手遅れ
全部で4篇です。
3編目は漆原佳奈。
天才を理解できるのは天才だけ。私は勇作君の演奏を初めて聞いたとき、彼は天才だって気づいた。バイオリンの天才だって。彼は世界の舞台に立てる。そんな彼の隣に立つのにふさわしいのは他でもない私だって確信していた。だって私は天才だから。
私は小学生の頃から何度も水泳大会に出場し、地域の大会でも全国大会でも入賞をしてきた。水泳選手の両親の血を引いているからこその天賦の才だって気づいていた。姉さんにはなかったけど。中学生になるときには全国大会で二度優勝した。それには父さんも母さんも大喜びしてくれた。このまま行けば世界大会に出られるだろう。けれども私は満足しなかった。私が全国大会で優勝する前に既に勇作君はバイオリンコンクールで一番をとっていた。そして、その演奏をきっかけに、海外のプライベートなコンサートに招待されて演奏をしていると聞いた。私が日本一になっている間に、勇作君はすでに世界の人になっていた。
もっと頑張らないと。もっと結果を残さないと。
私は色恋沙汰を全て切り捨てた。彼の隣に立つためにもまず、彼に認めてもらうところから始めないと。世界を舞台にはばたく彼の隣に立つために、私もはばたかないと。それまでの間、彼との関係は封印しよう。私はそう決心した。二年生の夏に開かれる国体と競泳の全国大会。そこでいいタイムを出せれば世界大会出場の資格をもらえる。私は夏に向けて練習に励んだ。その練習は周りの景色を忘れてしまうほどに。クラスメイト達とは、同じ部活の友達とは笑顔で話せるけれども、交友関係とは関係のないところでは、練習とは関係のないところでは、私は全てを切り落として、結果を残すことに全力を注いだ。勇作くんと手を取り合うその日のために、私は勇作くんから手を離した。
夏休みに入ってから一週間が過ぎたある日、ランニングに出かけようとしたところで、隣の家が何やら騒がしいのに気づいた。覗いてみると、勇作くんとその両親がどこかへ出かけるのだろうか?車に色々と荷物を詰め込んでいた。対して妹の菜々花ちゃんは寝間着姿のまま。三人だけでどこか出かけるみたいだった。
私の姿に気づいた勇作くんのお母さんに尋ねてみると、勇作君はこれからコンクールに出るために海外に行くとのこと。すごい。私は全国大会に出て入賞できるかどうかそんな場所なのに、彼はすでに世界大会に出るって。本選だろうか?それとも予選だろうか?音楽のコンクールの仕組みを良く知らないので的外れなことを考えているのかもしれないけれども、まだまだ私よりもずっと先を行く人なんだと気付かされた。
彼になんて言おう?どう応援しよう?そう悩んでいるうちに勇作くんたちは車を出してしまった。彼らの車が見えなくなったところで、菜々花ちゃんと目が合う。菜々花ちゃんは軽く頭を下げてからそのまま家の中へと戻ってしまった。
「頑張らないと……」
私は気を取り直して、ランニングに出た。
姉さんの勉強はどうやら天井を迎えているみたいだ。となると姉さんはライバルじゃなくなった。あとは私が結果を残すだけ。私が世界の舞台に立つための資格を得るだけ。世界大会への出場資格を得たとき、私は勇作くんに受け入れてもらうんだ。
八月の国体と全国大会を終えた。結果は日本一。世界大会出場資格を得ることもできた。同時に別の朗報も来た。勇作くんが国際コンクールで優勝したらしい。驚いた。テレビには連日勇作くんを話題にした特集が組まれている。世界大会出場決定の私のニュースがかすむほどに。
でも……。それがかえって誇らしかった。そんな彼の横に並ぶことができるのは私だけなんだって自信を持てたから。
「帰ってきたら勇作くんに告白しよう」
そんな決意を固めた。
でも、どれだけの時間が過ぎても、勇作くんが帰ってくる気配はなかった。一度勇作くんのお父さんとお母さんの姿を見かけたけれど、その隣に勇作くんの姿はいなかった。一度勇作くんはどうしたのか聞いてみようと思い、尋ねに行ったけれども、出張で家を空けてしまっているらしかった。
耐えかねた私は一年生の教室に向かい菜々花ちゃんを呼び出す。
「ねえ。菜々花ちゃんは勇作くんが今どうしているのか知ってる?」
菜々花ちゃんはそう尋ねる私に対して、まるで呆れたような溜息をついて一言。
「兄さんは転校しましたよ。ウィーンの音楽学校に」
その言葉の意味を理解したとき、今まで私を支えていた何かがガラガラと音を立てて崩れていったような気がした。