12. 腐女子、笛の音に感涙する
光の降臨祭、それは光の精霊がこの世界に誕生したことを祝う、年に一度のお祭りだ。照の月の光の週の光の日に、この世界のあらゆる場所で開催される。五精霊の降臨祭はどれも民の種族に関わらず盛大に祝われるが、やはり光の精霊を祀る宮殿がある繋ぎ手の都は今回、特に力の入った催し物で溢れていた。午後には都の入り口から中央広場、そして宮殿に向かうパレードが予定され、その準備はすでに数か月前からなされている。
また大通りには伝導の館選りすぐりの絵描きによる、世界創造の過程が描かれた大きな石板が何日も前から立ち並び、その迫力は格別だ。こちらの絵も一枚一枚、違う絵描きの手によって描かれたものだというのに、先程立ち寄った店に並んでいたものとは異なり、見事なまでに画風が統一されていた。多少、癖やタッチの違いなどはあるのだろうが、俺のような素人にははっきり言って全くわからない。
トリーの絵も、英雄オルカをキャンバスに浮かび上がらせた繊細な筆遣いが嘘のように、大胆で勢いのある作品に仕上がっていた。もちろん、何日も野晒しになる石板に、遠くからでも何が描かれているのかわかる作品を注文されたわけだし、塗料も何もかも違うのだから当然かもしれないが、それでもすごい。
トリーの説明によれば、さっきの店に飾られていた絵描きの多くも、この大通りの絵を手掛けているらしい。あれほどまでに異なる、各々の強烈な個性を封印し、一つの大きな作品の一部として、個々を完璧に機能させるその手腕が、本当に素晴らしい。プロフェッショナルとは、まさにこういうことを言うのだろう。俺は感嘆の声を上げながら、友人たちと大通りを歩いた。
都の入り口から中央広場に向かって、無から風が生まれる瞬間、光と闇の誕生、そして光と闇がぶつかって星の雨ができるまでの過程が、まるで見てきたかのように詳細に描かれている。順番に絵が並んでいるので、大通りをこうして歩くだけで、何だか映画でも見ているような気分だ。中央広場から光の宮殿へ向かう道程では、さらに五精霊の誕生や、それぞれの島が創られ、世界が形作られていく様が描かれているが、取り敢えず俺たちは中央広場で足を止めた。
広場の真ん中には大きな舞台が設置され、その前には有料の客席が並んでいたけれど、そこは早くも満杯だった。もちろん、無料の立見席もあるが、どこも人で溢れかえっている。俺たちが中央広場に着いたときはすでに、語り部が舞台で面白おかしく伝説を披露しており、ものすごく盛り上がっていた。
と、演者の入れ替わりと同時に、立見席から何人かの客が移動したので、俺たちは運よくそこに潜り込むことができた。端のほうだが有料席に近いので、背の低い俺でも舞台を見渡せる。クルスとギュスターが素早く空間を確保し、リアムがさりげなく一番いい場所を俺に譲ってくれたおかげだ。トリーは立見席の最後列でエクトルに肩車してもらっているので、最初から特等席確定である。その後、歌い手や、役者数人による寸劇などが次々に披露され、拍手喝さいの中、彼らは舞台から退場していった。
が、その流れがふと断ち切れた。大抵は入れ替わるように、すぐ次の演者が舞台に登場するのだが、何故か誰も出てこない。司会の者も何も言わない。実際には大した時間ではないはずだが、矢継ぎ早に演目がこなされるのに慣れていた客たちが、空白の舞台に少しだけざわつき始めたとき、それが聞こえた。
天から精霊が舞い降りる前触れだと誰かに囁かれたら、きっと信じてしまっただろう。それほどまでに美しく、切なく、しめやかで、そのくせどこか煌びやかで、風と共に光が舞うのが目に見えるかのように、その音色が辺り一帯に広がり、五感すら支配していくのがわかった。蕾が綻ぶ瞬間に花弁からこぼれる甘やかな香り、雨の雫が鮮やかな緑の葉の上で弾ける音、瑞々しい匂い、絹のように柔らかく、滑らかで、温かい響き。まるで炭酸水でも飲み干したかのように、体の中に清涼感と心地よい刺激が染みわたる。優しくて、懐かしくて、どこか淋しい。あらゆる感情が緩やかに融け、混じり合い、手のひらから溢れる。俺という存在と一体となったこの世界が、最後、大きく揺らぎ、ハッと我に返った。
風が、勢いよく頬をなぶって、通り過ぎる。
気がつくと、目の前の舞台には唇から笛を離したばかりのラチカが立っていた。
「……おい、泣くなよ。感動しすぎだろ」
リアムの言葉で、俺は初めて自分の頬が濡れていることに気がついた。けれどそう指摘したリアム自身も、どこか圧倒されたように放心した面持ちだ。恐らく、他の聴衆も同じように感じていたのだろう。不意に盛大な拍手と歓声が沸き起こり、それまで広場が静まり返っていたことをようやく知った。
何だか夢でも見ていたような気分だ。ラチカの奏でる笛の音が終わると同時に、俺は現実に帰ってきた。帰ってきた……はずだ。それなのに、どこか足元がふわふわして、妙に現実感がない。ラチカの演奏は何度も耳にしているのに、こんなことは初めてだ。リアムの言う通り、あまりにも素晴らしい演奏に感動しすぎただけなのか?
顔を上げると、ちょうど舞台上のラチカと目が合った。興奮冷めやらぬ観客の讃辞に笑顔で応えているものの、何だかひどく顔色が悪い。俺は突然、寒気にも似た不安を覚えた。怖い。今すぐラチカのところに行かないと、まるで二度と逢えなくなるような。
胸騒ぎにいてもたってもいられず、俺は後ろに立っていた観客たちを掻き分けると、立見席から抜け出し、舞台裏を覆っている天幕のほうへと向かった。
「ちょっ……おい、待てって!」
天幕の入り口に手をかけたところで、慌てて後を追ってきたリアムが俺の腕をつかみ、引き止めた。俺は咄嗟にリアムの腕をつかみ返し、護身術の技をかけようとしたが、リアムはすぐにその手を外すと、反対に俺を拘束した。完全に関節を抑えられている。抵抗しようにも、さすがにこれは動けない。ギリッと唇を噛んだ俺に、リアムが静かに言う。
「あいつの演奏が何かすごかったのはわかるけど、ちょっと待て」
「そうだぞ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
「一応館の見習い候補で、演者の知り合いでも、いきなり入るのはまずい。わかるだろ? シルヴァ」
クルスとギュスターの諭すような声音に、俺はようやく瞬きを一つし、そっと息を吐きだした。俺の体から力が抜けたのを知ると、リアムは俺の動向に注意しながらも、少しだけ拘束を緩めてくれた。
「少しは落ち着いたか?」
「……ああ、悪い。もう大丈……」
瞬間、目の前の天幕が開き、俺が今一番逢いたい人の姿が現れた。安堵の余り、体中の力が一気に抜けそうになる。俺がその場で座り込まずにすんだのは、奇しくもリアムの拘束のおかげだ。
が、そんな事情を知る由もないラチカは、天幕の入り口の前でリアムに拘束されている俺を見ると、呆れたように深々と嘆息した。
「やっぱお前らか。こんなとこで何やってんだ?」
「いや、それは、えっと……」
しどろもどろに口を開きながら、俺はできるだけさりげなくラチカの様子を注視した。近くで見ると、思ったよりラチカの顔色は悪くない。さっきのは俺の気のせい、もしくは舞台の上で緊張していたからか?
