自転車のブレーキ音
鳥羽は大学をあとにすると、その足で次の目的地の朝日食堂へとまわった。
腹もすいていたのだが、食堂の主人に詳しい話を聞かなければならない。ヒントに自転車のブレーキ音の件があったからだ。
昼メシどきとあって食堂は、来店客で席がほぼ埋まっていた。とりあえずカレーを注文してから、鳥羽は店主に声をかけ店の外に誘い出した。
「お忙しいときにすみません。実は店の自転車のことなんですが」
「うちの自転車がなにか?」
店主が店先にある自転車に目を向ける。
「すみませんが、ちょっと乗って急ブレーキをかけてみてくれませんか」
「事件と、なにか関係でも?」
「いえ、たいしたことじゃないんです」
鳥羽は言葉を濁した。
どういった関係があるのか、自分だってわからないのである。
「いいですよ」
店主は重そうな自転車にまたがると、いったんその場から二十メートルほど離れて向きを変え、そこから一気にペダルをこいでスピードを上げた。
自転車が鳥羽に向かってくる。
「かけますよ」
店主が声を出し、そこでブレーキをにぎりしめた。
耳をつんざくような音がする。
車輪が三メートルほど路上をすべったあと、自転車は鳥羽の横で止まった。
「こんなもんでよかったかな?」
「けっこうですよ」
「いやあー、このとおりオンボロでしてな。ブレーキのききが悪いんで、あんときも勢いあまって、門柱にぶつかりそうになったんですわ」
「はい。事情聴取のときにも、たしかそのようにおうかがいしました」
「そうでしたな。すぐに現場にもどったことを、刑事さんにわかってもらいたくてね」
店主は苦笑いを浮かべ自転車から降りた。
「ありがとうございました」
「お役に立ちましたかな?」
「ええ、まあ……」
鳥羽は返事にこまって、ここでも言葉を濁さざるをえなかった。
根拠があって頼んだことではない。ブレーキ音を聞いたら、なにかわかるかも……。そうした思いで頼んだにすぎないのだ。
「じつは……」
店主が話しにくそうに切り出す。
「なんでしょう?」
「もっと早く先生を病院に。あのとき、そのことに気づいておればですね」
「なにをお気づきに?」
「いえ、もういいんですよ。どうしたって、まにあわなかったでしょうから」
店主はなにやら後悔しているようだ。
そのとき店から妻が顔を出し、店主に早く帰ってきてくれと声をかける。
「すみませんね、今がかき入れどきなもんで」
店主は自転車を店先にもどすと、それから速足で店の中に姿を消した。
注文しておいたカレーがそろそろできあがるころである。鳥羽も空腹を満たすため、店主のあとを追うように食堂に入った。
店主はすでに、カウンターの中でせわしげに立ちまわっている。
食べる間……。
――なんで後悔を?
鳥羽はそのことばかり考えていた。
教授の家から食堂まで、自転車を飛ばせば一分ほどである。食堂の電話で救急車を呼んだこと、そのことは後悔するほどまちがったことではない。
そもそも救急車が到着するまで、ある程度の時間がかかるのはよくあることだ。
答えが出ないまま……。
腹を満たし、朝日食堂をあとにする。
――ヒトミさんのカレー、とうぶんは遠慮だな。
ふくらんだ腹をなで、鳥羽はいたってまじめに思ったのだった。