第四百八十三話 深山の決意 前編
三島と会話をした後、遼太郎はゆっくりと体を起こす。その様子を見て、直ぐに三島は声をかけた。
「起きて大丈夫なのか?」
「あぁ。いつまでも寝てらんねぇよ。やる事は山積みだしな。そうだろ?」
「確かにな。だが、それよりもお前」
「あぁ? 俺がどうした?」
「お前の身体だ。わかってるんだろ?」
「あぁ。だけど、今は深山を優先してやってくれ」
「それで、お前は何を語る? 自分の事はさておいて」
「仕方ねぇんだよ、こればっかりはな。幾ら健兄さんでも、聞けねぇよ」
「確かにお前の言う通りだ。神というのは、とかく頑固なものだ」
「神なんかじゃねぇよ。神気は完全に無くなったんだ。それよりも、そろそろこいつも起こしてやらねぇとな」
「いや、起きてますよ先輩。あれだけでかい声で叫ばれたら、目を覚ますってもんでしょ? 寝起きは最悪だ」
遼太郎が深山に目をやる。そこには、少し寝ぼけ眼になった深山が、気だるそうにしていた。覚醒に近づいた頃、タイミングよく三島が叫んだのだろう。深山は少し前に、目を覚ましていた。
未だ十全に体は動かせない。しかし首を少し傾ければ、遼太郎と三島が目の前にいる。それだけで、計画が失敗した事だけは、理解が出来た。
今すぐに、問いただしたい疑問が有る。
少し首を動かすと、ここが何処かの屋敷である事は理解が出来る。しかし、自分は新たな拠点の一室で、眠りについたはず。それがどうして、こんな見知らぬ場所に寝かされていたのか。
葛西と山岡は、今どうしているのか。彼らも同じ様に、この屋敷内に囚われているのか。深山が口を開くのを制する様に、遼太郎が声をかけた。
「あのな、深山。色々と説明しなきゃいけねぇ事が有る」
「それに関しては、ある御方が説明して下さる」
遼太郎の言葉を補足する様に三島が口を開く。そして三島は、管狐に目配せをした。管狐は襖を通り抜けると、部屋から去っていった。
深山は敢えて口を噤んだ。状況がわからないのだ。計画が失敗して、囚われているなら、葛西と山岡の身も危ういだろう。
遼太郎と三島の口調から察するに、害意は無いと思われる。だが念の為に、大人しくしていた方が無難であろう。
そもそも、この場からは不可思議な感覚を覚える。現実とは思えない奇妙な感覚だ。襖を開けずに通り抜けた、宙に浮かぶ妙な生き物。この世に存在しない物が、見える位だ。余計に、慎重を期さなければなるまい。
深山が暫く様子を見ていると、襖がゆっくりと開く。そして、天狗の顔をした得体の知れない者が、部屋の中に入って来た。
その瞬間、深山は目を見開いた。あの妙な生き物よりも、遥かに異形の存在が、目の前にいるのだ。不思議と怖さを感じない。だがそんな事は、問題にもなりはしない。
いったい、ここは何処なのか? 自分は、どうなった? 葛西達は無事でいるのか? 三島が、身体を優しく支えて起こしたのも気が付かない程に、深山の頭には疑問が駆け巡っていた。
「驚かせたかの。我は飯縄権現、平たく言えば神だな」
天狗面の者は、己を神と呼ぶ。それは、深山を更に混乱させた。
自分は夢でも見ているのか? そうでなくて、説明がつかない。目を覚ませば、あの部屋の中だ。恐らく自分は、未だに期待しているのだ。あの二人と争わずに済む事を。だから、夢の中に現れたのだ。
天狗面は、何かの暗示だろう。夢というのは、そんなものだ。これが吉夢になるか否か。いずれにしても能力を制御しなければ、話しにならない。
そうだ、目を覚まさなければ! やり遂げねば! 決して戦争など、起こしてはならない!
