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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

よんもじ

いけにえ

作者: 何ヶ河何可



 ーーー死にたくない!



 乱れる呼吸の中、無我夢中に両腕を振り、自分勝手に生い茂る植物達を体で押しけて疾走する。

 そんな少年の瞳は充血したように赤く、これ以上ない興奮状態に置かれて血走っているようにも見えるが、その赤の瞳は生まれついてのものであった。


 嫌だ

 死ぬなんて 嫌だ


 少年の指先の震えが寒さによるものではないことは、雪はおろか僅かな冷気さえも周囲に存在しないことから明らかだった。

 内臓中の痛みも、植物による擦り傷切り傷の痛みも、彼の死にたくないという気力に押し潰されていた。


 ただただ、ただただ死にたくない。


 たったそれだけの気力の前で、いかなる危険信号も無力であったーーーーーただ一つの死を招く存在を除いて。









「ーーーーーー決まったらしいな。今回の」


 雪のしんしんと降る中、いつ崩れてきても不思議ではない石壁の向こう側から、無遠慮な声が聞こえてくる。


「おい。その話、ここでするなよ。だって決まったのってここの……だろ?」


 応える男の声はコソコソとしていて、人目を気にしている風ではあるものの、始めの男と大してボリュームは変わらない。

 石造りの壁の内側、暗い家の中で、少年は聞こえてきた声に、そっと赤の瞳を瞼で覆う。


「知ってたのか。てか、いいじゃんか。誰に聞かれたって。もうここら辺のやつらは全員知ってるんだから」


 男達は、各々動物の毛皮でできた被服を直しながら歩き、会話を続ける。

 もういくらかすれば夕日が沈みきる時分。宵闇に呑まれてから用を足さぬようにと、男達は日のあるうちに外へ出ていたのだった。


「知ってるって……。分かりきってる、の間違いだろ?まだおさの口から伝えられたわけじゃないんだから。俺だって憶測で言ってんだよ」


 寝転がっていた少年は、抱えていた膝を更に抱き寄せて一層丸く縮こまる。

 隣にある便所から、新しい糞尿の匂いが風に乗り石の隙間を通って、彼の鼻を突いたのだ。

 ウッと吐き気を催す臭気に、思わず膝の皿の間に鼻をうずめる。

 しかし、この反射行動にあまり意味は無いことを、短い人生で少年は知っていた。

 右頬に触れる暗い地べたが、いつも通り冷たい。


「いやいや。憶測とかじゃねぇんだよ。長が口を滑らしてるとこを本当に聞いちゃったんだよ」


 男達は夕日に背を向けて、ぎゅむぎゅむと雪を踏み締めながら少年のいる家を通り過ぎて行く。


「そりゃ、本当か?今更あいつが選ばれたことに驚きはしないけどさ、長が口を滑らすなんてなぁ」


 これは異常気象でも起こるかもな、と冗談めかして言う言葉っきり、男達の声は消えてしまった。


 少年は被さっていた瞼からゆっくりと赤の瞳を露わにし、顔を上げる。

 未だ嫌に暖かい臭いは居座っているものの、その中で少年は赤をぱちぱちと動かす。

 夜が訪れる前のこの時刻、脆くもしっかりと圧を感じる石達の間隙から、細く小さく差し込む夕日を探す。それが少年の眠りに着くまでの日課だった。







 数日後、赤目の少年は集落でできる限りの彩りと芳香を身に付けて、枯れた森の中にいた。


「俺たちが案内出来るのはここまでだ。あとはここを真っ直ぐ行けば洞窟だからな」


 山の神への捧げ物である赤目の少年。その案内役に選ばれた二人の男の内、背が高くガタイのいい方が立ち止まってそう告げた。

 少年はその男の指差した先、雪と枯れ木で見えない先をじっと見つめる。


 少年がコクリと頷くのを見て、男が淡々と続ける。


「絶対に戻ってくるんじゃないぞ、分かったな」


 無機質なように、少年は再度頷く。

 

