第三百十六話 戦いの裏側で 後編
予定の村に辿り着いた夫妻が目にしたのは、ふらつきながらも人が歩く光景だった。建物の脇には、打ち捨てられる様に放置された死体もある。それでも、人が生きのびている事が夫妻の心を軽くした。
急ぎ夫妻は配給の準備に取り掛かる。匂いに釣られるかの様に、屋台の周りは人だかりが出来ていた。
我先にと、押し寄せる人々。メルフィーは、声を張り上げて人々を制する。
「落ち着いて下さい。充分な食糧を用意してきました。慌てると危険です! どうか落ち着いて下さい」
メルフィーの声も虚しく、喧騒は増すばかり。そして、配給が始まる。兵達が列を整理しようと試みるが、順序良くとはいかない。
人々は配給食を奪い合う様にし、中には二度三度と配給食を要求する者も居た。
そして、配給食が底をつきかけ様とした時、突き飛ばされたのだろうか、倒れている少女をセムスが見つけた。
セムスは直ぐに駆け寄ると、少女を抱える様にして起こす。外傷は、特に見受けれられない。しかし、少女の手足は見るからに細くやつれていた。
「痛い所は無いか?」
「ありがと。おじちゃん」
セムスの問いに、少女は弱々しく掠れた声で答えた。立って歩く事も困難であろう。事実、セムスが支えているにも関わらず、少女はふらついている。
セムスは、少女を抱きかかえて、屋台の傍まで運ぶ。そして、残り僅かとなった配給食を、少女に差し出した。
「食べられるか?」
少女は、震える手で匙に手を伸ばす。しかし、匙を握る握力すら残っていないのか、少女は匙を落としてしまう。
セムスは、落ちていない綺麗な匙で、粥を掬い少女の口へとそっと運ぶ。少女は、粥を啜ると満面の笑みを浮かべた。そして精一杯の感動を、セムスに伝える。
「おいしい。すごく……おいしいよ」
「そうか。なら、もっとお食べ」
セムスが掬って粥を差し出す。しかし、少女は首を振った。
「わたしは……もう……いいの。後はおねぇちゃんに……あげて」
たどたどしく少女の口から告げられる言葉。その言葉はセムスを不安に駆らせる。
「君、おねぇちゃんが居るのかい? お家は何処だ?」
セムスの問いに、少女は精一杯の力で腕を上げ、屋台からやや離れた民家を指差した。
セムスは、メルフィーに視線を送る。メルフィーは、直ぐに粥を作っていた鍋を抱えて、少女が指差した民家へ向かい駆けていった。
「おねぇちゃんにもあげるから、君は安心してお食べ」
少女は、安堵するような笑みを浮かべると、セムスが差し出した匙に口をつける。小さな口でゆっくりと粥を啜る。
そして、少女が食べ終わるのを見計らい、セムスは家に送り届けようと、少女を背負った。
少女は小さく、そしてあまりにも軽い。セムスの背からは、弱々しく呼吸する音が聞こえた。
「おじちゃん……おねぇちゃんも食べたかな?」
「あぁ、食べたとも」
「そっかぁ……よかった……」
フウフウと弱い呼吸に混じり、掠れた声がセムスの背から漏れる。
「早く元気になって、おねぇちゃんと遊ぼうな」
「……うん」
途切れ途切れの掠れた声、少女は懸命にセムスに話しかけた。
「……おじ……ちゃん」
「何だい?」
「……あり……がと」
ふと、セムスの背が軽くなる。同時に呼吸の音が途切れた。
視界の脇には、だらんと力なく垂れ下がる少女の手。振り向かなくても少女がどうなったのか、セムスは理解した。
セムスは込み上げる涙を堪え、背中の少女をしっかりと支えて運ぶ。
そして家に辿り着いた時にセムスが目にしたのは、少女の姉と思われる女の子が横たわる傍で、滂沱の涙を流すメルフィーの姿であった。
家に足を踏み入れるセムスを見るなり、メルフィーの口から言葉が溢れる。
