【1話】 鵜飼穂苗
「――みち――」
呼んでいる。
「――おみ――」
誰かが、鵜飼を呼んでいる。
「――おみ――ち――」
途切れ途切れで分からないが、自分が呼ばれていると、鵜飼には不思議と分かっている。
「――おみち――」
呼び掛けに答えたいが、鵜飼の身体は動かない。
「直道!」
突然、クリアな叫び声が聞こえた。聞き慣れた女子の声だ。ここでようやく身体の自由が効くようになり、鵜飼はゆっくりと目を開いた。しかし深い眠気が、再び鵜飼の目を瞑らせる。
「こんの、寝坊助!」
女子の荒々しい叫び声がした。次の瞬間、鵜飼の顔面に強い衝撃が来た。強い衝撃により、鵜飼の目はすっかり覚める。
(うう……)
鵜飼はゆっくりと、ベッドから半身を起こした。ボヤけたビジョンはやがて晴れ、ある一室を映しだした。
(ここは……)
広さは六畳。ベッドに隣り合う勉強机に、漫画が詰まった本棚。小綺麗に整ったその部屋は、鵜飼の実家の自室であった。
「うわ、や~っと起きやがった……」
攻撃的な女子の声が、部屋の扉の方から聞こえてきた。部屋の扉には、制服姿の女子が、腕を組んでもたれ掛かっている。女子はたれ目でおっとりとした感じの顔立ちで、セミロングヘア。
二、三秒ほどで、鵜飼は認識した。その女子が、妹の鵜飼穂苗であることを。
「なーにバカ面で見てんのよ? 直道」
言うと、穂苗はウサギのヌイグルミを鵜飼に投げつけてきた。ウサギは鵜飼の顔にヒットし、先ほど目を覚ました時にきたものと同類の衝撃が鵜飼を襲った。ベッドには投げつけられたウサギの他に、トラのヌイグルミが転がっている。どうやら先ほどは、このトラがやったらしい。
「痛いなぁ……」
「うわ、直道がようやく喋った!」
すると、穂苗はベッドに飛び乗って、鵜飼の両頬をギュ~ッとつねった。
「さっきからボーッとしてないで! シャキッとしなさい! シャキッと!」
穂苗は頬をつねりながら、鵜飼の顔をグルグル動かす。
「わ、分かったよ……痛いから離して……」
離し際、穂苗は鵜飼にデコピンを放った。そして、穂苗は鵜飼の真ん前で怪訝に微笑む。
「ねえ? 私が何回起こしたか分かる? 何回無駄な労力を使ったか分かる?」
穂苗は怪訝な笑みを満開にした。久しぶりに対面した穂苗の顔に見とれ、鵜飼は何も言い返せなかった。
「ちょっと、さっきから何よ? 顔に何か付いてる?」
穂苗は己の顔のあちこちを触って確認をする。そんな穂苗の姿を見て、鵜飼は思わず吹き出してしまった。
「んー? 何かな? 今の含みのある笑いは?」
怪訝に微笑みながら、穂苗は右拳を作った。
「ううん、何でも無いよ」
鵜飼が静かに言うと、穂苗はムッとした表情で首を傾げた。
「何か調子狂うわね。今日の直道、何だか対応が大人って感じ」
穂苗は軽快な動きでベッドから飛び降りた。
「じゃっ、早く制服に着替えて下に降りてきてよ?」
「うん……」
穂苗は不思議そうに鵜飼の顔を見てから、部屋から出て下の階に降りていった。
(夢だよね、これ……)
うん、と鵜飼は頷いて納得した。
久しぶりの、良い夢だった。
だから、しばらく覚めないでほしい……。