第四百九十一話 神の試合 前編
東郷邸の地下は、訓練所になっている。まだ日の登らぬ時間から、汗を流すのが冬也の日課である。戦争が終わってからほぼ毎日の様に、早朝の訓練を終えて皆の朝食を作ると、冬也は出かけてしまう。
そんな冬也と、拳を交える時間は限られている。アルキエルが、冬也の早朝訓練に付き合うのは当然とも言えるだろう。
ただ、冬也の早朝訓練に付き合うのは、アルキエルだけではない。ブルもまた、訓練に付き合った後、家庭菜園の世話を行うのだ。そうなれば、レイピア、ソニア、ゼルの三名が、勇んで参加するのも、ごく自然な光景だと言える。
冬也の訓練は、型の稽古から始まる。冬也が行う型は、空手や他の格闘技の型とは完全に異なる。様々な格闘技を学んだ遼太郎が、独自に編み出した型に冬也が改良を加えている。
通常、格闘技の型には動きの基礎が多分に含まれる。故に、型の稽古だけを行っても、他者を相手に組手をしなければ強くはなれない。
冬也の行う型は、通常格闘技で用いられる型とは異なる。動きの基礎よりも、相手を制する事、相手の攻撃を防ぐ事、大きくこの二つを重視した型となっている。端的に言えば、型通りの動きをするだけで相手を殺す事は造作もない。
例えば現代の剣道では、面、小手、胴の部位に、適切な形で竹刀を当てれば、有効打と認められる。これを気剣体の一致と言い、剣道で重視される精神の一つである。
逆に、どんな事をしても勝つ等、清廉な精神が伴わない行為は反則と見なされる。意味もなく長い鍔迫り合い、相手の竹刀を掴んで止める、足を引掛ける等の行為は、その典型とも言えよう。
他にも、武道で多く用いられる言葉の中に心技体というものがある。即ち、技を磨く事だけでなく、精神と身体を鍛えるのが武道の目的となっている。
戦が無くなった江戸時代で、殺す事から鍛える事に目的が変化した様に、現代の武道は鍛練の意味合いが強い。
また、ボクシングや総合格闘技での金的を禁じる様に、武道でなくとも反則行為は存在する。技を競う為に行われるスポーツとして、ルールを定めるのは至極当然の事だろう。
しかし冬也が行うのは、スポーツとは異なり、相手を制する若しくは殺す事を目的としている。それが、遼太郎が生み出し冬也が改良を加えた訓練方法なのである。
モンスターが平然と闊歩する中、己の身一つで生き抜かねばならない世界に、冬也は向かう事を定められていた。そんな訓練方法も仕方ないと言えよう。
ただし、いとも簡単に身体を破壊する技術を持った冬也が、いたずらに他者を嬲り、また殺める事が有っただろうか。
少なくとも冬也は、己の欲を満たす為だけに、拳を振るう事はない。例え、殺める事を目的に作られた兵器であっても、使う側次第で結果は変わる。それと同じ事だ。
戦いを嫌うブルが、型の稽古だけに参加するのも、それが大きな要因となっている。ブルは幼くして、過酷な戦いに身を投じて来た。持って生まれた腕力だけでは、大切な仲間を守れない事は、嫌という程に体験してきた。
だからこそ、冬也に習い技術を身に着けた。大切な仲間を守る為、自分と共に笑顔で働く者達を守る為に。
ブルは決して武に生きる者ではない。しかし、幼くして才能を開花させた天才だと言えよう。ミューモをして、傷つける事が至難の業だと言わしめる程に。
そんなブルを見て、同じ場で訓練をしているアルキエルが、興味を持たないはずがない。
そしてこの日は、ブルにとって、非常にタイミングが悪かった。
連日に渡って行われて来た社会見学に、アルキエルが飽きて来た。だからといって、冬也は多忙であり、相手になってくれる時間が少ない。
稽古相手と言えば、レイピア達である。エレナやモーリス達を通して、育てる喜びをアルキエルは知った。しかし、それだけでは物足りなさが残る。そんな時に、アルキエルが目をつけたのは、成長著しいブルであった。
