ナイフの指紋
恵太郎……中学生ながら天才的な推理力を持つ。
ヒトミ……大学生。恵太郎の姉。
鳥羽……新米刑事。ヒトミとは恋人同士。
服部……警部。鳥羽の直属の上司。
柴崎……老教授。密室でナゾの死をとげる。
大平……助教授。柴崎教授の助手。
食堂の店主……朝日食堂の主人。
デパートで靴を買ってもらって(買わせたというべきか)上機嫌のヒトミと、鳥羽が家に帰ってきたのは午後の四時をまわっていた。
恵太郎はこりもせず、ふたたび姉の部屋を訪問したのだった。
「いやーね、また来たの?」
ヒトミがあからさまに顔をしかめる。
それでもコタツの上の新しい靴を前にして、機嫌はいたってよさそうである。
口うるさい姉にかまわず、恵太郎は早々とコタツに足を入れ、ちゃっかり居座りを決めこんでいる。
「おねえちゃん、お願いがあるんだけど」
「なあに?」
「コーヒー」
「もうー」
「オレも頼んでいいかな」
鳥羽も笑って注文する。
「いいわよ、ちょっと待っててね。恵太郎、あなたのはついでだからね」
ヒトミはがらりと態度を変え、さっそく支度にとりかかった。靴のお礼もあってか、鳥羽にはすこぶるサービスがいい。
「恵太郎君、例の事件のことなんだろ?」
「うん、教えてほしいことがあるんだ」
「なにかな?」
「まず指紋なんだけど……部屋の中、教授のものしかなかったんでしょ」
「そうだよ。とうぜんナイフにもね」
「じゃあ、ナイフについた指の向きもわかるよね」
「もちろんさ」
「ねえ、それを描いてくれる? おねえちゃん、紙と鉛筆」
恵太郎はあごをコタツの台にのせたまま、目玉だけをヒトミに向けた。
「あなたって、ほんと人づかいが荒いんだから」
例によって恵太郎をひとにらみしてから、ヒトミは紙と鉛筆を取ってきて鳥羽に渡した。
鳥羽はナイフの絵を描いてから、その上に指の形を描き進めた。
親指の向きが刃先と反対の方向に向いている。
「それって、おかしくない?」
「えっ、どうして?」
「人を刺すときのナイフのにぎり方って、親指の向きが刃先の方に向くでしょ。でも、自殺する者がにぎるときは、その向きが反対になるよね」
「だったらいいんじゃないの。親指の向き、刃先と反対になってるから」
鉛筆をナイフに見立て、鳥羽が親指の向きを絵と見比べる。
「同じこと、犯人も考えたんだろうね」
「同じことって? なにがおかしいのか、オレにはわからないんだけど」
「そうよ、ちっともわかんないわ。それにあなた、コーヒーぐらい、今度から自分でいれてよね」
ヒトミがくちびるをとがらせ、コーヒーカップを恵太郎の前に置く。
恵太郎はコタツから顔を上げた。それからカップに砂糖をたっぷり入れ、スプーンでクルクルとかきまぜながら鳥羽の顔を見た。
「鳥羽ちゃんも言ったじゃないの。ナイフの刺し傷からして、かなりの力がいるって。それで、嫁さんの疑いが晴れたんでしょ」
「そうだけど……。恵太郎君の言いたいことが、どうもわかんないなあ」
鳥羽はもどかしそうだ。
そのとき階下から母親の声がして、ヒトミの名前が呼ばれた。
「わたし、夕食の手伝いしなきゃあ。鳥羽ちゃん、楽しみにしててね」
ヒトミが立ち上がる。
恋人に手料理をごちそうするつもりらしい。
「おねえちゃんね、カレーしか作れないんだよ」
「つまんないこと言わないの」
恵太郎の頭をポカリとたたいてから、母親の料理の手伝いにと、ヒトミは部屋を出ていった。
恵太郎が先ほどの話の続きを始める。
「だって、教授はお年寄りなんでしょ。嫁さんと同じで、自分の心臓を一突きで刺す、そんな強い力はないんじゃない?」
「たしかにそうだよね」
「それに自殺だとしても、自分の体重を利用しなけりゃ、深い刺し傷にはならないと思うんだけど。例えば床にナイフを立てて、一気にその上に倒れるとか……こうやってね」
恵太郎は両手でナイフをにぎったマネをして、その上におおいかぶさるようにしてみせた。
「そうか、わかったよ。そのナイフのにぎり方、自殺のときと反対だもんな。つまり、床に刺されたようなものだからね」
「そうなの」
「てっことは、自殺なら指紋のつき方がおかしいということになるんだよな。恵太郎君、こいつはすごい発見だよ」
「でも、決定的な証拠にはならないよ。密室のこともわかんないとね」
「だよな。密室だったんで、捜査本部も自殺って断定したんだしね」
「それでね、調べて欲しいことがあるんだ」
「いいよ、なんでも言ってくれ」
「教授の助手、大平っていったよね。その人のことを調べて欲しいの。大学での評判、それに教授との関係もね」
「わかった、さっそく調べてみるよ。それで恵太郎君は、大平が犯人だって思ってるんだ」
「うん」
「でも、どうして大平って?」
「ボクが、それを話しちゃっていいの?」
「そっ、そうだよな。いっぱしの刑事なら、自分で考えなきゃあね。でも証拠がないからなあ。それに密室だし……」
苦笑いを浮かべてから、鳥羽は目をつぶり考え始めたのだった。
しばらくして……。
首を無意味にグルグルまわし始める。結局、なにもわからなかったらしい。