心残り
全部で4篇です。
1編目は三代儀勇作。
「私、ユウくんのお嫁さんになる!」
「勇作君は私のお婿さんだよ!」
「お兄ちゃんはあげないんだから!」
もう十年も前のこと。幼馴染と妹たちにそう言ってくれたのが懐かしい。あの時は無邪気に四人で近所を駆け回って遊んでいた。でも最近は四人で顔を合わせることがなくなってしまった……。
僕の名前は三代儀勇作。神奈川県内にある私立高校の音楽科に通う男子高校生だ。物心がつく頃からバイオリンをはじめ、将来の夢は今も昔もバイオリン奏者。プロになるべく高校にある個人用の音楽室を借りて練習に励んでいる。
外からの音がまったく届かない防音室の中で僕が奏でる音は僕の耳と僕の演奏を見てくれている弦楽担当教師の三原先生の耳に入る。三原先生は僕の演奏をなぞるように楽譜を見ていた。一通り演奏を終えると三原先生は楽譜から顔をあげて拍手をしてくれた。
「完成度が高い。これはコンクールが楽しみですね」
三原先生からの称賛を受けて、僕はバイオリンを肩からおろした。
「ありがとうございます」
「しかし寂しくなりますね。終業式が終わると同時に転校だなんて」
僕は八月にヨーロッパで開かれるバイオリンコンクールに参加するが、それが終わったらそのまま現地の音楽学校に転校する。あと一週間で終業式を迎えるが、転校に関わる諸々の手続きを除けば、同級生とも先生たちとも顔を合わせることはなくなるだろう。
「目指すって決めましたから」
「分かってますよ。ですからあと一週間三代儀さんの演奏を聞かせてください」
僕はコクリと頷いてから片づけをして、鍵を閉める三原先生よりも先に防音室を出た。
今の高校に通うのもあと一週間と言うことで音楽科のクラスメイト達からは送別会の提案が度々来ていた。コンクールが近いので時間も惜しいけれども、この一年半一緒に苦楽を共にした仲間だからこそ、どうにか時間を作りたいと思っていた。
「先生!授業一日潰して送別会やってもいいですか!」なんて担任に言いにいく猛者もいるけれども、さすがに先生からは却下されている。でも、終業式当日だとドタバタするだろうからと、終業式前日の午後の授業を休講にして、どこかのファミレスで送別会をやろうと言うことで落ち着いた。勿論先生たちは仕事が残っているから参加しないけれども「文科省から何か言われないかなぁ」という副校長の言葉を聞いて、きっと仕事が増えるんだろうなと他人事のように考えていた。
音楽科の友人たちと過ごした一年半はとても充実していて、別れることに寂しさはあるけれども、これまでの関係に悔いを感じたことはなかった。ただ、音楽科に関係ないところでは心残りがあった。双子の少女、漆原恵と漆原佳奈だ。二人とも僕と同じ高校の普通科に通っている。姉の恵は一般入試で入学し、学年でも五本指に入るほど成績優秀な人だ。一方妹の佳奈は子供の頃から水泳をやっていて、将来の夢は競泳選手。そのため毎日のように練習をし、大会でも入賞。その賞を片手にスポーツ推薦でこの高校に進学してきた。二人はかつて僕の幼馴染で小学生のうちは仲よく遊んでいたのだけれども、中学高校と学年が上がるにつれてどんどんと疎遠になってしまった。恵は学年が上がるにつれて表情が少しずつ険しくなり、一部の成績優秀な生徒たちを除いて近寄りがたい人物となった。僕も声をかけることができなくなっただけでなく、声をかけても応えてくれないようになっていた。佳奈は人当たりがよく、快活な少女だと評判で、たいていの人には笑顔を振りまいてくれるのだけれども、僕に対しては挨拶をあまりしてくれず、目も合わせてくれなくなっていた。大雑把に言えば、塩対応を受けてるとでも言えばいいのだろうか?幼馴染だったとは思えないほどに二人との関係は親密ではなくなってしまった。そうなってしまった原因は分からない。本人たちに問題があるのか、それとも僕に問題があるのか。ただ、あと一週間で修復は不可能だろうと言うことは感じていた。
