概念、存在論、自由と善
【概念の構成】
概念は基本として正と負のように方向性を持つ。
<概念種別>
その概念の種類、あるいは性質。
<概念方向:二元性>
正と負の方向。位置的、あるいは数量的な軸、または位置か数字そのもの。
あるいは概念種別自身との関係性。
<概念関係>
別の概念との関係性。
概念同士が組み合わさることで出来る複合的概念、動的世界下における概念の歴史、生まれなど。
【概念の立場】
〈一意的概念〉
概念種別において、全ての概念の根源となる概念が存在するとする。
祖となる一つの概念があり、それ以外の全ての概念は祖との概念関係によって成り立つ。
〈多発的概念〉
概念種別において、全ての概念が根源となる概念であるとする。
全ての概念が祖であり、関係性はあれど、どちらが祖であるかは決められない。
つまり概念において因果関係は成立しないとする。
〈概念世界説〉
全ての概念は、概念世界というところの位置に座しているのみであり、種別や関係も数値によって再現できる。つまり概念とは変数の数値であるとする。
概念は空間を有するとする。そのような空間を概念世界とする。
〈概念関数説〉
全ての概念はある一つの変数で構成される。
概念の種別、二元性、概念関係も一つの変数で決まり、その変数とそれぞれに対して特別な関数が存在する。(概念関数)
つまりこれは概念の根源とはある概念ではなく、始祖的変数と始祖的関数だという視点。
〈関係因果関係説〉
全ての関係性は、いくらかの概念と因果関係のみで説明できるとする。
すなわち概念関係とは因果関係そのものと考える。
またその場合、概念とはいくらかの概念と因果性(因果関係)だけで説明がつく。(二元性も概念として含んでいるとする)
【諸々の説的視点】
<存在の主軸>
観測者と事物、あるいは概念のどれに視点を置くか。
それぞれに対しては普遍的なものと認知的なものという立場がある。
〈観測の立場〉
自身が普遍的観測者であり、観測したものは存在するとする立場。観測したままに疑わず、また観測を中心として思考する。
哲学的には自身の観測したものを信じ、他者との関係において、自身を中心として見解を持つ。自身を疑わない立場。(自分は幻惑など患っていない)
自身が存在するとすれば、観測した事物も存在すると決まる。
※普遍的観測者とは、人によらない観測結果を観測できるとする観測者。当人が観測したものは同様に他者も観測している。(厳密には同じ法則性を観測している)
〈事物の立場〉
事物を普遍的とし、中心とする立場。事物の存在によって、観測者の存在を決定する。
〈概念の立場〉
概念を普遍的とし、中心とする立場。概念の存在によって、観測者の存在を決定する。
【諸々の論、説】
〈存在の因果関係〉
観測者が存在するとき、観測された事物と概念も存在する。またその逆も成り立つ。
〈概念矛盾説〉
矛盾する概念は存在できないとする説。
〈非関係概念説、非法則概念説〉
他の別と関係を持たない概念は存在できないとする説。
孤立した概念は存在できない。
また法則性を持たない概念は存在できないとする説でもある。
これは法則とは他の概念との関係の中で生じるとする仮定から非関係概念説と等しいとしている。
〈非存在の不可:証明の因果〉
自身が存在していないことを証明するには、観測が必要であり、仮に自身が存在していないとすれば、その観測も存在しないこととなり、矛盾する。(デカルトと同じかもしれない)
観測結果が存在しなければ証明はできない。
〈色相の論:絶対的知覚の否定〉
観測される事物は形が変わっても、その法則性は成立する。
いわば事物とは概念の表現(色相)であり、それは一意的ではない。法則性さえ守れば、その事物がどのように見えるかは勝手である。
さらに、受け取る情報が限られているのであれば、複雑な事物であっても簡単に表現できる。色によって仕分けするように。
また脳での処理によって物が認知されるだけであり、その像が同じとも限らない。同じなのは実のところ、法則性だけでいいのである。
【思想(上と関係ないのもある)】
〈神人永劫主義〉
この世で類を生きながらえさせ、その長い歴史の中に現れるであろう、超越的な力を持つ類、人類ならば神人を待つ。
種の存続とは神人が産まれるまでの経路に過ぎず、彼が生まれるまでに不老不死を実現させ、彼の永劫を約束する。
神人ならば世界の答えを導き、世界を完全にするだろう。
〈自然至高主義〉
自然のままに思うがままに生きるのが善であり、その果てに滅びがあろうと受け入れるべきである。
これは文明の発展も自然の輪の中としており、そこに生まれる感情も同様である。
〈心信、善心、性善主義〉
自身の想う善を成せばいい、それを疑うことはない。と考える。
心の従うままに自身の善を尽くせば、正しい道を辿っている。
(さすがにカントとか入ってる)
〈盲目主義、絶望主義〉
この世界は不完全であり、絶望するばかりならば、それこそがこの世界の真理であり、その存在を受け入れるべきである。
永遠の盲目、幻に彷徨い、永遠に絶望することが慣れの果てであり、そもそも自然のままにすればそうなったのだから、これも善だろう。
〈環境干渉主義〉
人間の意志のほとんどは自分で決まるものではなく、遺伝を含む環境によって決まる。
人間を変えるためにはその環境を変えるしかなく、あるいは環境が変わったのであれば勝手に人間は変わっているのである。(マルクス?がそんなこと言ってたかもしれない)
〈水の主義〉
欲望を持たずにしていることこそが本来のあり様である。
すなわち結果や期待を考えて不安に思うことがない、利益でも誰かのためでもない行動こそが善であるとする。(老子の哲学が元)
〈盲目的怠惰、少年ジャンプ至高派〉
現状に対する不満や不安をただ気力のせいにし、解決に対して冷静に判断しない怠惰を善だと妄信する派。
マスメディア、少年ジャンプ、少女漫画、ドラマ、また理想、それらを真実だと思い込むあまり、現実を真に見ていない。
主義と欲望が先立つあまり、実際の結果を否定する。
本当の満足とは自身の発言した行為ではなく、それによって誰が笑顔になったかではないのか。
気持ちを見ずして主義を押し付けるのは、ただ性格が悪いだけである。どこが善であろうか。
〈超越主義〉
存在しているとは法則を宿すことであり、それゆえに人間は縛られた存在である。ならばそこに完全な自由は存在しないが、その縛りに対して歯向かう行動こそが自由と言えるのではないか。
〈離反自由主義(超越主義の過激派)〉
法則性からの脱却を求める主義。矛盾と知りながらも、そこに抗うことが自由ならば、肉体から離脱し、完全な自由を求めるのもそうだろう。
〈中庸、中心概念、均衡主義〉
動的下世界において概念物質は均衡へ向かう。その自然的法則性も含め、人間も均衡のとれる思想を持つのが善であるはずだ。
これはあらゆる状況に対応できるという意味でも、均衡こそがバランスが良く柔軟でもある。
二元性のどちらかに偏り過ぎれば世界の均衡から外れ、不和が生まれる。
干渉性において概念は均衡へ向かって行くとする思考の下、その中心くらいが安全だろうと考える。またそうすることで客観的に物事を判断でき、余裕も生まれるだろう。
(アリストテレス、孔子から)