公爵夫人、凄腕の弓使いに「夫を狙ってちょうだい」と依頼する
レジーナ・ミュールは社交界において“完璧”と称される公爵夫人であった。
伯爵家の生まれであり、幼い頃から才女として名高く、学問も優秀で、周囲から羨ましがられる美貌も備えていた。
そんな彼女は社交界にデビューを果たしてからまもなく、今の夫である公爵家出身のフレディルに見初められる。
「レジーナ。どうか私と婚約して欲しい」
「よろしくお願いいたします」
婚約の後は交際を経て、もちろん結婚。
以後レジーナは、王家に連なる名家であるミュール家を継いだフレディルを支え続けてきた。
その献身ぶりもまた、“完璧”と呼んでも差し支えなかっただろう。
しかし、そんなレジーナであったが――
***
昼下がり、町外れの雑木林。
レジーナが立っていた。
ウェーブのある青みがかった長い銀髪と澄んだ碧眼を持ち、貴婦人用のドレスを身につけた彼女がこうした場所に一人でいるのは異質なようでもあり、むしろお似合いという風情もあった。
そしてもちろん、彼女は用もなくこんなところにいるわけではなかった。
一本の木の陰から、一人の男が現れた。
「さすがは“完璧”と呼ばれる公爵夫人。こちらの指定通りの場所に、時間通りに来てくださいましたね」
背の高い男だった。黒髪の短髪、目つきは猛禽類を思わせるほど鋭い。
体格はよく、歴戦の猛者を思わせる。
だが、そんな相手と護衛もつけず一対一にもかかわらず、レジーナは物怖じしない。
「あなたが……この国で最高と呼ばれる弓使い、“千中の射手”ガロン・ルクスね?」
「ええ」
“千中”とは、百発百中を超えた千発千中、そこから呼ばれるようになった異名である。
「かつては王国軍に所属し、武勲を重ねてきたけど、現在は軍を退きフリーで活動している……と聞いてるわ」
「おっしゃる通り。情報収集も完璧でいらっしゃる。自己紹介の必要はなさそうだ」
ガロンは微笑む。
「その腕前は、百歩先のリンゴを一発で射抜いたり、ある要人に襲いかからんとした毒蛇を遥か遠くから射抜いたりしたとか」
「そのぐらいの仕事であれば、私の仕事の中ではむしろ容易い部類ですね」
ガロンはおどけてみせる。
「ふふっ、言うわね。だけどそれぐらいの男でなければ、今回の仕事は頼めないわ」
レジーナは弓使いガロンに依頼があるからこそ、この場所で待ち合わせたのである。
「さて夫人、おしゃべりはこのぐらいにいたしまして、仕事の話に入りましょうか」
「そうね」
レジーナは単刀直入に言った。
「あなたのその弓の腕前で……夫を狙ってちょうだい」
この言葉にガロンはさすがに動揺を見せた。
「どういうことでしょう?」
「私の夫フレディル・ミュールは、今は邸宅を留守にして領内を巡回しているわ。そうして自分の目で町や村を見て、経営を任せている代官らや住民たちと直に会話をすることで、彼らが抱えている問題点を吸い上げていくの」
「ご立派なことです」
「ミュール家の領地は広いから巡回には一ヶ月かかるわ。だけど、もうまもなく夫は帰ってくる。彼は私以上に“完璧”だから、きっと期日の時間通りにね」
「そのフレディル卿を狙撃しろ、と」
「ええ、あの人が時間通りに帰ってきてしまうと困るのよ」
レジーナは詳しい事情をガロンに打ち明けた。
「……なるほど。承知しました」
「引き受けて下さる?」
「依頼料さえ頂ければね。ただし、ご存じのように私の料金は高いですよ? もっともそれだけの自信はありますし、ミュール家の財産からすれば大した額ではないでしょうが……」
「あら、私を見くびらないでくれる?」
「え?」
「今回の依頼料にミュール家の財なんか使わないわ。全て私個人の財産で支払うつもりよ。こういう時のために事業やギルドに投資して、お金は作ってあるから」
