第三百八十九話 極小の世界 ~ワクチンの作成~
出雲を訪れた明朝、ペスカはいつもより早く目を覚ました。着替えると、庭でアルキエルと組手をしている冬也に声をかける。
「お兄ちゃん。早めにご飯にしよ」
「わかった。今日は出かける日だったもんな」
「アルキエルもそれで良いね?」
「まぁ、独りで瞑想してても良かったんだがな」
「なぁ、ペスカ。翔一は誘わないで良いのか?」
「今回は寮でゆっくりしてもらお。最近はすっごく忙しそうにしてたしね」
「そりゃそうだな」
そして、早めの朝食を取るとペスカ達は出かけた。そして遼太郎は、翔一を寮に送りながら事務所へ向かう。
電車を使い一時間も過ぎれば、現地へ到着する。そこは、有名な製薬会社のオフィスビルだった。一目見ればわかる。この場所では、ワクチンの研究は行われていない。
ネットの写真で見る限りは、もっと広大な敷地の中に研究施設が存在している様なイメージだった。当然、都内にそんな場所が有るとは思えない。
ならば何故、三島はこの場所を指定したのか? その答えは、ペスカ達に配慮してのものだった。
海外の研究所に行く時間が勿体無い。それに、臨床試験ならばサンプルだけを送ればいい。緊急を要する中で最短なのは、のんびりと海外に出向く事では無かろう。
それ以上に、多くの研究所員にワクチンを作る様を知られるのは不味いと、三島は考えたのだろう。
それに関しては三島の読み通りだ。
ペスカのやり方は通常の方法とは全く違う。何せ、無から有を作り出す。言わば、錬金術すら超える方法なのだから。ならば、場所の提供は自分の息がかかった所が良いだろう。口止めも簡単だ。
オフィスビルの中を進んでいくと、奥には他に設置されている物とはやや性質の違ったドアを見つける。その中は、暗室にも似た場所だった。
所謂、外からの光を通さない部屋。それだけではなく、中の光を逃さない細工もされているのだろう。何故、こんな部屋が有るのかはわからない。真新しい匂いさえして来る様な気分にもなるのは、何故なのか。
その答えは案内してくれた受付嬢の言葉に有った。
「ここは、元々小さな会議室だったんです。急遽こんな風になりました。まさか、ご利用なさるのがこんなお若い方だったとは」
業務上、こんな部屋が造られた事は知っているはずだ。しかし、最低限の事しか知らされておらず、ペスカ達をこの場所まで運んだのだろう。
ペスカとしても、その方が楽だ。何せ、ワクチンの作成中は皆が驚く事態になるのだから。
部屋の中は当然に暗い。しかし、ペスカ達には関係ない。目にマナを籠めれば暗闇だろうと夕方に近しい程には見えるのだから。
ただ、流石に受付嬢はそうともいかない。扉近くのスイッチを押して灯を点けると、受付嬢は部屋の中央に進んでいく。
「言われた物は全て揃っています」
部屋の中は、小型の研究施設かと思える程の機材が揃っていた。サンプルを入れる小瓶等、どれも写真で見た事が有る物ばかりだ。
どれだけの事を予測して、三島はこの部屋を造らせたのだろう? 流石のペスカも少し呆気に取られていた。
「用が終わったら、受付にお声掛けください」
我に返ったのは、受付嬢が頭を下げて部屋から退出した所でだった。
「ちょっと凄いね。三島のおじさん」
「あ、あぁ」
「こりゃあ、ちょっとした予言だな」
それがどれだけとんでもない事かは、冬也にでもわかる。寧ろ、アルキエルの言う『予言』が最も適切かも知れない。
遼太郎が三島に連絡を入れたのは、昨晩の事である。それから数時間の間で、必要な機材を全て揃えられるとは思えない。
これは、いつ、どの時点で思い付いた事なのだろう? 三島という人物は、どれ程先を読んでいるのだろう?
