める前に帰したという。
そこはゲームと一緒だ。それだけなら十分ゲーム通りになっていると言える。だが──
そうだとしたら一つ、明らかに不自然なことがあった。
ゲーム通りなら、彼女がノアを避けるなんておかしいじゃないか。