【8話】敵情視察
短髪をワックスで所々跳ね上げたその少女は、鵜飼と目が合うと優しく微笑んだ。その少女が神崎チカであることを認識するのに、鵜飼は二、三秒ほどの時間をかけていた。
「うわ! キミ、何で僕の学校に?」
鵜飼は思わず後退りし、自販機に背中を強くぶつけてしまった。
「痛った……」
背中を痛がる鵜飼に対し、神崎は柔らかな表情で会釈する。
「えっと『キミ』じゃなくて」鵜飼は痛む背中を擦りながら、「神崎……チカ……さん」
彼女をどう呼べばいいのか分からず、鵜飼は継ぎ接ぎに名前を呼んでいた。
「鵜飼さん。私のことは『神崎』でいいですよ?」
「そう? じゃあ、神崎……。えっと、おはよう……」
「ええ、おはようございます」
神崎は満面の笑みを咲かせた。
「あ、えっと、それで……神崎……何で僕の学校に?」
「ああ、それはですね――」
神崎の言葉を遮るタイミングで、藤井がパチパチパチと、間の空いた拍手をした。
「なるほど。そういうことか、鵜飼」
言うと、藤井は自販機に背中からもたれて腕を組んだ。
「鵜飼、彼女ができたならそう言えばいいじゃないか。何故こんなかたちでしか紹介できないんだ?」
口に何も含んでいないはずなのに、鵜飼はむせてしまった。
「違うってば! さっき話したでしょ? この人が厚生労働省の人っ!」
「……彼女が? 例の?」
疑心を抱くような瞳を当てる藤井。対して神崎は、至極柔らかな笑みを浮かべたのであった。
「とりあえず自己紹介をしてくれるか? 可愛らしいお嬢さん?」
藤井は自販機から背中を離すと、神崎に向かって微笑んだ。その時、藤井のバックに赤いバラが咲き乱れたビジョンを鵜飼は見ていた。
「申し遅れました。私はこういう者です」
神崎は藤井に名刺を差し出した。藤井は名刺を受け取ると、拳を口に当てて「ふむ」と深く唸った。
「……なるほど……。ありがとう、神崎チカさん」
藤井は名刺をポケットにしまいつつ言った。神崎は軽く一礼してそれに応える。
「ところで神崎……今日は何でここに来たの?」
「そうですね。敵状視察、といったところでしょうか?」
ワケの解らぬことを言うと、神崎は藤井の方をチラリと見た。
「ミステリアスだね、彼女」
藤井は涼やかな視線で神崎を指した。
「すみません、今のは忘れて下さい。では鵜飼さん、金曜日の夜……あの夢の中で会いましょう」
神崎は一礼すると、流れるように去っていった。それを見計らったかのようなタイミングで、キーンコーン……と、朝のHRの予鈴が響き渡った。