考えれば考える程、感嘆の言葉しか出ない。
「ま、あさ。こうしてても仕方ないし、とっとと始めちゃうよ」
「あぁ。でも、俺達は何をしてたら良いんだ? 見張りか?」
「お兄ちゃんは見張りだね。翔一君の代わりだよ。アルキエルは結界を張ってよ、誰にも覗かれない様に」
「わかった。外を見てれば良いんだな?」
「っち、仕方ねぇ」
冬也はペスカに言われるまま、『遠見の魔法』と『透過の魔法』を眼にかける。そして建物の外を見渡し始める。
マナを使っているとは言え、神が魔法を行使するのだ。人間とは異なる結果を齎す。数キロ先の僅かなマナまで感知出来た事に、冬也自身が驚いていた。
「そもそも、翔一にばっかり頼らねぇで、俺もこうしてれば良かったんじゃねぇか」
「気付くのがおせぇんだよ、てめぇは」
悪態をつくも、アルキエルもペスカに言われた通りに、部屋へ結界を張る。そして、ペスカは必要な機材を机の上に出していく。
これで、準備は整った。無論、新型ウイルスのサンプルも用意してある。後はサンプルを元にワクチンを作り出せば良い。
「我、人に害なす物に天罰を与えんと欲す。我、ロイスマリアの一柱、ペスカなり。我が名において命ずる。悪を罰する剣を此処へ!」
ペスカから神気が解き放たれる。当然、放たれた光が外に漏れる事はない。そして、ウイルスを元に抗体が作り出される。やがて、試薬ビンに液体が満たされていく。
これを見たら、多くの研究員が目を回すだろう。様々な手順をすっ飛ばして、何も入っていない瓶の中にワクチンが生み出されたのだから。
「これは、もう投与しても大丈夫なやつだよ。でも、一応は臨床試験ね。それに量産して貰わないといけないしね」
その通りだ「完成品がここに有ります」じゃあ駄目なのだ。臨床試験を行うのは当然だ、それを複製して量産体制を作って貰わなければならない。それ故に、製薬会社を通す必要が有ったのだ。
「一応、サンプルは出来たし。後は、パパリンから三島のおじさんに連絡をして貰えば終わりかな。アルキエル、結界は解いて良いよ。お兄ちゃんも、お疲れ様」
「特に怪しいマナの動きは無かったぞ」
「それは何よりだね」
一先ずは連絡だ。遼太郎の番号は覚えている。受付で電話を借りれば良い。それと試薬瓶は、受付嬢に言付けをして渡しておけば、三島が後の手配をやってくれるだろう。
そして、サンプルが入った試薬瓶を持って一向は部屋を出る。そして、受付まで行くと受付嬢は何かを理解したかの様に試薬瓶を受け取り、「少々お待ち下さい」と頭を下げると電話をかける。
「もしもし。三島様の携帯でお間違いないでしょうか? はい、はい、仰る通りに致しました。完成品を受け取っております。はい。畏まりました。では、失礼致します」
連絡の手間すら無くなったペスカは、流石に閉口する事になる。
「なぁ、段取りが良過ぎねぇか?」
「う、うん。三島のおじさんって……」
「自作自演じゃなきゃ良いけどな……」
「や、やだなぁ、お兄ちゃん」
「けっ。色々と手回しの良い野郎は、何か企んでやがるんだ」
「流石にほら。って、あ、あり得るかも?」
「気をつけろよ、ペスカぁ。案外、そいつかも知れねぇぞ。ロメリアはよぉ」
アルキエルの言葉で、ペスカと冬也に緊張が走る。絶対にその可能性が無いとは限らない。誰の中に潜んでいるかわからないのだ。
ロメリアは非常に狡猾な上に、こちらを嘲笑うかの様に悪戯を仕掛けて来る事が有る。悪戯にしては度が過ぎているが、悪神にとっては人が幾ら死のうと些細な事なのだろう。ロイスマリアでもそうだった筈だ。
一仕事を終えて少し緩んだ空気が、再び引き締まる。そして、事態は正念場を迎えようとしていた。




