第三百十五話 戦いの裏側で 前編
それはペスカと冬也が、エルラフィア王国の王立魔法研究所を訪れた時の事だった。二人を呼び止める声に、耳を傾けると一度見れば忘れる事の無い、印象的な夫婦の姿があった。
「お久しぶりですペスカ様、冬也様」
「メルフィーにセムス、久しぶりだね。相変わらず旅は続けているのね」
「はい」
メルフィーは静かに頷く。実験により半モンスター化した体は、筋骨隆々で人間の体躯とは明らかに違う。しかし今の夫婦は、以前の体躯とは明らかに異なり、一回りどころか二回りほど小さく見えた。
どれだけの苦難を乗り越えて来たのだろう。ペスカは、徐にメルフィーへと近づくと、優しく抱きしめる。
ペスカに抱きしめられたメルフィーは、驚いた様に目を開いた後、ゆっくりと目を細めた。その様子を優しく眺めていたセムスの肩を、冬也が力強く抱く。
言葉が無くても伝わるものが有る。メルフィーとセムスの瞳からは、温かい涙が溢れていた。
☆ ☆ ☆
メルフィーとセムス、当初この夫妻の旅は順調に進んでいた。
ペスカから与えられた使命。それは、半モンスター化し異形の体となった人間が、普通の人間達と暮らす為の下地作り。言わば、夫妻は半モンスター化した存在の代表として、各地を回る広告塔であった。
元々、海岸都市マーレで営んでいた夫妻の店は、昼時はランチ目当てのお客で行列を作り、予約制である夜の時間帯は、数か月先まで予約がいっぱいであった。
そして、ペスカの手により『ゆるキャラの様に顔を作り替えられた』夫妻は害意を感じさせず、地元マーレで受け入れられるのは早かった。
更に、ペスカの用意した屋台。それは旅をする事も加味し、居住性や備蓄容量も確保した、屋台と言うには巨大過ぎる車であった。
しかも、屋台の横には『ペスカ御用達』と目立つ様に大きく文字が書かれている。それは、『英雄ペスカが通う』マーレの超人気店という事を意味している。
ペスカ御用達の影響は大きいだろう。夫妻の屋台は、行く先々で好評を博し行列を作った。
行列を作ってまで食べたいと望み、人々が口々に美味しいと語り、そして皆が笑顔で帰っていく。それは何よりも嬉しい事であった。
ご馳走様と掛けられる声に、夫妻は感動を覚えていた。自然と出る「ありがとうございます」の言葉。夫婦は一人ずつに頭を下げた。しかし、幸せな時間は長く続かない。
突如として災厄が、世界を襲った。
枯れ果てる作物、荒れる大地、干上がる川、雨は降らなくなる。まるで世界が死に瀕している様だった。
各家庭で、ある程度の蓄えが有ったとしても、蓄えは直ぐに底を尽きる。あっという間に食料を扱う店からは、品物が無くなった。
明日に食べる物どころか、今日食べるものが無い。人々は飢えていった。
そんな時に限って、富を持つ者が食料を独占し始める。そして起こるのは暴動。そこからは、地獄の始まりである。
奪った食料で幾ばくかの飢えを凌いでも、再び飢えは訪れる。暴動を起こしタガが外れた市民達の行き着く先は、更に奪う事であった。盗賊の様に徒党を組み村々を襲う。
力を持つ者が全てを独占し、弱い者を虐げる。虐げられた弱い者は、更に弱い者を探し虐げる。
人の業とは、なんとも浅ましい。
しかし、メルフィーとセムスの夫妻は、笑顔の重みを知っている。夫妻は人間の善を信じ、各地の領主を訪ね、食料の備蓄を各地に配給する手伝いを行った。
ただ食料を配れば事足りるのか? 否、それは単なる一時しのぎにしかなるまい。現状では飢えが深刻になり、既に立つ事も困難な者も出始めているのだ。
しかも配給には限りが有り、配られるのは『腹の足しにもならない薄い粥の様な物』である。
