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早足で現れたエレナは庭園を見渡すと、わずかに首を傾げた。
「皆さん、どうかしましたか……?」
「……実は、誰のものだか分からないお菓子がありましたの」
気まずい空気の中、一人の令嬢が事情を説明する。聞き終えるとエレナは肩の力を抜いたように口を開いた。
「そうだったんですね。でも美味しかったのなら、それで十分じゃないですか?」
彼女は明るく微笑みながら続ける。
「きっと恥ずかしがり屋の方がこっそり置いていっただけですよ。名乗り出るのが苦手な方もいらっしゃいますし」
その言葉を聞いた令嬢たちは互いの顔を見合わせた。
「そ、そうかもしれませんわね……」
「褒められすぎて、勇気が出なかったのでしょう」
誰かが納得したように呟くと、彼女たちは自分に言い聞かせるように同調し合った。
エレナは特別なことを言ったわけではない。それでも皆がほっとしたように表情を緩めたのは、自分たちが欲しかった結論を彼女が口にしたから。
そして、もうその話題に触れないことが最も安心だと理解したのか、誰もそれ以上は踏み込まない。
暗黙のうちに自然と別の話題へ移っていく。
「そういえば、エレナ様はどうして遅れたのですか?」
「えっと……あはは」
理由を尋ねられると、エレナは少し頬を染めて恥ずかしそうに笑った。
「ごめんなさい。ドレスを着るのに慣れていなくて、準備に時間がかかっちゃったんです」
そう言って彼女は裾に軽く触れる。
彼女が纏っていたのは見覚えのないドレスだった。ゲームでは三択から選ぶのだが、そのどれでもない。先日のクエストに私を連れて行ったことといい、もうシナリオの流れに縛られるつもりはないのだろうか。
ただ、そのドレスは夏の庭園というより、照明の落ちた夜会向きに思えたのだが――
「まあ……あのお色、素敵」
「とてもお似合いよね」
「平民とは思えませんわ。装い一つで、印象が変わるものね」
それを気にしている様子は他には見当たらない。周囲から聞こえてくるのは称賛の声ばかりだ。
……私の感覚がずれているだけだろうか。
そう結論づけ、視線をエレナに戻す。確かに生地は上質で、仕立ても見事だ。無理なく着こなしているし、浮いた様子もない。
それでも、私の中で何かが引っかかっていた。
エレナは持参した籠をテーブルに置き、少し申し訳なさそうに微笑む。
「私、紅茶を用意できなくて、お菓子だけになっちゃいました」
「では、そちらをいただけます?」
一人の令嬢が声を掛けると、エレナは小さく首を横に振った。
「その前に、ルージュ様の紅茶とお菓子をいただきたいです」
「……わたくしの?」
不意に名前を出され瞬きした私に、彼女はにこりと笑った。
「はい、ルージュ様のご用意したものは、きっととても美味しいんじゃないかって。私、楽しみにしていて……」
彼女はそう言って、私が持参したものに目を向ける。
「だから、皆さんで一緒に食べませんか?」
なるほど、ここは原作に寄せた展開にするというわけね。
ゲームではここでルージュがエレナに勝負を挑んでくる。この時、先に振る舞うのがルージュなのだ。
とはいえこのイベント、周囲の評価による勝敗はあるが、その後の会話がわずかに変わるだけで攻略に影響はない。ちょっとしたやり込み要素だ。
だけど、ここは画面の中ではないし、私もそれをなぞるつもりはない。だが、
「ええ、構いませんわ。すぐにご用意いたします」
彼女の提案は単なる菓子の共有だ。皆で楽しむだけなら拒む理由はない。今回は流れに任せよう。
用意してきた紅茶を手早く注ぎ、焼き菓子を添える。早速、カップを傾けた令嬢が目を丸くした。
「香りに深みがありますのに、重くないわ」
率直な声に周囲も頷く。事前に何度も試した配合の中で、香り高く、癖の少ないものを選んできたのだ。
「……美味しい」
うっとりと呟いた令嬢の視線が、自然と私の装いへ移る。
「それに、そちらのドレスもとても素敵ですわ」
「ありがとうございます」
落ち着いた藍色の布地に、銀糸で細やかな刺繍を施したシンプルなデザインだ。色合いは少し抑えたが、質の良い布は動くたびに光が柔らかく揺れる。刺繍も胸元と袖口に留め、過度な装飾は避けた。