リアムは俺がちゃんと一人で立てるか確かめるように、ゆっくりと拘束を解くと、肩を竦めて言った。
「何か、どっかの誰かさんの演奏が思ったよりすごかったから、興奮したんだろ」
度重なるリアムのフォローに感激し、俺は思わずぐっと拳を握り締めた。リアムは、そしてクルスとギュスターも、さっきの俺の様子がどこか尋常ではなかったことに気づいているはずだ。けれど今は追及せず、何事もなかったように振舞ってくれている。恐らく先程の行動に、俺自身も戸惑っているところまで見越してのことだろう。俺は心密かに感謝した。
ラチカはさっきまでリアムに拘束されていた俺をちらりと見たものの、すぐにどうでも良さそうに口を開いた。
「……そうかよ。それよりさっさとそこから離れろ。出入りの邪魔だ」
俺たちはラチカに半ば追い払われるように、天幕の入り口から離れた。
「でもまあ、さっきの演奏は確かにすごかった。な、シルヴァ?」
「真っ先にそれをラチカに伝えたかったんだよな」
「あ……ああ、うん。そうなんだよ。ホント、すごくて、それで……」
クルスとギュスターの言葉に頷き、ラチカに感想を伝えようとしたけれど、何だか思い出しただけで喉が詰まり、涙が溢れそうになる。せっかくの皆のアシストにも応えられないとは、我ながら不甲斐ない。が、唇をぎゅっと噛み締めることしかできなかった俺は、次の瞬間、どこか懐かしい匂いのする胸に顔を埋めていた。ああ……安心する。すでに何度も慰めてもらったことのあるその胸で、しばらく気持ちを落ち着かせてもらったあと、俺はゆっくりと顔を上げた。
「……すみません、ラチカ。もう大丈夫です。いつもありがとうございます」
せっかく冷静さを取り戻したはずなのに、俺の晴れやかな笑顔を見ると、ラチカは何故か少し不機嫌そうな面持ちになった。だが、改めてこの至近距離から確認すると、ラチカの顔色はさっきより明らかに良くなっている。俺はほっとしてラチカから一歩離れると、肩掛け鞄の中から小さな木箱を取り出し、ラチカに向かって差し出した。
「何ていうか……これは、その、ささやかなお祝いです。俺とリアムとクルスとギュスター、みんなで作りました。トリーには材料を工面してもらって、エクトルとトピアスにはこの木箱の用意をするのに協力してもらったんですよ。気に入ってもらえるかわからないんですけど、少なくともラチカの初仕事の記念になったらいいな、と思いまして……」
いつの間にか合流していたトリーたち三人にも目をやりながら、俺は言った。
ラチカは一瞬、ひどく呆けた顔で俺を見たものの、やがておずおずと手を伸ばし、その小さな木箱を受け取った。ほんの少し、躊躇うように木箱の蓋に指を滑らせ、それから意を決したように開けた。
「……これは……鳥か?」
「はい! よかった……ちゃんとわかってもらえて」
木箱の中には緩衝材として乾燥した植物の茎が敷き詰められており、その真ん中に小さな折り鶴のペンダントが入っていた。この世界には安価な折り紙などないので、日常的に画材に触れることができるトリーから貴重な紙を少しだけ分けてもらった。そして鶴の形に折ったあと、透明な塗料で表面をコーティングして補強し、細い革ひもを取り付けてペンダントにした。
と一言で説明すると如何にも簡単だが、そもそも鶴の折り方がすぐには思い出せず、ハンカチを使って散々試行錯誤し、結構な時間を費やした。そして実際に貴重な紙で慎重に小さな折り鶴を完成させたあとも、慣れない塗料を扱うのに四苦八苦したりと、不器用な俺としてはかなり苦労して仕上げた一品だ。
ちなみにリアムとクルスとギュスターには木箱を作ってもらったり、緩衝材に使う植物の収集なども手伝ってもらったが、実はそれ以外のことで本当にたくさん助けてもらった。ちょっとこう、革ひもを編むのに端を持っててもらったりとか、俺が貴重な塗料をうっかりこぼしそうになったのを全力で防いでくれたりだとか、……まあ、いろいろだ。
もっとも、完成品は奇跡的にそんな苦労の欠片も残さず、店に並べても恥ずかしくないほど綺麗に仕上がっていたはず。が、それを目にしたラチカがいつまでも無反応のまま固まっているのに気づき、俺は不安に駆られた。
「えっと……その、手作りのペンダントとか、ちょっと子供っぽかったですかね。それか、やっぱモチーフが少し可愛すぎましたよね……?」
花柄の千代紙などではなく、単色だから気にならないかと思ったが、そもそも折り鶴のアクセサリーは女性向けだったしなぁ。一応この世界の同年代男子の意見として、リアムとクルスとギュスターにも事前にハンカチ製の折り鶴を見せ、特に問題なさそうだったから採用したんだが、やはり別のものにしたほうがよかったかもしれない。
微妙な反応をされる可能性も最初から頭の隅にはあったのに、それでも折り鶴に拘ってしまったのは、少なくともこの世界では俺だけが作れるものだったからだ。単なる俺のエゴだとわかってはいたけれど、せっかくなので少しでも特別なものを用意したかった。しかし致命的なことに、いくら美少年アバターを装着していても、発想は腐女子のままなので、はっきり言ってリアルの男子諸君が欲しがるものとか、今でもよくわからない。
しおしおと肩を落としかけた俺に気づくと、ラチカは我に返ったように顔を上げた。
「ち……違う! そうじゃ、なくて……」
「……なくて?」
俺の不安げな眼差しとぶつかると、ラチカはまるで攻撃でも食らったかのようにうっと呻き、やがて降参したようにため息をついた。
「すごく……びっくりしただけだ。こんなふうに、誰かに祝ってもらったことなんてなかったから。それに……こんなの初めて見た。本当に、綺麗で、俺がもらっていいのかって、思って……」
ラチカの言葉の真意を確かめるようにまじまじと見つめたあと、俺は問った。
「……俺たちからのお祝い、喜んでもらえましたか?」
ラチカはうつむいた顔を僅かに染めたものの、観念したように言った。
「ああ。すごく嬉しかった。本当にありがとうな、シルヴァ。……それから、リアム、クルス、ギュスター、お前らも。トリー、それにエクトルとトピアスも、ありがとうございます」
ようやく顔を上げ、己を囲む仲間一人一人と目を合わせると、ラチカは笑みを見せてくれた。
「よかった! それじゃあ、ちょっとだけ首にかけてもらってもいいですか? あまり丈夫な素材ではないので、ずっと身に着けているとすぐ壊れちゃうかもしれないんですけど、一応ペンダントなので、今だけでも首にかけてみて欲しいなって思って」
「あ、ああ。わかった」
慎重な手つきで革ひもを手に取ると、ラチカは折り鶴のペンダントを首にかけてくれた。その姿を目にした瞬間、俺は思わず両手を打ち、はしゃいだ声を上げてしまった。
「わあ! よく似合ってます! ラチカはやっぱり紫色が似合いますよね!」
「そ、そうか?」
照れる……というよりも、腑に落ちないといった面持ちで、ラチカは自分の胸元で揺れる紫色の折り鶴を眺めた。俺はちょっと躊躇ったものの、正直に話すことにした。
「えーっと、本当はラチカの好きな色を聞こうか迷ったんですけど、結局、誰にも相談せず、勝手に俺の好きな色にしちゃいました! 紙を折る前に、色を塗ってもらえるようトリーにお願いしたんですけど、俺が説明したとおりの綺麗な紫色にしてくれて! ねっ、トリー!」
「……まあ、一応それが私の本職だし、依頼主の要望に応えるのは当然なの」
心なしか得意げなトリーにうんうんと大きく頷き、俺は続けた。
「でも、もともとラチカは紫のイメージだったので、ちょうどいいかなって。ただ、あの、今更ですけど、ラチカは何色が好きだったんですか?」
ラチカは虚を突かれたような面持ちになったあと、目を伏せ、呟くように言った。
「……好きな色なんて、考えたこともなかったな。でも……」
「……でも?」
一瞬、折り鶴を見ているラチカの目がとても優しくなった。
「……まあ、この紫色は好きかもしれない。見た瞬間、綺麗だって思った、し……」