「ったく、本当に分かってんのかよ」


 頭に積もった雪を払い落としながら、もう片方の男が背の高い男の後ろで軽く溢す。

 正面に立つ背の高い男の腕越しに、後ろの男の様々なものへの苛立ちが少年の赤の瞳に写る。


「その手に持ってる木の実は洞窟に着いてから食べるんだからな」


 背の高い男が少年の手元を見て言う。

 そこには真っ赤な木の実が一つあり、子供の手では一つ持つのがやっとな大きさだった。


 機械的に、少年は繰り返す。


「もういいだろ、早く行こうぜ。まだ縄張りに入ってないとは言え十分近いだろ」


 後ろの男がこれで区切りとばかりに声を掛ける。


「そうだな。……赤目。いいか、洞窟に着くまで絶対に戻ってきちゃダメだからな。洞窟に着いたら大人達が来るから、それまでずっと待ってるんだぞ」


 背の高い男が努めて温和なトーンで警告する。

 少年はそれにもやはりもう一度首を縦に振って、男達に背を向けて歩き始めた。




 男達が少年を失い、帰路に着いた頃。少年は正面に小さく洞窟の入り口を見つけていた。

 時刻は夕暮れ。いつもなら小さな夕日を探し始める頃合い。

 いつもなら、と言うには最近は雪続きのせいであまり出来ていないことだった。それこそ、何日か前に用を足した男達が去った後探したっきりである。

 そんないつもの癖を思い出し、夕日を探し始める。

 すると、丁度雪が止んでおり、夕焼けの空がぼんやりと見上げられた。山影に沈みゆく夕日がはっきりと橙に輝く。

 それは、少年の探し求めるモノの数十倍の大きさだった。

 そのまぶしさに、視線を背けて近くへ持ってくる。と、山の中の異様な暗さが際立った。

 枯れ木と雪。

 それだけの空間にいる自分がひどく異質で、目が眩む程の暗さがグロテスクに見えて、衝動的に止まっていた足を動かす。

 異質さは、少年の最も嫌いとする所だった。

 他と違う、ということの意味を少年は身を以て知っていた。


 ………


 必至に、それを振り切るように洞窟へと足を進める。

 けれども進むに連れて、異質さは濃くなっていく。べっとりとして離れない、振り払うことのできない自らの特別さが嫌悪感以上の何かになり上がる。

 枯れ木や降り重なった雪にさえも弄ばれるのではないかと、再び降り始めた雪が宙を舞い嘲笑っているのではないかと、視野が狭まり手が震える。

 自分で自分を苦しめる被害妄想達が、分かっていても止まってくれない。

 しかし、敷かれた雪をザッザッと散らしながら進む足には、帰ることも立ち止まることも許されてはいなかった。

 少年にとって、そんなことはハナから候補にすら上がらない、迷う余地もないことだった。


 丸く開いた洞窟の口には、大きなシダの葉が中を隠すように幾つも垂れ下がっていた。

 その一つを片手で押し上げて洞窟内へと侵入する。

 中は当然暗く、本格的に吹雪いてきた外より随分暖かかった。