「この子、ありがとうって言ったの。うぅ、うぐぅ。わだじ、何もしてない。何も出来なかった。でも、ありがとうって言ったの。うぅ、うぅぅ。なんで? なんでこんな子が死ななきゃいけないの? どうしてよ! あぁぁぁぁ!」
姉は、少女の事を最後まで心配していた。そして、少女が食事にありつけた事を知り、安堵する様に息を引き取った。僅かに粥で舌を濡らして。
セムスは、少女をそっと姉の横に置く。二度と目を覚まさない姉妹の姿が、夫婦を捉えて離さなかった。
「俺もだ、メルフィー。何も出来ない。こんな幼い子すら、救う事が出来ない。くそっ、くそ、くそぉぉぉ!」
セムスもまた泣いていた。暫くの間、夫婦は姉妹から離れる事が出来ずにいた。
幼い命が失われる世の中を、認めてはいけない。夫婦は以降、食事を摂る事は一切無かった。
自分達よりも、いま倒れている人々を、一人でも多く救う。夫婦は国中を駆け回り、各地で配給の手伝いを続けた。
夫婦の戦いは、神が世界に戻るまでの数か月間も続いた。いつしか、夫婦はやつれていく。
どれだけ頑張っても、救えない命が有った。命の灯が消えていくのを、夫婦は何度も見て来た。
挫けそうになる時があった。走馬灯の様に、かつて人間だった頃の記憶が、蘇る事もあった。しかし、拡声器から聞こえてくる、ペスカの声に励まされた。
モンスターが溢れた時は、身を盾にして人々を守った。やせ細っても、夫婦はモンスターに屈する事は無かった。
何故なら、心の中には強い信念が有ったから。それは、ペスカからもらった勇気。そして、守り切れなかった命の数々。
多くの命を背に、懸命に抗う。英雄は、ここにも存在していた。
☆ ☆ ☆
メルフィーは、ペスカに抱きしめられながら呟く。
「私達がここに居るのは、ペスカ様のおかげです」
メルフィーの言葉に、ペスカは首を横に振った。
「あなた達が、頑張って来たのは見てわかるよ。どれだけ辛い思いをしたのか、全部わかってあげる事は、出来ないけどさ。あなた達が救った命は多いよ。だから誇りなさい、メルフィー、セムス。あなた達は、私の願い以上の事をしてくれたよ。ありがとう」
ペスカの言葉で、メルフィーの目から更に涙が零れ落ちる。夫妻が落ち着きを取り戻すまで、暫くの時間を要した。
「二人は、これからどうするの? 約束通り、王都にお店出す事も出来るんだよ」
「いいえ、ペスカ様。私達は旅を続けます。これからは、大陸全土に」
ペスカの問いに、メルフィーは首を縦に振る事は無かった。そして、セムスが口を開く。
「私達は力足らずです。多くの命を救えずに来ました。失われた命に報いる為、私達は懸け橋になって見せます。種族を超え、優和を保てる橋に。いくら法を作っても、反発は有るでしょう。見えぬ所で差別も有るでしょう。私達は、ペスカ様が目指す真の平和に向け、力を惜しみません」
二人の言葉に、ペスカは静かに頷いた。
「どれだけ旅をしても、私達は家族だからね。あなた達の帰って来る場所は、私の所だよ」
メルフィーとセムスの瞳から、再び涙が零れる。そして、笑いながらメルフィーとセムスは、ペスカと冬也の下から去っていった。
人体改造実験の末、人間として生きる事を許されなかった、メルフィーとセムス。ペスカに引き取られた後、居場所を与えられた。努力を重ね、誰からも認められる料理人となった。
飢餓の蔓延する大地、旅の最中で夫婦は多くの命を救った。しかし、手が届かず、失われた命が有った。
夫婦の心から、あの姉妹の姿が消える事はないだろう。夫婦の戦いは、まだ終わらない。
後の世に、平和の象徴として語られる。これは、偉大な料理人の物語。




