プロローグ
その老教授は左胸に登山ナイフを深々と刺し、床にうつぶせるようにして横たわっていた。現場では刑事や鑑識員が数人、事件の真相を求めてあわただしく捜査をしている。
そんな刑事たちのそばで、茫然と立ちつくしている男がいた。
死んだ教授の息子である。
捜査を始めて一時間ほどがたったところで、チーフとおぼしき刑事が男に歩み寄って告げる。
「お父さんを警察病院の方に移したいんですが」
「……」
父親の死体を目の前にして、男は頭の中が混乱しているのだろう、すぐには返事をしなかった。
「いえ、念のためです。状況からして、おそらく自殺だと思われます。ですがこれも、我々の仕事なもんでご理解ください」
刑事があらためて言う。
「わかりました」
男はやっと小さくうなずいた。
警察病院にある検死室で、父親は死因を調べるために解剖されるのだ。
――そこまで思いつめていたのか……。
同居を拒んできたせいだと、男は自分の親不孝を責めた。たびたび父親から一緒に住もうと催促されていたのに、そのうちそのうちと思いながら真剣に耳を傾けようとしなかったのだ。
救急車はすでに引き上げており、父親は警察が用意した車で病院に運ばれた。
――帰ってくるのは、そんなに遅くはないだろう。自殺なんだからな。
男は捜査を続ける刑事らを残し、父親の暮らしていた別棟をあとにした。通夜の準備のため、同じ敷地内にある母屋へと向かう。
空き家になっている母屋では、第一発見者である近くの食堂の主人と、教授と同じ大学の同僚が、若い刑事から簡単な事情聴取を受けていた。
現場の状況からして。
自殺だと、警察はほぼ判断していた。
しかし念のため、壁から天上、床、テラス、庭までくまなく調査を進めたのだった。
イラスト 雨音AKIRA 様より提供