第四百九十六話 希望の苗 後編
東郷邸を出た空は、直ぐに再開された大学の講義で忙しい毎日を過ごしていた。
机上の学習だけでなく実習が体験できるのは、医学を志す者にとって非常に有意義である。ただ、他の医学生達と空が異なるのは、潜り抜けて来た修羅場の数である。空は、ロイスマリアで死を目の当たりにして来た。
マナの扱いに長け、治療に関する魔法を直ぐに習得した空であったが、救えない命は沢山有った。それ故に知識と経験を求めた。
恐らく今の空は、解剖自習で不快感を覚える事は無いだろう。何故なら、腕どころか両足まで失った兵士を多く見て来た。治療が不十分で死んでいく兵士を、嫌というほど見て来たのだから。
ただし、そんな経験をして来たからと言って、正確な治療が行える訳は無い。知識をどれだけ詰め込んでも、実務を通してでないと身に付かない物も有る。
日本では、臨床実習を重ね大学を卒業し医師免許を取得した上に、二年以上の臨床研修を求められる。
義務付けられた課題をクリアすれば、自分で開業する事も可能である。しかし、経験が浅ければ、それだけ戸惑う事も多いだろう。
言わば戦力となるには、より多くの経験を重ねる必要が有る。医療の現場では、間違えたでは済まされないのだ。それでも、医療ミスは無くならない。
それは、医者に掛かる負担が過大で有る事が、一因として上げられるだろう。求められるハードルが、異常な程に高いのだ。
制度上、医師が偏在化し易い現象も見受けられる。また、過度な労働に見合った対価を得られない医師が存在する中で、倫理観の欠けた医師や団体等も存在する。『医者というだけで偉いと勘違いする愚か者』が存在している事は事実であるのだ。
空の場合は、それらの欲に塗れた愚か者とは掲げる目標が異なる。単なる医大生と比べ物にならない、遥か高い目標を掲げている。それは、医療というものをロイスマリアに持ち込む事である。
医学は多岐の分野に渡る。だが空の場合は、単に外科的知識だけ有っても、意味がないのだ。内科的知識は豊富だが外科的知識に疎くても、また意味が無いと言えよう。また薬学にも精通している必要が有る。精神や神経学についても、同様であろう。
では、先進医療は? それが、ロイスマリアで導入される事は、相当先の未来であろう。しかし、知識を有しているのと全く無いのでは、いざという時の対処方法が異なる。
多くの事を学び身に付ける為には、一分一秒足りとも無駄にはしたくない。それが今の空である。
空は、大学の授業だけでなく、自己学習でより多くの知識を得ている。また、大学の教授を捉まえて、幾つもの疑問をぶつける機会も多い。実際に医療現場で活躍する医者を紹介され、医療について学ぶ機会も少なくはない。
ただ、そう言った機会で女性が欲望のはけ口になる事は、少なからず存在するだろう。特に、容姿端麗でスタイルの良い空は、格好の的に違いあるまい。大和撫子然とした空が近付いてくれば、大抵の男は勘違いもするだろう。
しかし、多くの場合は空が持つ芯の強さを感じ、圧倒されるのだ。それでも、勘違いが治まらずに手を出そうとした愚か者には、手痛いしっぺ返しが待っている。
「君、酒の席で酌も出来んのかね。いいから、こっちにきたまえ」
酒に付き合えば、医療現場について語ってやると豪語した、とあるベテランの医者がいた。彼は、酒の席で酌どころか、空の体を触り夜の接待まで行わせようとした。しかし、あっさりと空に切って捨てられた。
「あなたのしている事は、れっきとしたセクハラです。この店内に、監視カメラが幾つあるかご存じですか? それとあなたの発言は、ボイスレコーダーに記録させて頂きました。あなたが、私を脅して卑猥な事を要求したのは、録音されています」
「な、生意気な! そんな物が証拠になるか! そんな物、私は簡単に握りつぶせるのだぞ! 医師としての君の将来は、私にかかっているのだ! わかったなら、そのボイスレコーダーとやらを、渡したまえ!」
「あなたが、医師会で発言権が有るのは、存じ上げています。ですが、あなたが行ったセクハラは、消える事は有りません。あなたは、他の女性にも同じ事をしているのですか?」
「私に歯向かえば、君の将来がどうなるか、わかっているのか?」
「構いませんよ。私は、日本で医者になるのが目標ではありません。医学を学べるのなら、日本でなくても構いません」
「なっ! 君にも、その気が有ったのでは無いのか? だから、私の誘いに付いてきたのだろ?」
「何を勘違いなさっておいでですか? 私はあなたの経験談を拝聴出来ると思い、この場に来ました。それ以外に何が有るのです?」
「馬鹿な! 勘違いは、君の方じゃないのかね!」
「少なくとも、私をお誘い頂いた時、あなたは仰いましたよね? さて、なんと仰ったか、再生してみましょうか?」
医療の現場には様々な問題が有る。それに対処しなければ医療に明日は無い。君らの様な若い人を、育てるのは私らベテランの義務だ。だから、色んな事例を聞かせてあげよう。
ただ、私も多少は忙しい身でね時間には限りが有るのだよ。明後日の夜、八時なら時間の都合が付く、申し訳ないが指定の場所に来てくれないか?
