19
転生してから二年目の初夏、侯爵家の一室。重い空気が漂う中、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。
「……」
ノアが報告書を読み進めている姿を、私は緊張しながら見つめていた。彼の指先が一枚一枚、淡々とページをめくる音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
長い沈黙に耐えきれず、手のひらには冷たい汗がじんわりとにじんでくる。
どうしてこうなっているのか、始まりは二ヶ月ほど前に遡る。
「な、なんですか、これ……」
「見たままだな」
夜会から数日後の放課後、私とアルバートは学園内のいつもの部屋で二人、テーブルを挟んで座っている。目の前に広げられたのは、ウォルターが作成した侯爵家の内情に関する報告書だ。綿密に記された内容を追ううちに、私の顔は次第に真顔になっていった。
うわ、これもしかしてゲームの時より酷いことになりそうじゃない?
「これ、マジですか?」
「残念ながらマジというやつだ」
「うへぇ」
アルバートの諦めたような返事に頭を抱える。無事に夜会を乗り切った私たちは休む間もなく、再び険しい問題に向き合っていたのである。
侯爵家のあれこれについては効果的な対策をしたつもりだったが、これほどまでに苦戦するとは。まだ悪事は計画でしかないとはいえ、これがシナリオの強制力なのか? 意地でも侯爵家を悪役にしたいのか。そうですか、こんちくしょう。
「ていうかあの二人、根性あり過ぎですよ」
「それは俺も思った」
監視されながらもあの手この手で新たな悪事に手を染めようとする両親には正直ドン引きである。そのバイタリティーをこんなところに向けないで普通に内政に励んでくれよ。絶対そっちの方がいいって!
そう言うと、アルバートも「確かに」と深く頷いていた。
「で、どうしましょう」
「うむ……」
このまま放置するわけにもいかないので、また新たに手を打たねばならない。だが、どうやって打つべきか。策が浮かばないまま時間だけが過ぎていく。
そんな時、彼が「……一つ、作戦を思いついたのだが」と静かに口を開いた。
再び侯爵家の一室である。今、私がノアを前にしているのは、アルバートが言っていた『作戦』のうちの一つだ。
ウォルターによれば、両親は二人とも表向きは大人しくしているらしい。だが実際は悪事を完全にやめたわけではなく、侯爵家の外で動くようになっていた。家の中に証拠を残さないためだろう。
しかも二人のうち、ウォルターが付いていない方が暗躍していたため、一人では監視に限界があった。彼がなんとか走り回ってかき集めた情報から見えてきたのは、思った以上に厄介な事態だった。
色々あったが、特に大きいのは、いくつかの貴族で結託して大規模なカルテルを作ろうとしていることだ。貿易、市場、農業、資源──その全てにおいて仲間内で利益を貪ろうというのだ。ただでさえこれから『異変』が起こるのに、それに加えてこれを実現されたら領地はとんでもないことになるだろう。
しかしまだ計画段階、早めにわかったのは助かった。ウォルター様様である。こんなのが後で出て来たらどう考えても断罪待ったなしだ。しかも複数の貴族が巻き添えになる。
こちとら断罪を回避しようと頑張っているんだから本当にやめてほしい。なんでゲームの時よりでっかくやらかそうとしてるんだ! 邪魔された腹いせか!?
冬に訪れる『異変』に備えるため、ウォルターは秋にはアルバートの元に返すことになる。おそらく両親はウォルターがいなくなることと『異変』の騒ぎに乗じて行動を起こし始めるのではと予想している。
だから私たちはそれまでに罠を張ることにした。
彼らの計画を先回りして潰しつつ、証拠を集めて糾弾する。
アルバートの『作戦』。つまり我々がしようとしていることは所謂騙し討ちである。シナリオで主人公に断罪される前に私たちの手で彼らを内密に断罪し、権力を奪い取るのだ。
うん。さすがは『腹黒王太子』の案、なんか黒い。マジで敵に回したくない。まあ、やっていること自体は主人公がルージュを断罪する時と少し似てはいるけど。
しかし一つ問題がある。両親の権力を奪うということは、実質、ノアに侯爵の座を継がせてしまうということだ。
アルバートは、元からノアが侯爵家の跡取りなのだから、早めに準備させても問題はないという考えだった。それにシナリオ通りなら、いずれノアは侯爵家に立ち向かうはずでもあり、それが早まるだけだと。ノアだけでは力が足りない部分は国として手を貸すつもりらしい。その辺はしっかり考えていると。
しかし、正直なところ、私はこの計画に賛成しきれないでいる。
ゲームのシナリオのようにいつか家を捨ててしまうかもしれないノアに、当主になれと頼むのは選択肢を奪うようで気が引けるのだ。なので本人の気持ちを尊重したいと言えば、アルバートは頷いた。
だから今、私はノアに侯爵家の現状を伝え、そして彼に両親を裏切って当主になる意思があるのか確認しているのだが、正直、胃がキリキリする。でも王太子であるアルバートに言わせたらその気が無くても命令になっちゃうから、私が言うしかないんだよね。王族って大変だ。
「……この内容は、全て事実ですか」
「ええ、そうですわ」
ノアが報告書を読み終える。私は恐る恐る彼の様子を窺った。
「そうですか。わかりました」
……あれ?