それは丁度、型の訓練が終わり、ブルが家庭菜園に向かおうとした時に起こった。
「ブル、もう少し付き合え」
「嫌なんだな」
ここまでなら、いつもの会話であり、アルキエルも素直に引き下がる。しかし、この日は頑として引かなかった。
「いいから付き合え」
「アルは、痛くするから嫌なんだな」
出来るだけ対等に近い相手と勝負がしたいアルキエル。戦う事を嫌い組手を避けたがるブル。両者の意見が交わる事は無い。だが冬也の一言で状況は一変した。
「わりぃなブル。たまには、相手をしてやってくれ。神気は使わない。有効打が入ったら、そこで勝負あり。それでどうだ?」
「俺はそれで、構わねぇ」
「仕方ないんだな」
冬也が頭を下げるなら断る訳にはいかない。ブルは、渋々といった表情で頷いた。ただし、勝負といっても、アルキエルとブルでは対格差が違い過ぎる。誰が見ても、幼児と同じ体格のブルを不利だと感じるだろう。
「冬也様。不躾ではございますが、ブル様は幼く。せめて、元の姿に」
「大丈夫だレイピア。お前らは黙って見てろ。ブルの戦い方は、お前らにも参考になるはずだ」
ブルの事を思って口にしたレイピアの言葉を、冬也は遮る様に言い放つ。
レイピア達は知らないのだ。先の大会には、冬也とアルキエルだけでなく眷属までが出場を禁じられた。眷属と言っても、スールとミューモの様に元がエンシェントドラゴンであれば、他の種族との力の差は歴然であろう。
だがブルは、ただの巨人族で有りまだ幼い。それにも拘わらず出場を禁じられた。何も女神ミュールは、一律に冬也の眷属達の出場を禁じた訳ではない。そして、その理由は直ぐに明らかになる。
アルキエルとブルは、向き合って互いに構える。一見する限りでは、アルキエルの迫力に、小さな体のブルが吹き飛ばされそうにも感じる。しかし、床をしっかりと踏みしめて、ゆったりと構えている。
構えが冬也と似ているのは、冬也に習っているからだろう。よく目を凝らせば、冬也が構えた時の迫力と比べても何ら見劣りしない。
「痛い事したら、倍にして返すんだな」
「望むところだぁ、ブルぅ! てめぇの本気を見せてみろやぁ!」
声を荒げるも、アルキエルは冷静である。暫く両者は動かず、睨みあったままの状態が続く。流石のアルキエルも、ブルを警戒しているのだろう。そして、最初に動いたのはアルキエルであった。
ブルは眷属の中でも動きの速度は一番遅い。自分の速さについて来れないと踏んだアルキエルは、一瞬でブルの後方に回り込むと勢いよく拳を振り下ろした。
ブルは、アルキエルの動きを目で追えていない。冬也以外の者は、これで勝負が決まったと確信した。
しかし、振り下ろされたアルキエルの拳を、ブルは後方を見る事なく両手で掴む。そして勢いを利用し、背負い投げの要領で床に叩きつける様に投げた。
小さい体になっても、持ち前の腕力は健在である。アルキエルは、掴まれた腕を解けない。だが、そのまま床に叩きつけられるアルキエルではない。もう片方の腕でブルの頭を掴むと、そこを支点に強引に体を捩じって着地する。
アルキエルが着地した瞬間を狙って、ブルは低い姿勢から、重心を崩す様に足払いを行う。アルキエルは着地の瞬間、素早く後方に飛んでブルの足払いを避ける。
しかし、その動きにブルが追いすがる。まだ着地出来ず空中にいるアルキエルに、ブルは跳躍しながら拳を振るう。
ブルが放つ渾身の一撃を、踏ん張りの利かない空中で耐えきる事は出来ない。アルキエルはブルの拳を受け止めるも、そのまま吹き飛ばされた。
勢いよく飛ばされ壁に激突するかと思われた瞬間に、アルキエルは空中で体勢を立て直して激突を防ぐ。流石のアルキエルも、吹き飛ばされた勢いそのまま壁にぶつかれば、多少のダメージを受けただろう。