ボイスレコーダーから流れて来たのは、間違いなくその男の声である。言い逃れも出来まい。そして空は、男を追い込む様に、言葉を続ける。
「大先輩から教えを乞う、貴重なお時間を頂戴したと私は思っておりました。それ故、酔いつぶれない程度に、お酌をさせて頂いたつもりです。しかし、あなたは暴飲し酔った挙句に、セクハラ行為を行いました。あなたがどの様な形で私の行く手を阻むのか、知りたくも有りません。ですが、私には警察の上層部に知り合いが居ます。現外務大臣とも既知であると、記憶しております。もしあなたが私に戦いを挑むなら、正当な場で勝負をつけましょう。決して、あなたの汚い手で隠蔽出来るとは思わない事ですね」
その後、そのベテランの医者は医師免許をはく奪され、医療の現場から姿を消した。その医者を空に紹介した大学教授も、お咎めを受けたのは間違いない。
「はぁ。相変わらず、残念な子だね。そんなの上手く躱して、煽てるだけ煽てて、美味しい所だけ貰えばいいじゃない」
「そんな器用な事は、ペスカちゃんじゃないと出来ないよ」
「はぁ。ほんと、空ちゃんは不器用というか、真っすぐというか。ある意味、お兄ちゃんとそっくりだね」
「そんなんじゃないよ。私は、冬也さんみたいに立派じゃないし」
「謙遜が過ぎると嫌味になるって、ほんとだね。それで例の話は、どうするの?」
「応募したら、即採用されたよ。学生に頼る程、向こうは深刻って事なんだよね」
「そっか。まあ、採用の理由はそれだけじゃないと思うけど。でもそれなら、暫くは海外だね」
「私でも、力になれる事があるなら何処にだって行くよ。不謹慎だけど下心だってあるし」
「あのさ、経験が積めるって意味なら、下心って言わないと思うよ」
「ペスカちゃん。私、頑張るね。見送りは出来ないかもしれないけど」
「うん、応援してる」
ヨーロッパ、アフリカ、中東、南北アメリカ大陸では、未だに戦争の爪痕が酷く、治療を待っている患者が多い。圧倒的な医者不足に陥り、医師を求める声が絶えない。
通常、医者の海外派遣は、それなりの条件が存在する。しかし、通常とは異なる事態に、たとえ補助でも役立つならと、学生の参加が認められた。
ただし、役立たずの学生を何人派遣しても足手纏いになるだけ。採用されるのは、一定以上の成績を残した者に限られ、採用時に簡単なテストと面接が行われる。空は、そのいずれも簡単にパスし、採用となった。
「あのさ、空ちゃん。ゆっくりでいいよ。ちゃんと待ってるから、私もお兄ちゃんも」
「ありがとう」
この言葉を最後に、空とペスカは十数年に渡って会う事は無かった。だが再び会う時、空は医療の神と呼ばれる事になる。空はロイスマリアで幾つもの奇跡を起こす。そして、ロイスマリアの医療技術を大きく発展させる。その功績を称えられ、空の名を冠した医学の統括機関が設立される。
未だ小さな苗。だが、希望の苗である。誰もが望んだ未来を手にする訳ではない。ただ、諦めなかった者には、必ずチャンスが訪れる。誰もが、希望の苗を持っているのだから。いつか、花開く時を待っているのだから。