「よかった! じゃあ、今度からラチカに贈り物をするときは、また紫色のものにしますね!」
「え、ちょ、今度からって、お前……」
「いや、もちろん物にもよりますけどね! 心配しなくても、変なものは贈らないよう気を付けます」
そしてちょっとだけ、心を落ち着かせるように息を吸い、俺は改めて口を開いた。
「……それから、ラチカの演奏、本当にすごかったです。俺は今日、この時、ここにいることができて本当に良かった。ラチカのおかげです」
「それは、あの……礼を言うのは俺のほうだろ。シルヴァ、お前がいてくれて本当に良かった。ありがとう。リアム、クルス、ギュスターも」
そして改めてトリーとエクトルとトピアスに目をやり、ラチカは右手を胸に当てた。
「トリー、それからエクトルとトピアスも、演奏を聞きに来てくれてありがとうございます」
ふんと軽く鼻を鳴らし、トリーは肩を竦めてみせた。
「別に礼を言われることなんてないの。広場での催しはお祭りの良し悪しに大きく関わるし、ひいては館の評価にも作用しかねないの。一応、客の反応がどんな感じか、様子を見に来ただけなの」
相変わらずトリーはツンツンと答えたが、己の左右にいるエクトルとトピアスが笑いを堪えているのに気づくと頬を染め、如何にも取ってつけたように付け加えた。
「ま……まあ、でも、お前の演奏は悪くなかったの。ちょっとだけ、見直したの」
「ありがとうございます。トリー」
穏やかに礼を口にしたラチカを見ると、トリーは少し毒気が抜かれたように目を見開いた。それから嘆息するように言う。
「まったく……この短期間で、お前も随分と変わったの。お前が研修に行く少し前、一人で練習してるのを耳にしたことがあったけど、その時はもっと音が刺々しかったの。確かに技術的にはすごかったけど、今とはまるで別人なの」
「へえ、心境の変化ってヤツですかね。ラチカ、研修中に何かあったんですか?」
ひょいと俺が横から口を出した途端、一斉に仲間たちから何とも言えない眼差しが突き刺さった。反対に、最近トリーとの距離感で俺に厳しい目を向けていたエクトルとトピアスから、妙に生温かい眼差しが送られてきたのに気づき、俺としては戸惑いを隠せなかった。
「えっと、あの……何かごめん。俺みたいな子供が口を挟むようなことじゃなかった……のかな?」
仲間たちからの視線がさらに険しさを増し、俺が思わずじりっと後ずさりしかけたとき、トピアスがへらっと笑って言った。
「なるほど、なるほど。つまり君は天然というわけだね」
「そう……なんですか?」
その如何にも優しげな微笑みに気圧されつつも、俺は何とか踏みとどまった。
が、その俺の顔をぐいと覗き込むと、トピアスは糸目を開眼して低く唸った。
「いくら天然だからって、二度と、うちの大事なお嬢に手を出すなよ。わかったか。この、痛ぁっ……!」
不意にトピアスが飛び上がり、背中を抑えて悶絶した。と、すぐに涙目でトリーを睨む。どうやらトリーが背後から静電気を盛大に食らわせたらしい。
「トリー、そりゃないぜ。俺はお前のためを思ってだな……」
「余計なお世話なの! まったく!」
トリーはプリプリと怒りながら言い放つと、突然、俺たちのほうに向かって言った。
「私たちはちょっと他のところを見てくるの。午後のパレードが始まる頃、またこの広場で落ち合うの」
「え、ああ、はい。しばらく別行動するんですね。じゃあ、またあとで」
何やらよくわからないうちに、トリーはエクトルとトピアスを引き連れ、あっという間に雑踏に紛れて消えた。どういうことなんだ。最近、俺の周りは情緒不安定な者が急増している気がしてならない。季節的なものなのか? 確かにこの繋ぎ手の島で過ごす光の季節は、時々眩暈がしそうなほど暑くてたまらないが。
額の汗を拭いながら、これからどうするかリアムたちに尋ねようとした俺は、再びラチカの顔色が悪くなっていることに気づき、慌てて駆け寄った。
「ラチカ! 大丈夫ですか?」
「……ああ、いや、大丈夫だ。多分、ちょっと、この暑さにやられただけで、大したことは……」
言葉とは裏腹に、足元をふらつかせたラチカを、近くにいたリアムが素早く支えた。
「……ったく、これのどこが大丈夫なんだよ。自己管理くらいちゃんとしろ。緊張のし過ぎか? 見習いは人前で演奏する機会が増えるのに、こんなんでやっていけるのかよ」
「はあ? そんなんじゃねえし。一人で立てる。その手を放せ……」
「ああ? 俺だって好きで支えてるわけじゃねえ! 人の親切に難癖つけやがって。大体、てめえがふらふらしてんのが悪いんだろうが!」
「んだとぉ?」
具合が悪いにもかかわらず、わちゃわちゃと揉めているラチカとリアムの様子に嘆息し、俺は言った。
「ハイハイ。思ったより元気そうで何よりですが、取り敢えずどこかで休みましょう。クルス、ギュスター、できるだけ近くで、涼しくて静かな場所に行きたいんだが、どこか心当たりはないか?」
人混みの熱気と喧騒に包まれた辺りを見回し、俺は友人たちに知恵を求めた。祭りの中心地であるこの広場は、元気な時なら楽しいが、活気に溢れすぎていて具合が悪い者には辛いはずだ。それに俺はこの都についてよく知らない。クルスとギュスターもそれほど土地勘があるわけではないはずだが、少なくともラチカの体調不良に何故かひどく動揺している今の俺よりは、ずっと冷静だ。
クルスとギュスターはちょっと首を傾げると、互いに目を合わせ、すぐ口を開いた。
「このあと演奏の予定がないのなら、一度館に戻ったほうがいいかもしれない」
「この辺りは午後のパレードが目的の客で、さらに人が増えるはずだ」
「館も普段より人が多いだろうけど、解放されているのは導きの塔だけだしな。俺たちが普段生活している伝えの塔は、むしろいつもより人も少なくて静かだと思う」
「裏門から中庭に入ればいい。少し遠回りになるけど、正門に向かう道よりも多分空いてる。そのほうが医務室も近いし、途中に木陰もある」
「おお! さすが! やっぱクルスとギュスターは頼りになるな! ルートまですぐに思いつくなんて、本当にすごいな!」
俺が感嘆の声を上げると、クルスとギュスターは満更でもない面持ちで照れた。
「いや、まあ……」
「それほどでも、あるけど」
俺のたった一言でとても嬉しそうな顔になったクルスとギュスターを目にし、何だか胸が暖かくなるのを感じた。俺は今生になって、本当にいい友人たちに恵まれた。これからも大切にしないとな。
「クルス、ギュスター、ありがとう。それじゃあ、取り敢えず館に戻って……」
「シルヴァ。俺たちはここに残るよ。多分、午後のパレードまでには戻れないだろ。トリーたちを探して、ラチカを館に連れて行ったことを伝えとく。さっきも具合が悪そうだったことはみんな知ってるしな」
「あっ、そうか。そうだな」
ギュスターに言われ、俺は自分の頭がいつもより回っていないことにようやく気づいた。想像以上に俺の動揺は重症のようだ。
「トリーたちと合流したら、俺たちも館に向かうよ。あとのことは館で相談すればいい」
「わかった。それじゃ、またあとで」
クルスとギュスターに手を振り、ラチカに肩を貸しているリアムと共に歩き出そうとした俺は、再びギュスターの声に立ち止まった。
「あ、そうだ! 何か奢ってやるって約束だったろ? 館に行く途中で買ってってやるよ。何がいい?」
すっかり忘れていたが、そんな話もあったっけ。俺はパッと笑顔になると、悪戯っぽく言った。
「二人に任せるよ! 俺が好きそうなもの、お前らならわかるだろ?」
「うわ、無茶ぶり来た!」
「いいぜ! 楽しみに待ってろ!」
改めて二人に手を振り、俺が歩き出したところで、不意にクルスがリアムのそばに寄ると、何か小さく耳打ちした。リアムはひどく驚いた顔でクルスを見たものの、すぐにラチカに肩を貸したまま歩き出した。
「おい、シルヴァ。さっさと行くぞ。こいつ、さっきより顔色が悪い」
「あ、わかった!」
