【9話】 未々経験
誘拐犯は車から七、八メートルほど離れた場所まで来ると、立ち止まった。そして誘拐犯は何かを手に持ち、それを鵜飼たちの方に向けた。
「おい……冗談ではないぞ……」
吉宗がそう言った時、鵜飼はようやく気付いた。
誘拐犯がこちらに向けているものが、拳銃であることに。
「伏せろ!」
吉宗は叫び、身体を縮こませつつ運転席のドアを開けた。鵜飼は開けられたドアを防壁にして伏せた。
ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! と、鼓膜を破るほどの爆音が六つ続いた後、カチッ、カチッという音が何度も響いた。
「おい! 今だ! 後ろから乗れ!」
「あ、は、はい!」
鵜飼は膝をガクガク震わせながらも、車の後部座席に乗り込み、目いっぱい伏せた。
「まだ伏せていろ!」
車は急速でUターンし、爆速で誘拐犯とは逆方向に発進した。
「……まいただろうか?」
「さ、さあ?」鵜飼は身体を起こした。
車のフロントガラスには弾痕がいくつもあって、視界がやや悪い。
「一体何なんだ、これは……」
吉宗はハンドルを片手に、顎を擦りながら辺りを見渡した。
鵜飼もつられて見渡してみると、セピア色に染まっていることの他に、人気が無いことにも気付いた。
この車以外、一台たりとも車が走っていない。
「……とにかく警察に連絡だ。君、スマホは持っているな?」
ポケットに手を突っ込んだ鵜飼だったが、入っているはずのスマホが無い。
「あ、あれ? さっきまでは……あれ?」
「何をやっている! もういい!」
吉宗はハンドルを片手に、胸元のポケットに手を突っ込んだ。しかし、吉宗の表情は強ばるだけであった。
「……何故だ? 先ほどまでは……」
吉宗も鵜飼と同じ状況らしい。
「吉宗さん、とにかくこのまま突っ走って――って、嘘でしょ!」
鵜飼はサイドミラー越しに、信じられないものを見た。
虹色の覆面を被った誘拐犯が、超スピードで走って車を追いかけてきている姿を。
誘拐犯は、陸上選手のように綺麗なフォームで、手足を尋常ではないスピードで動かして車を追ってきている。
「な、何だあいつは!」
吉宗も超スピードで走ってくる誘拐犯に気付いたらしい。
吉宗はグッとアクセル踏み、速度メーターが八十キロまで揺れた。それでも誘拐犯との距離は広がらない。
「ど、どうなっている! 一体何なんだこの状況は!」
「いや、僕にだって――」
ハッと、鵜飼は先の言葉を飲んだ。
(ちょっと待てよ……。そういえばさっき……)
鵜飼は頭に来た衝撃のことを思い返していた。
あの、ハンマーで叩かれたような衝撃を、つい最近経験していたのだった。
(あの衝撃……神崎が夢に無理やり招待した時のと同じ……だよね? そして誘拐犯が居るってことは、ここは……)
夢の中?
そう思った鵜飼だったが、夢に入るようなルートを踏んだ覚えは無い。
でもここが夢の中であると考えた方が、色々と辻褄が合うことだらけだ。
(神崎が戦闘訓練のために招待した……とは考えにくい……。そうだったら事前に何らかの告知をしてくれるはずだし……)
鵜飼は瞬発的に色々な可能性を考える。
(もしかすると、ここは『本物の夢』の中かもしれない……)
今はそう決めつけようと、鵜飼は夢の基本的な順序と現状を比べる。
(……あの夢だとしたら、誰かが誘拐されて……救出しに行って……そこに誘拐犯が居るんだよね……。
今回は何故か前半が省かれて、もう誘拐犯が居る……ってことか? そしてその誘拐犯が狙うのは確か……黒塗りの棺桶だけど……)
車内を見渡してみても、それらしき物はない。
まさか神崎が招待した夢(訓練)のように、棺桶そのものが存在しない?
いやしかし、誘拐犯が車を追いかけているということは、狙うべきものが……つまり、黒塗りの棺桶が車の中にあるということではないだろうか。
それとも救出者の鵜飼を倒しにかかっているだけか?
「あの、吉宗さん。この車って、棺桶みたいな物を積んでたりしてない……ですよね?」
「そんなものは――」
ない、と言いそうな勢いを、吉宗はハンドルを強く握ることで止めた。
「分からない……もう……何がなんだか……」
向こうもパニックなのだろう。
とりあえず助手席か運転席の方に無いか? と鵜飼は前に身を乗り出した。その拍子、吉宗の心臓部に、見覚えのある黒い物体を発見した。
「これだ!」
吉宗が着ているスーツの心臓部に、セピア色に染まっていない黒い長方形の物体(およそ二十センチほど)が貼り付いている。
一目見て、黒塗りの棺桶の超小型版であることが分かった。
「吉宗さん! それです! その心臓部に付いてる棺桶! それを絶対に壊されないようにして!」
吉宗はハンドルを握りながら、己の心臓部に視線をやった。
「何だこれは……。もう、何が何だか……」吉宗は何かを振り払うように、首を何度も横に振った。「君は何か知っているのか?」
「いや、正直僕も良く分からないけど――」
ダン! という爆音が、鵜飼の先の言葉をかき消した。誘拐犯が超スピードで車を追いながら、拳銃で撃ってきたのだ。
ダン! ダン! と銃声は続き、サイドミラーや後ろのガラスに弾痕が残されていった。
「うう……。吉宗さん、とにかくこのまま突っ走って!」
吉宗は車のスピードを更に速めた。
銃声が治まったところで、鵜飼はこの舞台が『あの夢』であることを確定づけるため、窓を開けてそこから外に向かって右手をかざした。
「【ヒラケゴマ】」
かざした右手から、セピア色に染まった炎が放出された。これはもう、夢で確定。
吉宗はセピア色に染まった炎を見てギョッとしていたが、特に何も言ってこなかった。
「僕がやらなきゃ……」
この夢は今まで見てきた夢とは違う。
神崎が用意した『まがい物』なんかじゃない。謎なことが多いが、それだけはハッキリと分かる。
つまり救出に失敗したら、自殺者が出る。
そう、見郷吉宗が自殺するのだ。友達の見郷紫乃の父親が、自殺するのだ。
救出に失敗したら、家族が自殺して死んだら……見郷紫乃は酷く悲しむだろう。
「絶対に……絶対に救出する……」
鵜飼は家族を失う悲しみを痛いほど理解しているから……。
その悲しみを、身近な友達に味わってほしくないから……。
「蘇りのためにも……失敗できない……」
神崎が言っていた。本物の夢で一度でも救出に失敗したら、穂苗の蘇りが叶わなくなると。
確信はできないが、この夢も他では無いだろう