 そして、少年の嗅ぎ慣れた臭いがした。いつものとは少し違う、しかし明らかにそれだと確信できる臭いだった。

 少年は立ちすくみ、それから洞窟の入り口近くに座り込んだ。

 外にいる時は拒絶しているように感じたシダの葉が、今度は暖かさを以て歓迎してくれているような気がして、少年は自然と体の力が抜ける。


 膝を抱える姿勢で、頬を膝に置きながら、左手いっぱいの大きな真っ赤な木の実を見つめる。それは大人達が持たせた匂いの強い木の実だった。



ー今回の捧げ物はお前に決まった


 そう、長は言っていた。


ーここ最近の悪天候でな、貯めてあった食糧も底が見えてきた


 そう、長は続けていた。


ー俺も知らないずっと前の長からしてきたことなんだ、食糧危機になるたびにな


 長はこうも言っていた。


ー山の神に子供を捧げる以外方法がないんだ


ー頼む、この集落の全員を救ってくれ


 もごもごと動く中途半端な髭、それと長の証である豪華な杖だけが印象的だった。他には何も、記憶に残っていない。

 少年は顎を膝に押し付けた。


 外ではゴオゴオと風が鳴いている。時折シダの葉がめくれ、凍てつく空気が入り込む。

 もう暫くすれば、今いる場所も外とそう変わらない気温になるだろう。

 そう考え、やむを得ず少年は洞窟の生暖かい方へと移動する。

 肌に乗る重さのある湿り気と、足裏の繊細な痛覚を微弱に刺激するヘドロにかつてない抵抗感を抱く。

 不安感から岩肌に触れ、足裏の感覚を感じないように、別のことを考えながら歩を進める。

 それは長が去ってからの夕暮れの記憶だった。


ー正直言って、仕方ないよな

ーあぁ、長も良い落とし所を見つけたよ

ー見つけたってか、この為に見つけて来たんじゃないか?

ーあぁそういえば、あいつ孤児みなしごだっけか

ーそうだよ、長が冬期に入るずっと前になんでか拾ってきたんだ

ーあの時は荒れたな、誰が育たんだって

ー結局、育ての親は決まったけど冬期に入る前に寿命で逝ったな

ーそれからは誰も面倒見てないんじゃないか?

ーいや見てたろ、集落全員で

ーそれってお前、皆誰かが面倒見るだろってなって実質誰も見てないみたいなもんだったろ

ーそんなことないだろ、どうせ長辺りがやってるよ


 洞窟内の臭いがフックになったのか、あの時嗅いだ臭いと共にそんな冷たい記憶が蘇った。


 少年は、八つ当たり気味に木の実を握り締める。割れんばかりに、ではなく割ろうとして、である。

 しかし思いの外木の実は硬く、少年は攻撃的に木の実に齧り付く。一寸先も見えない暗闇で獣のように齧り付く。

 そのせいで、木の実の破片がボロボロとこぼれ、ビチャビチャと音を立てて落ちた。

 それまでも十分木の実から放たれていた匂いが、実が露わになったことでより一層強烈なキツい匂いへと進化する。それは言ってしまえば果実の良い匂いではなく、単なる鼻を突き刺し殺すような刺激臭であった。