俺に隠し事なんて珍しい。クルスとリアムのやり取りが気にならないと言ったら嘘になるが、今はそれどころではないし、そもそも友人であっても隠し事の一つや二つあって当然だ。何かあれば向こうから言ってくるだろう。俺は特に詮索することもなく、リアムとラチカに追いつき、周囲に気をつけながら館へと向かったのだった。
*
賑やかな中央広場を抜け、露店が並ぶ雑踏を通り過ぎると、俺たちは人気の少ない住宅地へと足を踏み入れた。ごちゃごちゃと小さな家が立ち並び、恐らく普段は生活音などで溢れているのだろうが、今は皆お祭りで出払っているようだ。遠くから祭りの喧騒が伝わってくるばかりで、この辺りはとても静かだった。
人がほとんどいないおかげで、脂汗を掻きながら辛そうに一歩一歩足を運んでいるラチカと、その遅々とした歩みに合わせて肩を貸しているリアムがのろのろと移動していても、気兼ねなく狭い道幅を占拠していられる。俺は体格的にもラチカを支えるのはあまり向いていなかったので、せめて最短距離で館に着けるよう、少しだけ道を先行して歩いていた。
実のところ、俺は多少方向音痴だったりするのだが、都のどこにいても二つの高い塔が見えるので、館の方角は常にわかるし、たまに人がいたときには道順を確かめながら進んでいたので、少なくとも二人に無駄な体力を使わせずにすんではいた。
しばらくして雑多な住宅地を抜けると、質素だが少し大きな建物が立ち並ぶ区域に出た。さっき通りすがりの人に聞いたところによると、この辺りにあるのは館に関わる工房であるらしい。竪琴や笛など様々な楽器の制作修理、絵の具の調合やキャンバスの作成、役者の衣装、大道具から小道具まで舞台に関わるものを一手に扱うところなど、他にも数えきれないほど多くのありとあらゆる工房が、この一帯には揃っているという。ちなみに館で見習いになれなかった対価労働者たちの一部も、ここで働いたあとそのまま就職することがあるそうだ。
いろいろと興味深いが、さすがに今日ばかりはどこの工房もお休みのようで、住宅地よりさらに静まり返っている。しかしここを抜ければ館の裏門はすぐそこだ。角を曲がり、道の先に館を取り囲む高い塀が目に入ると、俺たちは大きく安堵の息をついた。
が、ゴールは目前というところで、不意にリアムが立ち止まった。ひどく真剣な表情で俺の顔を見つめ、言った。
「……悪い、シルヴァ。ちょっとラチカと一緒に先に行っててくれないか」
「あ、ちょっと休むか? 俺のほうこそずっとリアムに頼りきりでごめん。すぐ交代するよ」
「いや、そうじゃなくて」
実際、俺も何度か交代は申し出たのだが、そのたびにリアムに断られていたのは確かだ。それにリアムは面倒臭そうな顔を作ってはいるものの、体力的には大丈夫そうだったので、俺もついそれに甘えてしまっていた。現に今も、あまり疲れた様子はない。むしろ何か思いつめたようなその表情は、何か別の理由がありそうだ。
と、俺が思ったとき、近くの工房の陰から人影が現れ、こちらにやって来るのが見えた。リアムと同じ年頃の、身なりの良い闇の民の少年だ。緊張した面持ちで、毅然とした足取りだが、どこか気弱そうな雰囲気も漂わせている。足音もなく、リアムは背を向けていたにもかかわらず、その人物が姿を現した途端、まるで見えているかのように苦虫を噛み潰した面持ちになった。そして彼が背後で立ち止まると同時に、チッと盛大な舌打ちをした。
「……わざわざ今、ここに出てくることなかっただろーが。相変わらずホント最悪だな、お前」
「いや……僕はそんなつもりは……本当にすまない。ただ、僕は君と少し話をしたくて……」
「わかったから少し黙ってろ! ずっと後をつけていたくせに、俺がこいつらを行かせるまで、あとほんのちょっと待てなかったのか? 俺の言葉も、てめえなら聞こえてたはずだろーが! どうしてこいつらがまだいるのに出てくんだよ! てめえはいつもいつも俺をイラつかせるが、それはわざとなのか? 俺に対する嫌がらせか? ああ? どうなんだ!」
振り向きざま獰猛に噛みついたリアムに、闇の民の少年はひどくショックを受けたように青ざめた。
「ごめん! 本当にそんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりなんだ! 俺がてめえをこいつらに紹介したいと思うわけねえだろーが! 何であとちょっと黙って隠れてらんねえんだよ! このクソが!」
「本当にごめん! ただ、僕は……」
「てめえ……!」
再び罵詈雑言を浴びせようとしたリアムの拳に、俺はそっと自分の手を重ねた。リアムはハッと我に返ったように俺の顔を見たあと、バツが悪そうに、少しずつずり落ちかけていたラチカの体を肩に背負い直した。
「……悪い、シルヴァ。けど……」
うつむき、呟くように口を開いたリアムの肩を軽く叩き、俺は優しく言った。
「事情は聞かない。今はな。リアムが俺に話したいと思うまで、俺はいつまでも待ってるよ。だから気にするな」
「っ…………!」
どこか泣き出しそうな顔を上げたリアムに小さく頷き、俺は微笑んだ。
「館まであとちょっとだし、俺一人でもラチカは大丈夫だ。急がなくていいから、そっちの話が終わったらリアムも医務室に来てくれ。な?」
「……わかった。……シルヴァ、その……」
様々な感情がせめぎ合っているような面持ちのリアムに、俺はにっと笑ってみせた。
「俺もさっきはリアムにいろいろ助けてもらったからな。お互い様だ」
「……おう。ありがとな」
ほんの少しではあるが、ほっとしたように唇を緩めたリアムからラチカの体を預かると、俺はどこか呆気にとられた様子の少年に軽く会釈をした。
「じゃ、リアム。またあとでな」
リアムと闇の民の少年に背を向け、俺はラチカと共に館に向かってよろよろと歩き出した。しばらくしてそっと振り返ってみたが、その時にはすでに二人の姿はどこにもなかった。恐らく近くの工房の角を曲がり、俺たちに話が聞こえないところまで場所を移したのだろう。
そのまま前を向き、何事もなかったように歩き出したつもりだったけれど、さすがにそうはいかなかったようで、ラチカが荒い息をつきながら口を開いた。
「……さっき、クルスが……」
「ああ、リアムに何か耳打ちしていましたね」
「……『シメオンを見た。さっき、でも確実じゃない』……そう言ってた」
「なるほど。では、彼がそのシメオンかもしれませんね。剣士の館にいたときの知り合いでしょうか。身なりもよかったし、あそこは他の館と違って、基本貴族のみ、しかも男子しか入れませんしね」
「……それに、さっきの奴は短剣と長剣、両方、腰に差していた。剣士の館は、大体、十になる頃に入るらしいが、三年目にようやく短剣の所持を許される。長剣を帯びてもいいのは、四年目からだ」
「ああ……言われてみれば、リアムたち三人はいつも短剣しか身に着けていませんね。四年目に進級する前に剣士の館を辞めたんでしたっけ。となると、さっきの彼はやっぱり元同期って感じですか。それにしても、ラチカは随分、剣士の館について詳しいんですね」
「闇の都を二年もうろついていれば、それくらいのことは嫌でも耳に入ってくる。授業がない風の日は、奴らが館からぞろぞろ出てきて、大声で話をして飲み食いし、気前よく都に金を落としていくからな」
「おお、そのような経済効果があるんですね……俺たちと違って」
そう、風の日はこの世界における日曜日のようなもので、多くの人にとっては休日であることが多い。俺の村でも仕事や学び舎は休みだった。もちろん母のような医者は急患が出ればすぐに出動していたが、何事もなければ診療所だって閉めていた。
ただし、観光地でもあるこの光の都には、基本的に休日などない。店は毎日開いているし、劇場の公演もまたしかりだ。シフトを組んだり、個々に定休日を作ったりはしているだろうが、都中の機能が一斉に止まることはまずないはずだ。
そしていわゆる公的機関であるこの伝導の館も、俺たち見習い候補の授業は休みだが、伝導師には別の仕事がある。導きの塔の一階は大きなホールになっていて、そこでは毎日様々な伝導師による公演が一般公開されているのだ。一応入場料は必要だが、良い席に拘らなければ、庶民でも手が届く値段になっている。もちろん常に満席だ。