恵は予備校に向かい、佳奈はプールで練習をしていたのだろう。帰り道に二人と出くわすことなく、家に到着する。両親は演奏家でコンサートのために長期の出張に出ていて、家には誰もいなかった。僕は軽くシャワーを浴びて、私服に着替えてから使い慣れたバイオリンを片手に家に備え付けられている防音室で練習を始める。自分で言うのもなんだけれども、音楽の才能があるのだろう。一度スイッチが入ると、時間を忘れ、ひたすらバイオリンを弾いてしまう。冷房をかけているけれども、汗をかき、換気の悪い防音室にむわっとした熱気が籠る。その熱気を気持ち悪いと思う頃合いに時計を見ると九時を回ろうとしていた。僕は夕飯をとるために今日の練習を終えた。両親が居ないので料理は自分たちで作る必要があるのだけれど、コンクール間近であるので、気を遣ってもらって、近所に暮らす叔母に毎日料理を作ってもらっている。叔母は料理だけ作るとすぐに帰ってしまうので、あまり練習に専念しすぎると挨拶すらできないこともある。今日は幸い、叔母が帰る前に顔を合わせることができ、挨拶することができた。
「ご飯、暖かいうちに食べてね。明日も練習頑張ってね」と労いと激励の言葉をもらう。叔母が家を出たのを確認して、僕はできたばかりの夕飯を食べた。
食事を済ませ、食器を洗う。お風呂を沸かしている間、一息つくようにソファーに横たわっていると、玄関からガチャリと音が聞こえてきた。
「ただいま」と女の子の声が聞こえてくる。妹の菜々花だ。僕は寝そべりながら「おかえり」とリビングの外に向かって大きな声を出した。暫くしてコンビニの袋を携えた妹が姿を現す。妹は僕の顔を認めるや否や「ん」と軽く会釈をして、コンビニ袋からアイスを取り出して冷凍室に入れてから自室へと向かった。お風呂がちょうど沸くタイミングで、半袖短パン姿でリビングに戻ってくる。
「今日スパゲッティなんだ」と声を漏らして、テーブルで食事をとり始めた。妹は僕と違って音楽家の道を選ばなかった。残酷な言い方をすれば才能に限界があった。そのかわり勉強の方はずば抜けて得意で、そっちに専念している。今日は予備校の授業日で、十時前という時間に帰宅した。夜中、女の子の一人歩きは正直心配だけれども、コンクールのことで頭がいっぱいな自分は迎えに行くという選択肢が取れず、妹もまたその生活になれているのでそれも承知とばかりに毎晩夜遅くに寄り道なしで帰宅する。コンビニは例外だ。
「兄さん、日本にいるのあとどれくらいだっけ」
沸いた風呂に入ろうと立ち上がったところで、妹から声をかけられる。
「あと二週間弱かな?その頃には父さんも母さんも帰ってくるからその足でそのままウィーンに行くよ。……菜々花は一緒に来ないのか?」
「いいよ。結果なんてテレビでも見れるし、夏期講習もスケジュールキツキツだから」
「でも一ヶ月近く一人で過ごすことになるよ?」
「その間は叔父さん叔母さんの家に泊る。話はもうつけてあるし。時々水回りの掃除さえすれば、家は傷まないでしょ?」
妹はそうとだけ返すと、スマホをポチポチといじることに専念し始めた。
僕はそんな妹を傍目で見つつ、その足で風呂につかり、風呂を済ませるとそのまま床に就いた。
僕のための送別会をファミレスで行った翌日、終業式を迎えた。終業式は普通科の生徒と音楽科の生徒、合同で開かれる。整列は普通科と音楽科で異なるから、普通科に通う恵、佳奈、そして妹の三人の姿は人ごみに隠れて見えない。校長先生の長い話が終わり、そして終業式が終わって各自の教室に戻ると、これからホームルームを始めようとする担任をそっちのけにクラスメイト達は僕の周りへと集まってきた。昨日送別会をしたのに、改めて送り出しの言葉をかけてくれた。わざわざ泣いてくれる女の子もいる。
「コンクールも学校も頑張ってくるよ」
ホームルームが終わった後、僕はそう言って一年半お世話になった校舎を後にした。
夏休みが始まってからはずっと家の防音室にこもって演奏を続ける。朝の七時から夜の九時まで。途中昼食や夕食をとるために防音室を出ることはあるけれども、昼食については食べるのを忘れる日もあった。日本を発つ二日前、お風呂に入ろうとする僕を妹が引き留めた。
