30
廊下に倒れ込んだ主人公を庇うように、騎士団長の息子が鋭い視線で私を睨みつける。
「おい! 何してんだ!」
ああ、これはゲームと同じ展開だなと頭に過る。ルージュが主人公を突き飛ばし、それを目撃した攻略対象に助けられるシーンだ。……それはいいのだが。
「……わたくしは何もしていませんわ」
「だったら、なんでこの子は倒れてるんだよ!」
今回の私は本当に何もしていないのである。
それなのに、どうしてこうなった!?
昨日は始業式。新学期を迎えた私は無事に三年次になった。そして乙女ゲーム『精霊の姫君と願い星のロンド』のシナリオの開始日でもあった。
精霊王が落ちたことによる『異変』の影響は少しずつ拡大しているものの、まだ生活にはほとんど影響がなく、皆は状況を楽観視しながら変わらずに過ごしている。
教室では『隣のクラスに平民の転入生が来た』という噂が飛び交っている。クラスは違うものの、ゲームで描写されているのでその内容は全て知っていた。
簡単に説明すると、教室に入った主人公は教壇の前に立ち自己紹介をするのだが、そこで、
「平民の出ですが、よろしくお願いします」
と言ってしまう。そして彼女が平民という情報はすぐに広まり、周囲から好奇の目で見られることになるのだ。彼女が『姫君』であると明かされるのはもう少し後になる。
ちなみに彼女はアルバートと同じクラスだ。
アルバートといえば、祠の神を目覚めさせたのはやはり彼だった。なぜそんなことをしたのか問い詰めると、どうやら気になってしまい、大体週一ペースで通っていたらしい。確かにそれなら二年で約100回である。
この神は、本来ならば主人公以外と面識があるキャラではないし、関わることでどんな影響があるのかもわからない。顔を合わせる覚悟がまだないので、会いに行くのは少し考えてからにしようと思う。
それまでは目覚めさせた責任をとって話し相手をしてくるようにとアルバートに伝えた。あの神、寂しがりだという設定があるのだ。
……まあ、それはさておき──主人公の方だ。シナリオ通りなら私と彼女が出会うのは転入二日目、今日の放課後のはずだ。
「きゃっ!?」
「……!」
放課後、いつもの部屋に向かおうと廊下を歩いていると、一人の少女が曲がり角でぶつかってきた。顔を見るとゲームで何回も見た主人公だ。よし、ゲーム通り。
彼女の名前はエレナ・ルナリーシャ。肩まで伸びた柔らかい髪、澄んだ瞳が印象的な可愛らしい少女だ。平民出身でありながら、誰にでも分け隔てなく接する誠実さと芯の強さを持つ。
傷つくことがあっても笑顔を絶やさず前を向くその健気な姿は、誰もが応援したくなるような不思議な魅力を持っている。そんな彼女は『精霊の姫君』として世界の危機に立ち向かいながらも学生として恋をして過ごしていくのだ。
ゲームでのエレナとルージュの出会いは最悪なものだった。今のように誤ってルージュにぶつかってしまった彼女は、勢いよく突き飛ばされてしまう。そして倒れた彼女は『平民風情がこの学園に通うなど、穢らわしい』と吐き捨てられショックを受けるのだ。
──もちろん私はこんなことをするつもりはない。悪役ムーブをしないと心に決めている。
ちゃんと優しく接しようと思い、彼女に声をかける。
「あら、ごめんなさい。お怪我はなくて?」
「……」
「……?」
……あれ? 返事がない。それになんだか様子が変だ。じっと不思議なものを見るような目でこちらを見ている。
こちらも不思議に思っていると、しばらくの沈黙ののち、不意に彼女は呟いた。
「……なにそれ、バグ?」
「え──?」
聞き取れずに問い返したものの、彼女は答えるどころか突然私の方に身を寄せてくる。その動きに瞬時に違和感を覚えたが、気付いた時にはもう遅かった。
「きゃっ」