つまり剣士の館同様、伝導の館でも見習い候補は休みだし、ちゃんと外出届を出せば、俺たちも風の日に都に遊びに行くことはできる。が、恐らく経済効果は見込めない。何故ならリアムたちのような有料コースの貴族はごく少数だし、俺のような無料コースの者は所持金がない。
もちろん煌びやかな都の様子を見て回るのは楽しいし、路面で披露されている演奏などは、腕に巻き付けた革のバンドを見せ、刻印された館の紋章を示せば、おひねりを免除される。こちらとしては後々のためのコネクション作りにもなるし、演者としても観客の数が多いほうが見栄えもいい。盛況なほうが、おひねりをくれる客も寄ってくる。
とまあ、双方にとって意味はあるのだが、残念ながら俺はほとんど館から外出したことがない。何故なら館に入ってすぐの一か月余は、リアムたちの謝罪行脚に明け暮れて忙しかったし、それがやっと終わったと思ったら、今度は中庭修復で外出どころではなかった。しかしラチカも見習いに昇格したことだし、これからは都でラチカの演奏が聴ける機会も増えるだろう。それにはできるだけ足を運びたい。
「まあ、俺には落とす金はありませんけど、これでも一応将来有望な歌い手の一人ですからね。ラチカが都で演奏するときは、コネを作りに行きますよ」
「……そうかよ」
そんな必要ないだろうとか言われると思っていたので少し意外だったが、見上げた先にあるラチカの頬が僅かに染まっているのを目にし、俺は唇が緩むのを感じた。
と、その視線を感じたのか、ラチカは俺の顔をちらりと見ると、チッと舌打ちした。
「おい、にやけてんじゃねえぞ」
「えええ、そんなことありませんよ。ラチカの気のせいじゃないですか?」
「そんなわけあるか! 滅茶苦茶にやにやしやがって!」
ふと、ラチカの血色がよくなっていることに気づき、俺は瞬きを一つした。
「……っていうかラチカ、随分威勢がいいですけど、具合は大丈夫ですか?」
「ん? ……ああ、そういや何か体が楽になってるな。さっきまで世界が揺らいでいたのに……」
そう呟きながら俺から手を離し、一人で立とうとしたラチカは、けれど再び足元をふらつかせた。俺は慌ててラチカの体を支え直し、言った。
「ちょっ……勝手に手を離さないでくださいよ。さっきリアムが体勢を上手く整えてくれたんですから」
背の高いラチカを体格差のある俺が支えると、双方にかかる負担が大きい。それでも手を添える場所などをリアムが的確に指示してくれたので、短い距離ではあるが、何とか歩みを進められたのだ。
ラチカもすぐに一人ではまだ歩けないと判断したのか、先程と同じ位置に手を置いた。眩暈でもしているのか、少し顔が青ざめ、軽く目を閉じている。
「……悪い。ちょっと油断した」
「いえ、それは俺も同じです。取り敢えず、大丈夫そうでも医務室まではこの体勢で行きましょう。そのほうが安心です。ラチカが途中で倒れたら、俺一人ではどうにもできませんし」
「……そうだな」
しばらくしてラチカが目を開け、小さく頷いたのを合図に、俺たちは再び館に向かってゆっくりと歩き出した。間もなく館を取り囲む塀に辿り着き、ラチカを見上げると、思ったより回復が早いようで、僅かだが血色が戻っていた。俺の視線に気づくと、ラチカは腑に落ちない面持ちで呟いた。
「……何でかな。お前に触れていると治るんだよな。体がだるいのも、世界が揺れるのも」
「………………へえ、そうなんですね」
………………これは新手の告白ってヤツなのか? でも、具合が悪いのはどう見ても嘘じゃない。リアムに支えられているときより、俺と歩き出してからのほうがラチカの体調が良さそうなのも事実だ。けど、俺に治癒能力のようなものはないし、そもそも何も特別なことはしていない。病は気から、というのも一つの真理ではあるだろうが、そう簡単に病状が悪化したり回復したりするものでもないしな。
返答に困り、俺が何とも言えない面持ちになると、ラチカは己の言葉が意味深であることに気づいたらしく、パッと顔を赤くした。
「いや! 違うぞ! 別にそういう意味ではなくてだな……」
「大丈夫ですよ。ちゃんとわかってますから。多分、たまたま、俺と歩き出してから少し体調が良くなっただけでしょう。俺は母から医療技術も習っていませんし、そもそも今はラチカとこうして歩くのが精一杯で、空気中の水分すらまともに操れるかどうか」
「ああ……うん。……悪い」
「別に! ラチカを責めているわけではなくてですね! その……すみません」
「何でお前が謝るんだよ。そんな必要ないだろ」
「それは、まあ、そうなんですけど。今になって、母からもっとちゃんといろいろ教わっておけばよかったかなぁ、なんて思ってしまいまして。そしたら俺もただ動揺しているだけじゃなくて、ラチカに適切な処置なり何なり、できたかもしれないのにって……」
「シルヴァ……」
ラチカは驚いたように俺を見たあと、目を伏せ、呟くように言った。
「……そんなことねえよ。お前がいてくれるだけで、俺は今も十分助けられてる。それに、今までだって。だから、その……これからも、よろしく頼む」
その優しい声音の出どころがラチカであることを確かめるように目を見開いたあと、俺は思わず感嘆の声を上げた。
「おお……! ラチカがデレた! 何と貴重な!」
「はあ? そんなんじゃねえし! つーか、せっかく人が真面目に話してんのに、おちょくってんじゃねえぞ!」
ラチカがいつもの元気を取り戻しつつあるのに気づき、俺はにこにこしながら見上げた。
「おちょくってなんかいませんよ。ラチカが優しいのは最初からじゃないですか。でも、今みたいにたまにはちょっと素直になってくれるといいなぁ、なんて。今のは嬉しくて、つい口が滑っただけです」
「……そうかよ。つーか、お前はいつも口を滑らせてるじゃねーか」
「そうですか?」
「そうだよ。少しは自覚しろ。この天然」
俺は目をぱちくりさせてラチカを見た。
「それってどういう意味ですか? さっきもトピアスに言われましたけど」
きょとんとした俺を一瞥し、ラチカはチッと舌打ちした。
「俺が知るか。それくらい、てめえで考えろ」
「はあ……そうします」
あやふやな返事をした俺にじっとりした眼差しを向けつつも、ラチカはその話題を断ち切るように言った。
「それより、もうすぐ館の裏門に着く。ちゃんと前を見て歩け。転ぶぞ」
「あ、はい! 気をつけます」
轍に足を取られ、バランスを崩しそうになるのを、俺はラチカの一言で間一髪免れることができた。いやあ、危なかった。もうすっかり慣れたつもりだったが、かつて当然のように闊歩していた、アスファルトで舗装された道の何と平坦なことか。しかもこの繋ぎ手の島は乾燥しているから、風が吹くと土埃がすごいんだよな。
俺とラチカは何とか館の裏門まで辿り着くと、詰め所にいる警備員さんに腕の革バンドを見せた。これには伝導の館の紋章だけでなく、部屋の番号も刻印されている。いわば俺たちの身分証明書だ。警備員さんは革バンドの刻印を確かめると軽く頷き、裏門を通った証しである木札を二枚渡してくれた。外出の管理は表門の詰め所でしているので、あとでこの木札を持っていき、外出者のリストに帰還済みのチェックしてもらう必要があるのだ。
「おい、お前ら二人で大丈夫か? 誰か人を呼んで来てやろうか?」
心配そうに声をかけてくれた警備員さんに微笑み返し、俺は言った。
「ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫です。このまますぐ医務室に向かいますので」
「そうか。何かあったら声をかけてくれ。気を付けるんだぞ」
「はい! では、失礼します」
警備員さんに会釈すると、俺はラチカを支えながら中庭のほうへと歩き出した。塀沿いに角を曲がり、外仕事用の井戸の横を通り過ぎて中庭に入ったら、渡り廊下から伝えの塔まであと少しだ。医務室はもちろん一階だし、そう遠くない。今はラチカの体重もそんなにかかってないし、何とかなる。