この身がどうなっても構わない。鵜飼は優秀な男だ。必ず、俺の意図に気が付く。そして、俺の意志を継いでくれる。
葛西と山岡がいる。イゴールもだ。イゴールが意識を取り戻すのは、時間がかかるかも知れない。だけど、きっと治療は上手く行く。助かるはずだ。
そうだ、俺が体を張れば全てが上手く行く。きっと先輩もわかってくれる。創るんだ、ミストルティンから解放された新しい世界を。創るんだ、誰もが笑顔で暮らせる世の中を。
深山の思考が、伝わっているのだろう。飯縄権現は、酷く悲し気な表情を浮かべて、深山を見つめた。長い付き合いである遼太郎も、同じ様に悲し気な表情を浮かべる。
深山の時間は、止まっているのだ。
多くの人間を洗脳し全ての悪意が流れ込んで来た時、それに耐えきれず精神が崩壊を始めた時に、深山という存在は活動を止めたのだ。それは、深山の心を守る為の本能的な行動だったのだろう。
しかし、敢えて汚名を被る覚悟を決めていた深山を、誰が責められよう。
深山は、世界を陰から支配する組織と勇敢に戦っていたのだ。世界中の誰にも理解されなくていい。自分は、人々を扇動した史上最悪の犯罪者と罵られてもいい。罰を受ける事になっても構わない。
誰もが平和を享受する世界が創れるなら、それでいい。意思は仲間達が継いでくれる。そう信じて戦ってきたのだ。
その真っ直ぐな想いを、ミストルティンに利用された。そんな汚れた英雄に、どうやって事実を伝えたらいい。傷付けずに事実を伝える方法などない。
深山が望まない結果になったのだから。
三島は無論の事、子細の説明を買って出た飯縄権現でさえ、深山に声をかけられずにいた。神でさえも躊躇する中、口を開いたのは遼太郎だった。遼太郎は、深山の瞳をじっと見つめると、静かに語りかける。
「違う。違うんだ、深山。もう……終わったんだ」
「はぁ? 何がです? まぁ仕方ないですよね、俺は犯罪者なんだし。でも、幾ら夢の中だって、世界が終わったみたいに、悲しい顔しないで下さいよ」
「そうじゃねぇ、全部終わったんだ。お前が寝ている間に、全てが終わったんだ」
「はぁ? 意味がわからないですよ先輩。あんた、IQが高い癖に馬鹿な所は、夢の中でも変わらないんだな」
「そろそろ、理解しろ。ここは、黄泉比良坂だ。そこにいるのは、飯縄権現って神様だ。昔、お前と高尾山に登っただろ? そん時、薬王院でお参りしたろ? 覚えてねぇか? そこに祀られてる神様だよ」
「はぁ? えっ? なんなんです? 何が言いたいです? 何が終わったって?」
深山の反応は、ごく普通であろう。神だと言われて、信じる者がどれだけ存在するだろうか。とある宗教の敬虔な信者でさえ、突然目の前に神が現れれば、疑ってかかるだろう。
それが当たり前なのだ。
三島は邪神をその目で見ている。飯縄権現の力で黄泉平坂を訪れた事も、実体験として理解している。だが、深山は違う。
拠点で力尽きる様に眠りに付いてから、つい先ほどまで意識を失ったままだった。非現実的な光景を信じろという方が、無茶であろう。
「はぁ。どうやら、言葉だけで理解させるのは、無理らしいの」
溜息交じりに飯縄権現は呟くと、深山に近づく。そして、深山の額に手を当てた。
「辛かろうが、我慢せいよ」
それは以前、遼太郎がレイピアの記憶を呼び覚ました方法と似ている。だが今回は、少し異なる。飯縄権現が見て来た記憶を、深山に与えるのだ。
辛かろうが、伝えなければならない。事実を受け止め、前に進む事が出来なければ、葛西と山岡が命を対価に捧げ、遼太郎が命を賭けて救った甲斐が無い。
飯縄権現が全てを伝える中、深山は滂沱の涙を流していた。