第四百九十八話 挨拶 前編
ペスカの用事が終わり、ロイスマリアに帰る時期が近付いている。この日、バイト先の営業時間が終了すると冬也は暖簾を外す。そして、片付けが終わり着替えると世話になった親方と兄弟子の政に挨拶をした。
「そういやぁ、今日が最後だったな」
「はい、親方。短い間でしたけど、お世話になりました」
「結局、今回も俺は、てめぇを一人前にしてやる事は出来なかった」
「すみません、親方。ご厚意に甘えるだけで」
「そんなこたぁねぇ。てめぇは、よく頑張った。だがな、職人の修行は一生なんだ。しかも半人前のてめぇを、世に送り出さなきゃならねぇ。俺はそれが悔しいんだ」
「親方の教え、絶対に忘れません。修行も怠りません」
「ったりめぇだ馬鹿野郎! いいか冬也! 次、こっちに来た時、てめぇの腕が鈍ってやがったら、直ぐにや帰れねぇと思いやがれ!」
「はい。ありがとうございます、親方」
冬也は深々と頭を下げる。それを見た瞬間、親方は手拭いで目元を拭う様な仕草をし、奥の厨房へと引っ込んでしまう。
「冬也。親方が、発破かけてくれた事、ぜってぇに忘れんなよ」
「政さん。ありがとうございます」
「俺も親方も、お前の事情は聞かねぇよ。でも、お前がガキの頃からの付き合いだ。俺達は、家族みてぇなもんだし、お前の事を本当の弟の様に思ってる」
「俺もです。兄貴の様に思ってました」
「ガキのお前は、ここいらでも有名だったからな。でもお前は、てめぇの為には喧嘩をしなかった。それに、ここへ来てからのお前は、すげぇ真剣に修行をした。親方は厳しいからな、三日で逃げ出すどころか一時間で放り出された奴もいた。だけどお前は違った。どんなに厳しくても、ついて来た。親方は、そんなお前を買ってたんだぜ。ぜってぇ、お前を一人前の職人にするって言ってたんだ。親方は、俺に後を継がせると言ってくれてる。そんで、お前には暖簾分けして店を持たせる。そんな事も話してくれたんだ。感謝しろよ、冬也」
「はい。絶対に忘れません。親方の教え、政さんの教え、叩き込まれた事全部、絶対に忘れません。ありがとうございます」
冬也は、再び深々と頭を下げる。そして、政の瞳に涙が堪り溢れそうになる。政の言葉が詰まる。かけてやりたい言葉は沢山ある。しかし、上手く言葉が出てこない。
冬也がこの店を最初に訪れたのは、まだ中学生の頃だった。学校には内緒にして欲しい、金が要るから働かせて欲しい。土下座をして頼み込む冬也を、親方は二つ返事で雇い入れた。
冬也の自宅と、店は離れた距離にある。それでも、冬也の悪評は鳴り響いていた。それにも関わらず、法に触れる事も承知の上で親方は冬也に修行をさせた。
教えれば教える程、冬也は真綿の様に吸収していく。期待が膨らんだ。だから、より厳しくしごいた。それでも冬也は食らいついて来た。
冬也が、家事全般を行っているのは、所作を見れば直ぐにわかる。学生ならば、学業を優先すべきでもある。そんな中で冬也は修行に励んだ。
親方と政は、冬也に何等かの事情が有る事はわかっていた。だから、突然店に来なくなった時は、怒るどころか心配をし方々に聞きまわった。そして、再び顔を見せた冬也に安堵した。
大きな戦争が起きた。そして、冬也の父である遼太郎が、TVで騒がれている。間違いなく、冬也も関係しているのだろう。
心配で夜も眠れない、しかし、戦争は唐突に終わりを告げる。そんな時にひょっこりと冬也が顔を出し、修行をさせて欲しいと頼んで来たのだ。
事情は敢えて聞かない。ただ短い時間であるとは端から聞かされていた。時間が限られているなら、その時間でありったけの事を詰め込んでやろう。
親方と政は、そう考えた。
しかし、いざ別れの時が来れば、様々な思い出が蘇ってくる。政からすれば冬也は、可愛い弟分であると同時に、後ろから猛烈な速度で追いかけて来る、怖い存在でも有った。冬也に触発されて、更に修行に精を出した。
寿司職人は、ただ『寿司を握り、料理を提供』すれば済むのではない。
カウンター越しに、お客様と対話するのが仕事の一つである。ならば当然、世事に疎くては会話にならない。
単に会話を目的として職人が話しかけるのではない。お客様の顔色や恰好で凡そを察し、また会話の中でさり気なく好みを聞き出す。
それができなければ、お客様を満足させる料理は、提供出来ない。幾ら、寿司の腕が良くても、それでは半人前と一緒である。
冬也に負けたくない一心で頑張った。その結果、政は親方に一人前だと認められた。だからこそ政は、言いたかった。次はお前の番だと。でも、政の口からその言葉は出ない。言える訳が無い。詮索しないと決めたのだ。
冬也には理由が有る、恐らく自分達とは違う道を歩む。だが……。
「げんきで、やでよ」
多くの言葉を呑み込んで、ようやく出たのは涙声であった。その言葉につられ、冬也の瞳も潤む。これ以上話すと涙が止まらなくなる。そんな事を互いに思い口を噤む。そして、しばしの沈黙が訪れた。
その沈黙の中、目を赤くした親方が奥の厨房から戻って来る。親方は、右手に細長い箱を持っていた。そして、冬也の眼前まで近づくと、その箱を差し出す。
「餞別だ」
たった一言告げて、親方が渡した物は柳葉包丁であった。
「親方。これ」
「俺は、てめぇを一人前として認めちゃいねぇ。だから次に来た時、その包丁に見合う腕になってろ」
親方が政を一人前と認めた時に送った包丁。それと同一の物を、親方は用意していた。その瞬間、冬也の瞳から涙が零れた。
「あでぃがどうございばず」
「冬也。いや、元気でやれよ」
「ばい」
親方は、薄々状況を察していた。
恐らく冬也は、日本には居なくなる。もしかしたら、地球というより、もっと遠くの場所に行くんじゃないか。
荒唐無稽な考えかもしれない。しかし、再会する可能性が無い事も含め、親方は餞別の包丁を渡したのだ。
冬也に店を持たせる、そんな期待までかけていたのだ。別れが惜しい。だが、大切な弟子が、大切な息子が、自分の決めた道を歩む。それをどうして止められようか。親方は、口にしかけた言葉を呑み込み、たった一言だけ告げた。
それから数十分は経過しただろう、他愛もない昔話に花を咲かせた。互いに別れが惜しいのだ。やがて冬也は戸を潜り、最後に深く頭を下げて去っていった。
「あいづ、ぶちゃするから。元気でいるど、いいっずね」
「ばさ、てめぇ、いつまで泣いてやがる」
「ぞれは、おやがだもじゃないっずが」
親方と政の涙は、暫く止まる事は無かった。その涙は、愛情の深さ故であろう。またひょっこりとふてぶてしい面で、冬也が暖簾を潜る日を信じて。