俺は気合を入れ直し、ラチカと共に中庭に足を踏み入れた。周りの木々が、さわさわと落ち着きなく揺れる。一際大きな突風が、俺たちの背を押すように吹き抜けた。その勢いに思わずよろめいた、瞬間。
足元の地面が激しく揺れた。いや、揺れたなんてものじゃない。正直、その瞬間は何が起きたのかすら、全くわからなかった。まるで誰かに思い切り突き飛ばされたかのように、気がついたら俺は地面に倒れ伏していた。鼓膜が破れそうなほどの音が、空気をも衝撃波に変え、ビリビリと肌を刺す。圧迫感に胸を押しつぶされ、呼吸するのさえ苦しい。舞い上がった土埃が目に、鼻に、口に、否応なく入ってくる。耳の中まで砂に蹂躙され、気持ち悪いを通り越して、もはや痛い。
どれくらい地に伏したまま、その激しい振動に耐えていたのだろうか。しばらくして、俺は恐る恐る地面から顔を上げた。咳き込み、口に入った砂利を僅かな唾と共に吐き出し、薄目を開ける。なるべく目をこすらないよう気をつけながらも、何度も瞬きをし、顔の土埃を手で払う。軽く頭を振り、髪の、そして耳に入った砂を少しでも落とそうとした。
一体……何が起こっているんだ。いまだ舞い上がった土埃で周囲の様子が全く見えない。そういえば以前、ラチカが言っていた。この十年ほど、繋ぎ手の島では大きな地震がしょっちゅう起こっていると。俺が作った大きな虹を見たあとは一度もないと話していたが、原因がなくなったわけではなく、たまたま休息期間に入っていただけなのか? 今も揺れは完全には収束していない。息をするたびに肺に砂が溜まっていく気がする。先程と違ってゆったりと不安定なこの揺れ方は、酔いそうで気持ちが悪い。というか……。
「……ラチカ……?」
土埃で喉に引っかかった俺の声は、想像以上に頼りなく、かえって己の中の不安が膨れ上がるのを感じた。一気に血の気が引いていく。ラチカの演奏後に感じた胸騒ぎが、再び俺の中に蘇る。足元から冷たい霧が絡みついてくるように、恐怖が喉元まで這い上がってくる。さっきは根拠がなかったが、今は根拠しかない。心臓が鷲掴みにされたように痛む。
……ラチカはどこだ? 地震が起こる寸前まで、俺の肩に温かい手が触れていた。本当にすぐ横にいたのに! 視界が土埃で遮られているので、手探りで必死に地面を探るが、瓦礫のようなものに触れるばかりで、生き物の気配がない。心拍数が上昇する。呼吸が早く、浅くなっていくのがわかる。
ダメだ! 落ち着け! 自分の、体内の、水分を、コントロール、するんだ! そしたら、冷静に、物事を、判断、できる、よう、に……! ク……ソ……っ。
否応なく過呼吸になっていく自分の体を、俺は懸命に抱きしめた。涙が溢れて止まらない。息が苦しい。どうにもならない。どう、したら……っ。
と、不意に風が吹き、俺の視界を遮る土埃を払った。
「………………っ!!!」
瞬間、俺はふわりと温かい胸に抱きしめられていた。ああ……知っている。この優しくて、どこか懐かしい匂いは、俺の大切な人のものだ。瞬間、俺はどうしようもなく強張っていた体から、一気に力が抜けるのを感じた。もう、大丈夫。俺は大丈夫だ。
「……ラチカ……っ」
掠れた声でその名を呼びながら、俺は温かい体を抱きしめ返した。
「痛っ」
と、胸元に鋭いものが刺さるのを感じ、俺はせっかく再会したラチカから反射的に身を離した。原因はすぐに判明した。他でもない、この俺が先程贈った折り鶴のペンダントだ。透明な塗料でコーティングし、補強したのだが、想定以上に丈夫になってしまったようだ。
これはアクセサリーとして身につけるには、形状的にもちょっと危険なのでは? 転んだら鶴の尻尾が刺さって怪我をしかねない。下手をしたら製品事故として、クレームや訴訟に発展してもおかしくない事例ではないか。俺は慌てて謝った。
「ラチカ、すみません。痛かったですよね。怪我はしてませんか?」
「大丈夫だ。お前は?」
「平気です」
「ならいい。とにかく、今はここを離れるのが先決だ。この館は丈夫な石造りで、これまでの地震でも大きく崩れたことはない。だが、さっきみたいな揺れを経験したのは、俺も初めてだ。しかもまだ地震は続いている。これが何度も続けば、いつ塔が崩れてきてもおかしくない。できるだけひらけたところに行くぞ」
ラチカの冷静な言葉に、俺はハッと今の危機的状況を思い出した。もっとも、忘れていたというよりは、逃避的思考というのに近いだろうが。
「わかりました。でも、一体どこに行けば……」
「まず、裏門から出る。それから都の入り口とは反対の方向、砂漠が広がっているほうに行く」
それが意味することを瞬時に悟り、俺は小さく息を呑んだあと、唇を噛みしめた。だがこの非常時に、ただでさえ祭りで賑わっていた都の中心地に戻るのは、全くの愚策でしかない。素敵なもので溢れていた露店は間違いなく軒並み瓦礫と化し、食べ物を扱っていた場所ではすでに火の手が上がっているだろう。乾燥した繋ぎ手の島では、瞬く間に燃え広がるはずだ。
しかし、トリーにはエクトルとトピアスという頼もしい友人たちがついている。クルスとギュスターだって優秀な体術の使い手だし、状況判断も的確だ。その点についてはリアムは言わずもがなだし、仲は良くなさそうだったが、剣士の館にいたときの同期も恐らくまだそばにいるだろう。それに工房付近にいるのであれば、リアムたちとはそう遠くないうちに合流できるかもしれない。
あらゆる想いを呑み込むように拳をぐっと握り締め、俺は素早く頷いた。俺にできることは本当に少ない。ただ、みんなの無事をひたすら祈るだけだ。そして大切な友人たちと再び逢うためにも、まずは自分の身の安全を確保しなければ。
「裏門ですね。けど、土埃がひどくて周りが見えません。どうしますか?」
決然とした俺の眼差しから、ラチカは言外の決断をも俺が理解していると察したのだろう。そのうえで最善と思われる案に頷いたのだと。
ラチカは僅かに目を見開いたあと、すぐに淡々と口を開いた。
「……道は俺が切り開く。絶対に俺の手を離すな」
差し出されたラチカの手を、俺はしっかりと握り締めた。ラチカがその俺の手を強く握り返す。
瞬間、俺たちの視界を遮っていた土煙を、風が吹き飛ばした。少しの間だが、周囲の様子が見て取れる。高い塀の上部が所々崩れ落ち、近くにいた俺たちの周りにもその瓦礫が散らばっていた。この状況で二人とも大きな怪我をしなかったのは運がいい。そして少なくとも見える範囲では、今のところ館に大きな損傷はなさそうだ。しかし、できるだけ早くこの場から遠ざかるに越したことはない。
中庭から裏門までは、すでに崩れかけている高い塀と塔の間を通らなければならない。荷車が行き来できるくらいの道幅はあるが、裏門に向かっている途中でまた先程のような地震が来たら、逃げ場がない。恐らく塔より先に塀が崩れ、その下敷きになるのは確実だ。けれど、いつ塔が崩れてきてもおかしくない中庭にとどまることも、人で溢れ返った都へと続く表門に向かうこともできない。つまりどこにいても危険であることに変わりはないのだ。ならば、少しでもマシだと思える選択をするしかない。
「ラチカ、そういえば具合が悪いのは大丈夫ですか?」
「一応な。多分、俺の感覚と、外の状況がやっと一致したからだ」
「それはどういう……」
「いいから行くぞ。説明は後だ」
「あ、はい!」
周囲の状況を瞬時に確認し、落ちている瓦礫に気をつけながら、一気に裏門へと駆け抜ける。そのつもりだった。
しかし次の瞬間、再び地面が大きく振動した。が、さっきとは揺れ方が全く違う。これは……横揺れだ! 立って、いられない! もはや為す術もなく、その場に座り込みそうになった、その時。ラチカに思い切り胸を押され、俺は突き飛ばされた。しっかり握っていたはずのラチカの手が、俺から離れていくのが、何故かスローモーションのように目に映った。
っ……ラチカ………………!!!!!