ガロンは非礼を詫びるように、薄く笑みを浮かべる。
この夫人は仮に夫フレディルやミュール家という大樹がなくなったとしても、一人で生きていける強い女性だと悟る。
「これは失礼しました。やはりあなたは“完璧”だ」
「お褒めにあずかり光栄だわ。さっそくだけどこれが依頼料よ」
レジーナがバッグを取り出す。
中には王国一の弓使いを雇うに相応しい、大量の金貨が入っていた。
「分かりました。私もただちに仕事に取りかかりましょう」
「金貨の枚数を確認しなくていいの?」
「その必要はないでしょう」
ガロンはバッグを受け取ると、颯爽と立ち去った。
残されたレジーナは独りごちる。
「こんな仕事は彼ほどの人、いえ彼にしか頼めない……頼んだわよ」
***
山道をひた走る馬車があった。
屋根つきの立派な馬車であり、中に乗っているのは公爵フレディル・ミュールと、彼の側近を務める男ロニー・スタンであった。
「フレディル様、今回の巡回も大成功でございましたな」
「ああ、邸宅でふんぞり返るだけでなく、やはりこうやって各地を見回ることも必要だな」
フレディルは落ち着いた色合いの金髪と、深緑色の瞳を持った、若き紳士である。グレーのコートを羽織ったその姿には、公爵としての貫禄が存分に備わっていた。
一ヶ月に及ぶ巡回と視察で、領内の様々な課題を炙り出すことができ、フレディルは満足していた。
これらの課題に取り組み、解決させることこそが己の使命だと信じていた。
「領内とはいえ、どんな僻地にも足を運ばれるのは貴族ではフレディル様ぐらいのものでしょうな」
側近の軽口に、フレディルの目が鋭くなる。
「ロニー、僻地という言い方はよせ。場所がどこにあろうと、規模がどうであろうと、我が領内にある土地は全て平等だ。格付けの趣味はない」
「ははっ、申し訳ございません!」
謝りつつ、側近ロニーはフレディルを尊敬の眼差しで見つめる。
今時の貴族はすっかり高飛車になり、領地経営など各地の代官に任せきりにしているケースが多く、フレディルのように自分の目で領内を視察する貴族は本当に珍しい。
全ての貴族がこの人のようであれば、と思わずにはいられない。
「御者君、もう少しだけスピードを上げてくれたまえ」
フレディルの命令で、御者が馬車の速度を上げる。
彼らしくない行動だったので、ロニーは目を丸くする。
「これはお珍しい。やはりなるべく早くご自宅に戻りたいと?」
「ああ、一刻も早く妻に会いたいからな」
フレディルのこの言葉に、ロニーは微笑む。
「そういうことを堂々と言えるところもまた、あなたの素晴らしいところですな」
巡回の最中は、フレディルの心は民のことで一杯だったが、今は違う。
彼の心にあるのは妻レジーナのことだった。
もう一ヶ月も妻と会っていない。
早く会いたい。早く会いたい。早く会いたい。それだけを考えていた。
その想いが御者への命令として表れてしまうのも、仕方のないことだろう。
「この調子でいけば、予定通りの時刻に着くでしょう」
「うむ」
馬車は順調に走り続ける。
ところが――
「あれがフレディル卿の乗る馬車だな。間違いあるまい」
山道の高みから、馬車を見下ろす男。
“千中の射手”ガロン・ルクスであった。
馬車は速く、距離もある。彼の狙いは車内のフレディルだが、並みの弓使いであれば馬車に矢を当てることすらできないだろう。
だが、彼にとっては――
「レジーナ様、必ずお役目は果たします」
ガロンは彼にしか扱えない特別製の黒い強弓を取り出すと、矢をつがえ、弦を引き、照準を定める。猛禽類のような目が光る。
「……」
距離、角度、風向きを肌で感じ、頭の中で全てを計算する。
この計算が少しでも狂えば、矢は狙い通りには飛ばないであろう。