彼女はわざとらしく小さな声をあげ、つまずいたように前のめりになり、ふらつく足を私の足の甲に置いた。そして、力強く踵で踏みつけられた感触が靴を通して伝わってくる。
「痛っ……!」
突然の出来事に思わず声をあげ、何事かと目を向けると──彼女はどこか勝ち誇ったような微笑みを浮かべていた。そして、
「ご、ごめんなさいっ……きゃああっ!?」
「えっ?」
甲高い叫び声が響いたかと思うと、彼女はまるで私に突き飛ばされたかのように後ろに倒れ込んだ。
……どういうこと? さっきから何が起きているのかわからない。
私はその場に立ち尽くした。確かに私は一歩も動いていない。触れるどころか、彼女に手を伸ばすような仕草すらしていないのに──
「な、なんで……ひどい……っ!」
彼女は床の上に倒れたまま、震える声で私を非難し始めた。震える手でスカートの裾を掴み、涙を浮かべてみせる。
周囲にいた生徒たちがざわつく。その視線が私に集中しているのを感じた。あまりの理不尽さに、一瞬息が詰まる。
「待って、わたくしは何も──」
言いかけた私の声は、彼女のすすり泣きによってかき消された。それを見て周囲の生徒たちはさらにざわめく。
嘘でしょ!? 何もしてないのに!?
でも落ち着け。もしかしたらわざとじゃないかもしれないし。本当にただ転んだだけで、それを勘違いした説も……。
「だ、大丈夫──」
「いやっ!」
手を差し伸べようとする私の動きを見た彼女は、怯えるように大げさに身を引いた。その仕草に、周囲のざわつきはますます大きくなる。
「何かあったんか? ……!?」
その時、何事かとやってきた人物の声がした。見るとそれは騎士団長の息子で、攻略対象の一人で──
……ヤバい、一番面倒な人が来た。
案の定、彼は転入生である主人公の前に立ちはだかり、鋭い視線をこちらに向けて言い放つ。
「おい! 何してんだ!」
──そして冒頭のシーンに至る。待ってこれ、私が悪いの?
「……わたくしは何もしていませんわ」
「だったら、なんでこの子は倒れてるんだよ!」
このシーン、知ってる。彼の初登場イベントだ。彼の正義感溢れる性格が際立つシナリオだけど、今この状況でそれを再現されても困る。冤罪なんだけど。
確かに、この状況を何も知らない人が見たら私が悪役にしか見えないだろうけど──
「君、大丈夫?」
「ありがとうございます……私、間違ってぶつかってしまって……そしたら突き飛ばされて、怖くて……」
……はい?
彼女の言葉に、周囲の生徒たちから「転入生に嫌がらせをするなんて……」という声が聞こえ始めた。
本当に何もしてないんだけど!? あれ、これどうやって弁明すればいいの?
「でも、私っ、平民なんて穢らわしいって……言われて、」
そんなこと、一言も言ってないけど!?
「私のような身分の者には、こんな仕打ちが、当然なんですね……」
悲劇のヒロインを演じるように肩を震わせる彼女に、周囲の同情はどんどん傾いていく。
「なっ……! てめぇ、侯爵家の娘だからってこんなことしていいと思ってんのか? ふざけんな!」
「わたくしはそんなこと……」
「今後に及んで言い訳すんのか?」
彼は私の言葉を聞く気などない様子で、厳しい視線を向けてくる。そんな私たちを見た周囲から「そんな人だと思わなかったな……」的な呟きが聞こえ始めた。
もしかしてこのままゲーム通り悪役になる方向に持っていかれるのだろうか。四面楚歌の状態に追い込まれ、周囲から私を責めるような視線が集中している。
「……っ!」
シナリオに引きずられる感覚に、焦りと理不尽さが胸の中で渦巻いていく。クエストもシナリオも攻略チャートを無数に考えたけど、この展開は想定外だ。
どうする? 諦めるしかないのか?
それならいっそ、この状況を逆手に取って最強の悪役令嬢路線を突き進んでやろうか……? そんな考えが脳裏をかすめたその時──
「……姉上?」
背後から聞き馴染みのある声が響いた。