塀が一気に崩れ、俺がいるはずだった場所に、瓦礫が降り注ぐ。ラチカの姿が、大きな石の塊と、土埃にまみれて、俺の視界から消える。激しい揺れ。恐らく建物が倒壊していく破壊音。導きの塔の最上階に設置されている鐘が、あたかも世界の終わりを告げるかのように鳴り響く。人々が発する阿鼻叫喚の声も、そこには含まれているかもしれない。
動けない。何も見えない。こうして地面に這いつくばっているのが精一杯で、ただただ苦しい。鼓膜が破れそうだ。立ち込める土埃で息ができない。体を揺さぶられ続けて、今にも吐きそうだ。怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い!!!!!
不意に、左の肩から腕にかけて、強烈な衝撃が加わった。焼けるように熱い。そして重い。もしかしたら、俺はしばらく気を失っていたのかもしれない。頭が朦朧とする。息を吸おうとしたら、激しく咳き込み、体中に響いた。喉がヒューヒュー鳴る。ドクドクと脈打つ鼓動の音が、異様にうるさい。起き上がれない。よく見たら、瓦礫が俺の上に載っていた。揺れは少しだけ収まっている。
今更焦っても仕方がない。俺は自分の体内の水分に意識を集中し、どんな状況か探った。恐らく左腕以外は打撲程度で、それほど問題はない。俺は何とか気力を振り絞り、左腕を潰した大きめの石を退かした。腕がぐにゃりと不自然に曲がる。痛みはそれほど感じない。多分、脳内麻薬が大量に分泌されているおかげだろう。先程までの恐怖すら、完全に麻痺している。
だが、これはきっと粉砕骨折だ。素人でも推測できる。左腕は、よくて切断。肩の骨も損傷しているし、この状況では衛生環境も整わない。医療従事者、医療器具、医薬品、何より清潔な水の深刻な不足。この灼熱の気候を鑑みても、切断面から化膿して、最終的に感染症などで死ぬ、といったところが俺の身に起こりうる妥当な結末だろうか。
そう遠くない死が見えていても妙に冷静なのは、俺にとってこれが二度目の経験だからではない。この期に及んで、実感していないからだ。きっと、理解した途端、取り乱す。とんでもない醜態を晒すだろう。俺はそれが何より恐ろしい。
俺は這うように、手探りで前に進んだ。最後にラチカを見たのは、確かこっちの方向だったはず。大して遠くない距離を、俺は息を切らしながらのろのろと移動した。さっきまでのラチカの気持ちを、こんな形で知ることになろうとは。
と、不意に俺の手に瓦礫ではない、何か柔らかいものが触れた。口の中はカラカラに渇き切っているのに、無意識に唾を呑み込むように喉が鳴った。最悪の事態はすでに想定済みだ。むしろあの状況で無事であるほうがおかしい。俺はラチカが瓦礫に呑まれる瞬間を目撃した。恐らく体のほとんどは潰れている。だが、瓦礫に埋もれているおかげで、俺はラチカの無残な姿の全貌を目にすることはないだろう。それが唯一の救いだ。
俺は今まで、激しく損壊した人体を見たことがない。遺体ですら、丁重に柩に納められ、体裁を整えられた状態でしか知らない。それも親しい人ではなく、ほんの短時間、数回のみ目にしただけだ。大切な存在、愛犬の死は看取ったことがあるけれど、病気だったし、その逝き方はとてもきれいなものだった。覚悟はしていても、この身が張り裂けるように悲しかったが、今のこの状況とは全く違う。
改めて、俺は覚悟を決めるように、ぐっと拳を握り締めた。静かに息を吐き、きつく閉じていた目を開ける。まだ断続的に揺れているせいで、土埃が常に舞い上がっている状態が続き、視界は晴れない。だが、俺は手に触れている柔らかいものに何とかにじり寄り、至近距離で目を凝らした。
それが手であることは、触れた時点で見当はつけていた。ぬるっとした感触は、血であることも、容易に想像できた。けれど、その手が握り締めているもの、その血を流す原因となったものが、俺の贈った折り鶴のペンダントだとは、ちょっと想定していなかった。
「……っ、ラチカ………………何で、こんな…………俺のせいで、手が……ラチカの、大切な指が…………、クソ……っ」
笛の奏者にとって手は、指は、本当に大切なものだ。本来、瓦礫に埋まった状態で気にするべきことではないかもしれないが、俺にとっては本当に悔しくて悔しくて仕方なかった。どうして折り鶴なんかに拘ってしまったんだろう。どうして首にかけて欲しいなんて言ってしまったんだろう。例えすでに命がなかったとしても、俺が作り、俺が贈ったもので、ラチカの大切な指を傷つけてしまったことに変わりはない。あの素晴らしい笛の音を奏でた指は今、俺のせいで血を流しているのだ。
ぽろぽろぽろぽろこぼれた涙が、ラチカの傷ついた手を濡らす。
と、その手が微かに動いた。
「…………………………っ!!!!!」
俺はハッとして、折り鶴を握り締めている手から顔を上げ、ラチカの腕が埋まっている瓦礫のほうへと目をやった。不意に、土煙の中から咳き込むような声がすると、微かな風が視界を払った。そこには俺の予想通り、ほぼ全身が埋まった状態のラチカがいた。奇跡的に、瓦礫の隙間から僅かに顔が見える。
「ラチカ………………っ」
すがるようにその名を口にした俺に、ラチカは絞り出すように、掠れた声を吐き出した。
「…………泣くな…………」
「……だけど、俺のせいで…………っ」
「…………そんな、こと、言うな…………」
折り鶴を握り締めている手に、僅かに力が籠るのを感じ、俺はその手に触れたまま小さく頷いてみせた。ラチカが、それを大切なものだと伝えようとしてくれたのがわかったからだ。
「……ラチカ……」
けれど、ラチカは触れている俺の手を払うような仕草をすると、言った。
「…………いつまで、そんなところにいる…………? さっさと、行け…………殺すぞ」
「…………ふ、ははっ」
虚を突かれたあと、俺はつい、笑ってしまった。そして、ぽろぽろぽろぽろ、涙が溢れた。
こんなにも優しくて、哀しい殺意表明を、俺は知らない。知りたくもなかった。
だが、ここにいても俺にできることは何もない。助けを呼びに行ったところで、ラチカはもう助からない。息をするだけで、喉がヒューヒュー鳴っているのが聞こえる。恐らくそう長くはもたない。
ラチカのそばから離れたくない。だがそれはただの俺の弱さだ。ラチカのためではない。もっとも、ラチカがそれを俺に望むのなら、その弱さに甘んじてしまってもよかっただろう。しかし、ラチカは俺に少しでも生き残るための選択をしてほしいのだ。
ならば、と俺は精一杯の笑顔を作り、言った。
「……わかりました。ラチカがさっき言ったように、俺は砂漠のほうに行きます」
「……ああ、そうしろ」
名残惜しさを振り切るように、俺は立ち上がった。それだけで血が逆流しているかのように頭がくらくらする。だが、ラチカの前ではできるだけ元気に振舞わなければ。せめてラチカに意識があるうちは、俺が無事に砂漠まで辿り着いた未来を信じることができるように。ラチカには多分、俺の腕が潰れていることは、見えていなかっただろうから。
とはいうものの、相変わらず土埃がすごくてどちらに行けばいいものやら、さっぱりわからない。いくら何でも闇雲に歩き出すのは怖いものだ。
俺が立ち往生していたのはそれほど長い時間ではなかったはずだが、まるでその迷いを吹き飛ばすかのように、一陣の風が俺の視界を払った。俺はラチカが埋まっている瓦礫をちらりと見やり、それから風が切り開いてくれた裏門までの道筋に目を向けた。もう、振り返らない。その決意を胸に、俺が歩き出して、間もなく。