「……よし」
納得したように小さくうなずくと、ガロンが矢を放つ。
多くの武功を立てた“千中”の矢は、高速でフレディルの馬車へと向かう――
……
ストン。
静かな音とともに、馬車内の右の壁に矢が刺さった。
フレディルもロニーもすぐに気づく。
この矢は左の窓から飛んできたものであり、それがフレディルをかすめて、壁に当たったのだと。
「そ……狙撃!?」とロニー。
「何かあったのですか!?」異変を察知した御者も焦りを見せる。
「この馬車が狙撃されたのだ! すぐにコースを変え――」
「落ち着け、ロニー」
突然の矢に、フレディルは全く動じていなかった。
彼は十代の頃に従軍経験もあり、激しい戦場を経験しているためである。
「しかし、フレディル様のお命が……!」
「見事なものだ。この腕前なら、私の命を奪おうと思えば一矢で奪えたはず。今頃お前は私の亡骸を見て途方に暮れていたことだろう」
矢の主を褒める余裕さえ見せる。
この矢に自分を殺害する意志はないと、フレディルは見抜いていた。
そして、車内に刺さった矢を冷静に観察する。
「ん? 手紙がついているな。……矢文か」
矢には桃色の紙が結び付けられていた。
「使者を送る暇もないほどの緊急の用件ということか……」
フレディルは手紙を外し、中身を読んでみる。
「これは……!」
これまでずっと冷静沈着だったフレディルの顔色が変わる。
『一ヶ月もの巡回、本当にお疲れ様。ずっと会いたかったわ。あなたが帰ってくる頃に合わせて、あなたの大好物のシチューを作ろうと思っていたんだけど、どうしても入手が遅くなる材料があるの。だから、予定よりほんの少し遅れて帰ってきてもらえないかしら。我儘を言ってごめんなさい。
あなたのレジーナより』
読み終えたフレディルは「フッ」と一声漏らした。
「御者君、朝令暮改になってすまないが、馬車のスピードを少し緩めてもらえるだろうか」
***
一ヶ月間の巡行を終えたフレディルが邸宅に戻ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた!」
エプロン姿のレジーナが出迎える。
「シチューはできているかい?」
「ええ、もうバッチリ! シチューの香りを引き立てるドーレ草の入荷がどうしても遅くなるって、なじみのご主人に言われてしまって……だけど、ちゃんと入手できたわ!」
「なるほど。それで、あの矢文を……」
「そうなの! 怪我はしてない?」
「ああ、見事な腕前だったよ。」
食堂で、さっそくレジーナは自慢のシチューを披露する。
皿には白いクリームシチューが盛られ、新鮮な肉と野菜がふんだんに入っている。
フレディルはスプーンですくい取り、一口頬張り、久しぶりの愛妻料理を味わう。
「美味い!」
フレディルは絶賛する。
「まぁ、嬉しい!」
レジーナも感激する。
「君に会いたい気持ちを抑え、ゆっくり帰ってきてよかったよ。そのおかげで帰ってきて早々、こんな素晴らしいシチューを味わえるんだからね」
「ふふっ、私もあの弓使いさんにお願いしたかいがあったわ」
シチューを瞬く間に平らげたフレディルは、真剣な表情でレジーナを見やる。
「明日からはさっそく巡回で得た情報に基づき、領内の改革に取り組んでいきたいと思う。大変な仕事になるだろうが……レジーナ、どうか私を支えて欲しい」
「任せて。あなたには私がついているわ」
顔を見合わせ、微笑み合う二人。
レジーナ・ミュールは“完璧”と称される公爵夫人。彼女にとって、完璧なシチューで夫を出迎えるために、凄腕の弓使いを雇うぐらいのことは“して当然”のことなのである。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。