「恵さんたちにはもう帰ってこないことは言ったの?」とアイスバーを片手にしながら尋ねられた。
「……言ってないよ」
「二人は知ってるの?」
「分からない」
妹は小さく溜息を吐いてから「伝えなくていいの?」と聞いてくる。
「幼馴染でしょ?」
「昔はそうだったかもしれないけど、今は違うよ。もう何年まともに喋ってないんだろ?多分、クラスメイト達よりも全然喋ってない。そんなのを幼馴染って言うのかなぁ?ご近所さんって言うならまだ分かるけど……」
僕のその言葉に妹は「そっか」とだけ言ってリビングへと戻ろうとした。
「ねぇ、菜々花。恵たちが僕たちと距離を置くようになったのなんでかな?」
妹は僕を一瞥してから「考えてみたら?」とだけ返して答えてくれなかった。
日本を発つ前日になって、オーケストラの公演から両親が帰ってきた。僕はすでに出立の準備は済ませているけれども、帰ってきたばかりの両親は当然準備ができていない。むしろ出張の後片付けも必要だろう。
「片付けは多恵子叔母さんに任せる」という父さん。父さんと母さんは一度叔母さんに直接深く深く頭を下げて感謝すべきだと思った。そうなるならせめて日付くらい変えればいいのにと思ったんだけど、コンクール前にいらぬトラブルに巻き込まれないようにと面倒を見たいとのこと。それなら片方だけでもいいんじゃないか?そしたら妹の面倒も叔母さんに押し付けなくて済むのに。
翌日朝早くから僕たちはドタバタしながら車のトランクにキャリーバックを載せていた。パスポートは持ったか?搭乗券は持ったか?と家の中は騒々しい。妹は騒々しい家の中で目をこすりながら僕を見送るため色々と手伝ってくれていた。最近そっけなくはなったけれどもなんだかんだ言って気を遣ってくれているのが分かる。思春期特有の距離感だと分かっているからこそ、恵たちとは違って寂しさを感じることはそんなになかった。
「さあ、行くか」と父さんが運転席に乗ろうとしたところで隣の家から一人の少女が首にタオルを巻きジャージ姿で現れた。佳奈だ。これからランニングに出るのが一目でわかった。騒々しい僕たちの姿を見て、対照的に寝間着姿のままの妹を見て、訝し気に「おはようございます」と小さく言う。それを見た母さんは明るい顔で、「おはようございます。これから走るの?」と社交辞令的に聞く。佳奈はコクリと頷くと「これから旅行ですか?」と聞いてきた。
「勇作、これからコンクールがあるのよ。ヨーロッパだから飛行機に乗らないといけなくてね。今から羽田空港に向かうの」
母さんの答えを聞いて、佳奈は驚いたように目を見開いた。まるで聞いてないとでも言うように。佳奈はしどろもどろになりながら何か言いたげだったけれど、飛行機の時間が迫っているので、僕たちはそんな彼女を待つわけにはいかなかった。
「それじゃ行ってくるわね」との母さんの言葉に「いってらっしゃい」としか返せない佳奈。そして僕たちは妹と佳奈を置いて羽田空港へと向かった。
道中、父さんから声をかけられる。
「漆原さんたちには言ってなかったのか?」
「うん」
「転校のことも?」
「うん」
「お世話になったんだから、ちゃんと言わなきゃダメだろ」
そう非難の声を向ける父さんだったが、「でも、最近の漆原さんの家、私たちへの挨拶が極端に減ってるじゃない。そっちの方がどうかと思うわよ」と母さんはフォローしてくれた。社交辞令的に佳奈に笑みを向けていたから気づかなかったけれども、見ているところは見ているのだと感じた。
「……本当にいいんだな?」
恵や佳奈への挨拶を済ませなかったことについて、父さんが確認をとる。
「いいよ。別に今生の別れじゃないから」
父さんは僕がそういうならとそれっきり恵たちの話題は出さなかった。
けれども、僕はなんとなく予感していた。多分二人とはもう会えなくなるんじゃないかと。やっぱり二人と最後に遊びに行けなかったことは心残りだった。