再び大きく地面が揺れた。俺は転ぶように地面に倒れ伏した。もはや縦揺れか横揺れかもわからないし、そんなことどうでもいい。激しい倒壊音が至近距離から響く。すぐに俺は、崩れた塀の瓦礫に全身を押し潰されるだろう。けれど俺の覚悟とは裏腹に、大きな風が全身をなぶり、周囲の土煙を一掃したのがわかった。
恐る恐る目を開く。が、そこには何もなかった。比喩ではない。本当に、何もなかったのだ。崩れたはずの塀の瓦礫も、その先に広がっているはずの光景、倒壊した工房の数々、潰れた住宅地の残骸、都からたくさん立ち上っているはずの火の手と煙、そういったあるべきものが何一つなくなっていた。
いや、そうじゃない。確かに俺の目に映っているものはあった。ほんの十数歩先で途切れた地面の向こうには、雲のような魂の川がこの世界を巡っており、その上には霧に包まれた流浪島が浮かんでいた。さらには四つの大きな島、世界の中心には星の雨が降っているのも見える。だが、その全てがこの繋ぎ手の島と同じように、端のほうから崩壊し続けていた。ここから見て最も近い守り人の島では、何本もの太い木々が地面ごとごそっと崩れ、次々と何も見えない空間、竜が御座すという世界の底へと落ちていった。
放心したまま、その光景を瞳に映しながら、俺は妙に淡々と理解した。リアム、クルス、ギュスター、トリー、エクトル、トピアス、俺の大切な友人たちはすでに竜の御許に向かってしまった。そして親切だった裏門の警備員さんも、きっと。
カノンとオルカは、今どこでどうしているだろう。結局、仲直りすることができないまま、もう、二度と逢えなくなってしまった。胸元のガラスの小瓶を握り締め、後悔に打ちひしがれても遅いのだ。あの無邪気な笑顔も、笑い声も、俺は失ってしまった。
それから、俺はのろのろと、第二の故郷である夢見人の島へと目を転じた。こちらもかなり崩壊が進んでいる。俺の生まれ育った村も、今生の父も、母も、とうに世界の底かもしれない。俺が今身に着けている小瓶のペンダントを作ってくれた上の兄タルヴィ、俺を育ててくれた姉シーラ、幼い俺にとって天敵だった兄ティモ、そして旅立ちのとき泣きながら俺の手首に組紐を結んでくれた妹ユハナ。本当に、あれが今生の別れになってしまった。
ふと、頭上からキラキラと粉雪のようなものが降ってきたのに気づき、俺はぼんやりと天を見上げた。ああ……あれは月だ。まるで俺がかつていた世界のそれのように、少しずつ欠けていくのが見える。いや、それとは全く違うか。この世界の月は常に球体のまま、週ごとに各島の上を巡るだけで、見せかけの満ち欠けもしない。今は物理的に崩壊が進み、煌めく砂のようにこの繋ぎ手の島にその残骸が降り注いでいるのだ。そういえば、確かに今日は光の週の光の日、繋ぎ手の島の上を月が照らしていた。
幸いにも、この世界の太陽ともいうべき竜の息吹には、まだ異変は見えなかった。少なくとも、俺の目には。竜の息吹が崩壊を始めたら、この世界は本当に目も当てられない惨状と化すだろう。できれば、俺はそれを目撃する前にここから退場したい。もはやこの世界に逃げ場などないのだから。
そして唐突に、俺は理解した。ラチカの演奏後、ずっと感じていた胸騒ぎ。その原因はこれだ、と。理由なんかわからない。ただのこじつけかもしれない。それでも、俺を尋常ならざる恐怖と混乱に陥れたのは、今目の前にあるこの光景を、魂のどこかで予感していたからだ。どうしてか説明できないからこそ、俺はむしろその考えが腑に落ちた。
と、すっかり呆けたように世界の崩壊する様に見入っていた俺の耳に、微かな声が届いた。
「……シルヴァ……」
目を向けると、少し離れたところに瓦礫に埋まったラチカの顔が見えた。先程の振動で、ラチカの上にあった瓦礫が少し移動したのだろう。俺と同じように世界の崩壊を目の当たりにしたラチカの瞳には、絶望の色が宿っていた。しかしそこには、恐らく俺と同じ望みがあった。
どこにも逃げられないのなら、せめて最期はラチカのそばにいたい。
「ラチカ…………!」
俺はよろよろと立ち上がると、ラチカに向かって歩き出した。ここはすでに繋ぎ手の島の端だ。もう間もなく崩落する。その前に、もう一度ラチカの手に触れたい。
が、もう少しでラチカのもとに辿り着く、という時、まさに世界の終わりを告げるかのような鐘の音が鳴り響いた。何が起こったのか全くわからないまま、世にもおぞましい感覚が俺を襲った。そう……音で例えるなら、ぐしゃっ、とでもいうような。多分、実際にそんな音は聞いてないし、痛みや感覚さえ、気のせいかもしれない。自分の現状から、記憶を後付けで捏造した可能性すらある。
とにかく、気がついたら俺は半身が潰れていた。ラチカの必死な呼びかけがなかったら、意識を取り戻すことなくそのまま逝っていたはずだ。そしてきっと、それが一番楽だった。けれど、ラチカを咎めることなんてできない。俺だって、反対の立場なら同じことをしただろうから。
「……ルヴァ…………、シルヴァ……! シルヴァ、シルヴァ……っ!」
掠れた声で、狂ったようにその名を呼ばれ、俺はうっすらと覚醒した。何か……血だろうか、温かいものが、命が、自分の中からゆっくりと、静かに流れ出て行くのがわかった。まるで眠りに入る瞬間のように、心地よい感覚。川の水をこの両の手だけで堰き止めようとしてもできないように、俺の体から大切なものが溢れて消えていく。本当は、その快い流れに身を任せてしまいたかった。
だが、俺は抗い、鉛のように重い瞼を持ち上げた。懸命に、ラチカに向かって手を伸ばす。ただただ、その涙を止めたいがために。もっとも、手が届いたところで、何の意味もない。けれど、そうせずにはいられなかった。そもそも、手が届くことは決してないと、わかっていたのに。
永遠のように遥か遠くにある、僅か拳一つ分の距離。その先にある、俺に向かって必死に伸ばされたラチカの手。血塗れで、それでも折り鶴を離さない。俺の視線の先にあるものに気づいたのか、ラチカが言った。
「……悪い……せっかく、お前が、くれたのに……こんな、汚しちまった……」
「…………そんなの…………いい、から…………」
ラチカが、咳き込むように血を吐いた。俺の目から涙が溢れる。ラチカの瞳から、急速に命の灯が消えていく。
「…………シルヴァ…………俺…………」
ラチカの渇いた唇が、声もなく、微かに動いた。そして、それきり、動かなくなった。
「……………………ラチカ……………………」
ダメだ。逝くな。待って。
焦燥感が胸を焼く。どうすることもできないとわかっていながら、そう思わずにはいられなかった。涙が止まらない。伸ばした手も、ラチカには届かない。けれどせめて、ラチカに一番近い場所で、俺ももうすぐ逝くだろう。そのはず、だったのに。
不意に、地面が崩れる音が響いたかと思うと、ラチカを残したまま、俺だけが宙に放り出された。
……ラチカ………………!!! どうして、こんな………………!
本当に、最期まで思い通りにならないものだ。朦朧とした意識の中、俺は星の雨の中から飛び出してくる白銀の……いや、漆黒の? 大きな鳥の姿を見た気がした。両の翼を羽ばたかせ、こちらに向かって飛んでくる。もしかしたら、俺は新しい伝説の幕開けに立ち会っていたのかもしれない。だが、俺の出番はここまでだ。その伝説に、俺の登場する幕はない。
そして、俺は、死んだ……………………
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