元の私なら、もっと派手な装いを選んでいただろう。だが、この場では品を優先した。
茶会の案内が届いてから、私は徹底した準備を行っていた。それこそクエスト以上に。
ひとまず、この場は乗り切れそうだと肩の力を抜く。
次はエレナの番だ。
「すぐに準備しますね!」
彼女は持参した籠を開き、皆の前にせっせと菓子を並べていく。
一口食べた令嬢たちは、驚いたように声を上げた。
「あら……素朴ですが、とても美味しいですわ」
「不思議と安心する味ですわね」
「是非、レシピを教えていただきたいわ」
周囲の視線は自然とエレナへ集まる。あちこちから感嘆の声が漏れ、否定的な反応は一つもない。それどころか、もっと食べたそうにしている令嬢がほとんどに見える。これはゲームの描写ではエレナの勝ちのパターンだ。
「ルージュ様も、おひとつどうぞ」
「ええ、いただくわ」
エレナに促され、私も遅れて菓子を手に取る。
この菓子は、ゲーム通りだとしたら彼女の手作りの品。それは確かに素朴で、どこにでもありそうな焼き菓子だった。甘い香りも、色味も、ごく普通。
普通なはずなのに、
なぜだろうか。本能的に口にしたくないと思った。
「……」
だけど、周囲の目が私の反応を待っている。食べないという選択肢はない。
覚悟を決め、口に入れる。
その瞬間、刺すような衝撃が走った。
「――っ!」
痛い。
あまりの痛みに一瞬、意識が白くなる。
だけど飲み込むしかない。耐えろ、私。
表情を崩さぬまま、無理やり喉へ流し込んだ。
「……」
一度深呼吸をすると、痛みは徐々に引いていく。
……まさか茶会でこんな目に遭うとは。
だけど、これで確信した。この菓子には間違いなく何かある。
だけど――今は手札がない。
私は気合いで優雅に微笑み、穏やかに口を開く。
「……素晴らしいですわエレナ様。とても丁寧に準備なさったのでしょう。皆が感心するのも納得です」
「ありがとうございます!」
ここは一旦、称賛しておくとする。もし勝負だったとしたら、結果は明白。いつの間にか、周囲の話題の中心は完全にエレナになっていた。
迂闊に指摘すれば嫉妬に見えるし、黙っているのも角が立つ。今は求められた役目を演じよう。
……だけど、このまま勝ち逃げされるつもりはない。
「本当に美味しかったですわ。……お恥ずかしいですが、もう一つ、いただいてもよろしいかしら」
照れを隠したようにそう言うと、同意するように周囲からも小さな笑い声が上がった。
「はい、もちろんです!」
私の言葉に気を良くしたのか、エレナは嬉しそうに菓子を差し出した。
「ありがとうございます」
そう言って丁寧に受け取るが、もちろん私はそれを口にはしない。
やがてエレナは他の令嬢たちに呼ばれ、その輪へと向かった。彼女の周りにはすぐに人だかりができる。
――よし、今なら誰も私を見ていない。
周囲を確認し、音を立てないようにそっと菓子を小袋に収めた。この菓子に何があるのか。きちんとそのカラクリを調べさせていただこうではないか。
あの後は特に騒動もなく、茶会は無事に終わった。
夕暮れの学園は静かで、先ほどの喧騒が嘘のようだ。遠くから聞こえる鐘の音を聞きながら、私は真っ直ぐに寮の自室へ足を向けていた。
「……本当に何が入ってたんですかね」
寮の廊下を一人でふらふらと歩く。
口内に違和感はないが、さっきから足元が覚束なくなっていた。歩くたびに床が揺れているように感じる。熱も痛みもないのに、なんだか現実から切り離されたみたいだ。
念のため解毒の魔術を試したが、何の反応もなかった。
だとしたら、あれは一体何だったのか。
何かを受け止めきれず、弾かれたような感覚。皆が平然としていた以上、菓子が異常なのか、私の感覚がおかしかったのかは分からない。
だけど、少なくとも私の身体はあの菓子を拒んでいた。
どうにか自室に戻った私はベッドに腰掛け、ため息をついた。考えても、今はうまく答えが出ない。
「……とりあえず、寝よう」
最近忙しかったし、疲労のせいかもしれない。自分にそう言い聞かせ、なんとか寝巻きに着替えた私はベッドに倒れ込んだ。
……あの菓子のことは、起きてから考えよう。
目を閉じた瞬間、ふわふわした感覚だけを残して、意識が途切れた。