驚くだろうか、それとも怒るだろうか。そう思っていたが、彼は淡々としていた。戸惑うようなそぶりもなく、意外にもすんなりと受け入れている。
「あら、驚きませんのね」
「実は……以前から知っていました」
「!?」
少し意外に思いながら尋ねると、彼は予想外の返答をした。
そもそも彼は、ウォルターが補佐として来た時から薄々、何かがおかしいと感じていたらしい。王族が直々に補佐を送り込んでくるなんて変だと。そう考えた彼は、ずっと両親とウォルターの様子をこっそり窺っていてこの状況を確信したという。
なんて聡い子なんだ。さすが、シナリオで侯爵家を断罪しただけある。頼もしい。
「そうでしたのね」
「はい。……ですので、」
ノアは少しの間黙り込み、何かを考えるように目を細めていた。表情からは何も読み取れないが、内心には多くの葛藤が渦巻いているのだと思う。
「……嫌でしたら断ってもらっても構いませんわ。難しいことを頼んでいることはわかっていますもの」
「いえ……その、僕でよろしいのでしたら、協力します」
どうやら彼も両親の件は気にしていたらしい。どうにかしなければと思っていたそうだ。だから協力したいのだと彼は言った。たとえ両親を陥れることになっても、と。
それをアルバートに伝えれば、すぐに『計画』は始動した。
まずはアルバートからの命令として、ノアをウォルターのように補佐としてつける。両親に対しては『優秀な人材だから、早めに仕事を手伝わせたほうがいい』と彼が言えば、無下にはできないだろう。
そして秋までの間にウォルターから具体的な監視方法についてノアに引き継ぎ、後は両親を監視しつつ、動きがあればこちらで対処していくことになる。
私からは少しでも気になることがあればすぐに報告するようにと伝えた。ぶっちゃけ両親の悪事うんぬんよりもノア本人がめちゃくちゃ心配なのだ。
だってノアは攻略対象の中でもぶっちぎりでデフォルトのメンタルがヤバいから。バッドエンドもあんな感じだし、結局ルージュはなんで死んだのかもわからないし。
……って本当に大丈夫か不安になってきた。誰か大丈夫だって言って!
巻き込みたくなかったけど、でももう背に腹はかえられないし、どうしようもない。頑張って、ノア。いざとなったら両親のことは力ずく(物理)でどうにかするから、何かが起きる前に教えてねマジで。
「ノア、ちょっといいかしら」
「……なんでしょうか、姉上」
後日、休日に屋敷に戻った私は、ふと思い立ってノアに尋ねることにした。どうしてこの『作戦』を受け入れたのかがなんとなく気になっていたから。両親の悪事を止めたいからという理由だけでなく、何か他に思っていることがあるんじゃないかと。
私は思ったのだ。ゲームのノアだったら、断れるのなら断るのではないかと。まあ、根拠は特にないけど。なんだろう、ノア推しの勘?
「いえ、特には……」
私の疑問に対してノアは不思議そうにしていた。うーん、やっぱり気のせいなのだろうか。
「そうですのね。でも、ごめんなさい。大変な役を任せてしまって」
「……」
私の言葉に彼は少しの間考え込んだあと、
「構いません……それが、僕の役目ですから」
と、目を閉じて静かにそう答えた。
「ノア……」
今も彼の感情は読めないままだが、ゲームの時とは何かが変わっているような、そんな気がした。