 常人であれば吐き気を催す程の洞窟内特有の臭いも、いつも嗅いでる臭いとさして変わらない少年には苦痛ではなかった。

 しかしながら、それとは別種の強烈な匂い、それも自分の咽頭からする言わば風味として知覚される刺激臭は少年をこれでもかと苦しめた。

 嗚咽を繰り返し繰り返して、幾度となく吐瀉をする。大元である木の実を全て嘔吐しても、その刺激臭は留まったままだった。


 少年は息を荒げて、ヘドロの上に座り込む。被服の毛皮が汚濁を吸い上げたが、どうでも良かった。

 喉がマシになったわけではない。むしろ、喉はキリキリと痛む。喉の徒労と、嗅覚の慣れが少年を一度ひとたび休憩に追い込んだのだ。

 少年は度々咳きをしながら、壁にもたれ洞窟の奥を見る。

 最初はぼーっと喉の辛さに耐える為に眺めていた。

 けれど途中から、はっきりと何かを探すように注視し始めた。


 何かが、いた気がしたからだ。


 少年は一転して息を潜める。

 不幸とは重なるものだ、とこれまでも思ってきたことを重ね重ね、思い直す。嫌な経験則だった。

 ジリジリと、見えぬ聞こえぬ嗅げぬ存在が近づくのが分かる。重い空気がより重く、重力が横に働いてるかのように少年にもたれかかる。

 高鳴る心臓とは裏腹に呼吸は静けさを体現する。

 生きたいという衝動に駆られて今すぐにでも走り出したくなるが、一歩でも足を動かせば、一瞬でも気を逸らせばその瞬間が人生の終わりだと知覚する。

 劣悪な環境に、空気毎縫い付けられたように少年は動けない。

 息をしていないのは、生きる為だった。

 皮肉にも、喉に溜まる不快感だけが現実感を少年に味わわせていた。

 突然、気配が止まった。

 それが諦観や興味の薄れではなく、値踏みだというのは少年も理解していた。

 しかし、それでも自分の命が一秒でも長引いたことに安堵しないわけではなかった。

 その一瞬だった。生きる為に止めていた息を吐いた、その一瞬に少年は襲われた。

 声にできない声を上げて、少年は走り出す。

 痛みに耐える暇も、もがく暇も無い。痛みを痛みとして感じながら、流れ出る血を感じながら、少年は真っ直ぐに来た道を急ぐ。


 死ぬのは嫌だ 死ぬなんて嫌だ


 明確な命の危機に瀕して、心からの生命力に突き動かされる。

 追ってくる足音は木霊しながらも、しっかりと一つではないことが分かった。

 二体か三体か、はたまたもっといるのか。生きることだけを考える脳内で、感覚的にその個体数を探ろうとする。

 けれど、そんなことは無意味だった。

 少年は、突如正面から体当たりされた。それと同時に自分の肉に鋭い何かが食い込み、骨を砕くのが分かる。

 今度は、声を上げた。

 痛がる暇もないのは同じだったが、しかし声を上げずに耐えることの方が難しかった。

 少年は呻き声を上げながらも立ち上がる。


 左腕が 痛くて 熱い   でも 生きないと


 相手の正体も、数も、位置も判然としない状況下で、だからこそと言えるのか、少年の“生きたさ”は見る見る膨らんでいった。


 生きたい 生きなきゃ 何がなんでも生きなきゃ


 絶対に 死にたくなんてない


 無意識下で、少年は再び走り出していた。

 それを感じて、闇の中、統率のとれた動きが少年の命を奪いにかかる。

 血肉が飛び、骨が砕かれ、神経が千切れた。

 想像を絶する痛みも、火傷する程の熱も少年にはあった。

 けれど、少年はスピードを落とすことなく走り続けた。まるで五体満足であるかように。五臓六腑を痛めつけて奮走を続けた。

 やがて巨大なシダの葉が見えてきたが、少年は気にすることなく走り抜けた。

 洞窟を出ても、少年は相変わらずだった。

 死にたくないの一心で、体に当たる枝葉も、目が霞む程の頭痛も無いことのように駆けた。


 嫌だ

 死ぬなんて 嫌だ


 少年はその危機が、脅威が無くなるまで延々と走り続けた。






























 




「ごめん、お待たせ」


 背中に羽を生やした少女が、赤い目をした少年にそう言った。

 少年は否定するでも肯定するでもなく、申し訳なさそうに困惑の表情を浮かべる。


「それにしても、あなたのその瞳、夕日みたいで本当に綺麗ね」


 羽の生えた少女が黒く長い髪を風になびかせながら、皮肉でもなく見惚れるようにその言葉を継ぐ。

 それに対しても少年は困惑の表情を浮かべたが、その複雑さの中には、どこか温かさも見てとれた。


「あ、ありがとう」


 そう言いつつ、少年は少女の視線に耐えかね、世界中を真っ赤に染めた夕焼けを見やる。


「にひひ。でしょ?感謝も言いたくなるぐらいでしょ?この風景」


 少女の勘違いを訂正しようと振り向くが、そのうっとりと夕日を眺める横顔に再び視線を戻す。


「なんか、不思議なんだ。ただ赤いのに。世界がこの、夕日が沈む瞬間に赤いだけなのに。全部が一つになって、面倒臭いことが全部、心の中まで取っ払われちゃう感じ。それが一番感じられるこの場所が、私は大好き」


 少年は少女と共に夕日を全身に浴びて、寄り添うように頷く。


 見果てる世界と同様、真っ赤に染まる体は温かく、内側まで染み入り渡る。






 それから少年は、振り返れば刹那に思えた時間を、夕日を見て悠久に過ごした。












読んで下さり誠にありがとうございます。

何かあれば何かしていただけると幸いです。



タイトルをゆうやけにするか迷いました。

次はおばあさんの話が書きたいなぁ。

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