それでも、夫妻はひと手間を惜しまない。
以前、夫妻がとある領で大量に仕入れたオーク肉。その保存用に燻製していたオーク肉を、夫妻は惜しみなく提供した。それ以外にも、乾燥させた香草や香辛料を使い、薄い粥を逸品に仕上げる。
夫妻が手を加えれば、粗末な配給も味が良いだけでなく栄養価も高く、飢えて胃が痩せた身体には、うってつけの食事に様変わりした。
そうして領軍と共に、夫妻は各地を周る。一人でも多くの人を救う。夫妻は、休む事なく尽力を続けた。しかし余りにも残酷な光景が、夫妻を待ち構える事になる。
ある時、夫妻は小さな村を訪れた。領都から遠く、配給が遅れる地帯である。村を訪れた時に、夫妻は愕然とした。
流れている真新しい血。倒れる人々。破壊されている戸。家々は、隅々まで物色されたかの様に、荒らされている。
「盗賊……。何故、こんな辺境の村を襲った……」
兵の一人が呟いた。
それもそのはず、真新しい死体の中には、死んで何日も経っているだろう腐乱した死体も混じっていたからである。
何も無い飢えた村を襲い、どれ程の量の食糧を奪えたのであろう。その為に、なぜ罪も無い人が犠牲にならなくてはいけない。襲うならば、食料を運ぶ領軍を襲うのが効果的であろう。
そうではない。
ただ弱い者から搾取するだけ。これが、本当に人の行った事なのか。領軍の中に重苦しい空気が流れる。しかし、何時までも呆然とし、ここに留まる訳にはいかない。
「皆さん、進みましょう。恐らく盗賊たちは、そんなに遠くには行っていない」
セムスは、声を張り上げる様にし、兵達を煽動する。
墓を建ててやりたい。しかし、今はその時間が無い。せめてもと、夫妻を先頭に領軍は黙祷をした後に村を離れた。
暫く進むと、刃を交える様な甲高い音が聞こえ始める。それはぼろ布を身に纏い、やつれた身体の者達が抗争をしている姿だった。
セムスは、メルフィーに屋台の運転を任せると飛び出す。そして、一瞬の内に盗賊達を鎮圧した。
彼らが纏うぼろ布には、おびただしい血がこびり付いている。問いただすと、先の村を襲った盗賊達である事が判明した。
飢えの果てに盗賊に身をやつしたものの、先の村では何も得られなかった。業を煮やした盗賊達は、言い争いの末に仲違いを始めたのである。
何と粗末な結末であろう。盗賊達は、領軍に捕らえられていく。そんな中、領軍に捕縛された、盗賊の一人が声高に叫んだ。
「殺す事が罪か? 奪う事が罪か? だったら大地がこんな風になったのは、誰のせいだ! 奪いたい訳じゃない! 殺したい訳じゃない! それでも罪か? それなら、生きる事が罪になるだろ! 違うか?」
思わずセムスは、その盗賊を殴りつけていた。
「奪われたから奪う? ふざけるな! お前は、ただ弱い者から搾取しただけじゃないのか? 自分を正当化するな! お前は唯の犯罪者だ!」
人の善行を信じていた。しかし人は脆い。こんなにも簡単に崩れてしまう。セムスは、両手を力いっぱい握り締め、手に食い込んだ爪で血を流していた。
固く握りしめていたセムスの拳を、メルフィーがそっと包む。優しく解す様に、セムスの手を開き指を重ねる。
「セムス、諦めちゃ駄目。ペスカ様は、いつだって優しかった。それはあの方が、罪を許せる人だから。私達だって元は人間。それに、私達には使命がある。進みましょう、ここから先にどんな事が待っていても」
領軍は、盗賊を護送する班と配給を続ける班に二手に分かれる。配給班は、夫妻を先頭に進む。続いて訪れる予定の村も、領都から遠い地帯に有る村であった。先の村の様子から、酷い状況なのは容易に察する事が出来る。
そして夫妻は、進行速度を上げた。