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幽霊は一人たたずむ  作者: 柴野独楽
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8-10

     8     

 「お帰り。楽しんだかい?」

 人気の全くない公園の真ん中近くに、ぽつんと置かれたベンチ。

 雪の切片のように美しいが、人を死に至らしめる毒を含んだ灰がちらちら舞い落ちる中、防護服も身につけず、ヘルメットもかぶらず、老婆はかすかに笑みを浮かべたままで――俺の生前の最後の記憶そのままに――静かに酒を飲んでいた。

 その落ち着き払った姿をぼんやり見つめているうち、俺は卒然と悟っていた。

(……この人だ。この人が、俺を「幽霊」にして、あの場所に送り込んだんだ)

 そんな機会があるのかどうか分からなかったが、もし万が一、俺を幽霊に――指をくわえてただ「現世」を眺めるだけの、もどかしい存在にしたヤツに出会うことがあったなら、俺は、様々詰問してやろうと思っていた。

 一体なんだって、この世に未練があったわけでもない俺を、幽霊なんかに仕立て上げたのか。

 死んで皆が幽霊になるのだ、というなら、どうして他の幽霊と出会わせてくれなかったのか。それならまだ、心細さも紛れたのに、なんだって俺を、あれほど希薄な存在にしたのか。

 そもそも、アンタは何者で、一体どんな権利があって、俺の運命をいじくり回したのか。

 あの「現世」とは、一体なんだったのか。もしアンタが造物主――いわゆる「神」なのだとしたら、どうしてあんな、過酷な運命を人々に課すのか?

 膝詰めで相手をにらみつけ、一つ一つ、俺の心が晴れるまで、相手が泣こうがわめこうが構わずに問いただしてやる……そう心に決めていたはずだった。

 が、こうして、俺を陥れた張本人と相対し、明け方の湖のように静まりかえった瞳をのぞき込んでしまうと、どういうわけか俺の口はもつれ、思考は混乱して、思うように言葉を形作ることができない。しばらく思考の尻を追いかけ、無意味に口を開け閉めしたあげく、かろうじて俺の口から転び出てきたのは、

「なぜだ?」

その一言だけだった。

 それを耳にして、老婆は、にんまりと笑った。

「なぜ、だって?こりゃまた、あらゆることを包み込んだ、重みのある質問だね。その質問に全て答えようと思ったら、一昼夜、一週間、ひと月……下手をすると、一生涯喋り続けないといけないかもしれない。朽ち果てて、骸になったお前さんを引きずりおこし、ただ風が出入りするだけになったこうべに向かい、なおも言葉を浴びせなければならないかもしれない。だが、残念なことに、そんな手間暇かけるだけの根気も時間も、あたしにゃ、ありゃしない。つうことで、思い切り簡単にその「なぜ」という質問に答えちまうことにしようか。なぜ、ああいうことになったのか――そりゃあ、このあたしが、あんたに興味をもったからだよ」

 なんだなんだ、たった一言「興味を持ったから」って答えるために、なんだってこんな長々と前置きをするんだ。なんだか面倒くさい婆さんだぞ……などと思いながらも、久々に「会話が成立する」「彼我の意思疎通が可能である」状況があまりにも心地よくて、俺は、思わず笑みを浮かべ――半ば泣いているような、情けない微笑だったと思う――老婆の話を聞いていた。

 と、老婆の口の端がくくっと引き上げられ、目尻が優しく垂れ下がり、かすかにしか現れていなかった微笑が、くっきりとした笑みへと、鮮やかに変化した。

「あんた、覚えてるかい?あの日、あたしがここで雪見酒としゃれ込んでたのを目にして、あんたが一体、何をしたか。あんた、不格好な防護服姿に精一杯許される早さで、どたどたあたしに近づいてきたかと思うと、「何してるんですか、こんなところで!さ、早くこれをかぶって!」って言うが早いか、自分のかぶってたヘルメットを脱いで、あたしにかぶせようとしたんだよ。あたしゃ、びっくりしてね。こんな風になっちまった「現世」で、あたしを認知できる人間がいるってだけでも驚きだけど、その人間が、こともあろうに、自分の身の危険を顧みず、あたしを救おうとするってんだからさ。案の定、灰の毒に冒されて、あんたはたちまち顔面蒼白、ふらふらし始めた。そこであたしゃ、思ったのさ。この男、このまま死出の旅路に赴かせるのは、ちょいともったいないんじゃないか、ってね。それで、「高位なる存在の視座」へ、こっそり招待してやったってわけさ」

 一昔前の下町のおばちゃんか、落語の中の登場人物のような、ざっくばらんな、親しみやすい口調。だが、その語られている内容そのものは、日常を遊離すること甚だしい、きてれつなものだ。そのギャップにめまいのような感覚を覚えながらも、俺は、再び、かろうじて言葉を紡いだ。

「あんたは……神、ってヤツなのか?」

「そりゃあ、どういう存在を神と呼ぶかによるね。造物主なのか、人を罰する存在か、はたまた、ただなんとなくそこに坐す超自然の存在か、気まぐれに人を害する存在なのか。まあ、人の世に関わりながら、人にはない能力を持ち、人の運命を左右する存在、って定義であるなら、あたしは、神ってことになるかもしれない。人によっちゃ、悪魔と呼ぶかもしれないがね。あたし自身は、自分を「管理者」だと思ってる。「高位なる存在の視座」より世界の様子を眺め、あっちを叩き、こっちを直し、世界がほころびないように繕って、どうにかこうにか保たせていく修理屋さ。といって、それももう、そろそろおしまいだけれどね」

 老婆はそう言うと、空を振り仰いだ。

「この灰はね。毒の灰じゃない。この世界がだんだん壊れていくかけらなのさ。こうして、少しずつ、少しずつ剥がれ落ちて、舞い散って、やがて消えていく。世界はそうやって、終わりを迎えるんだよ」

「……さっき、俺が見ていた「現世」が粉々に砕け散って……」

「ああ、あれかい」

 老婆は――見た目よりもおそらくはずっと、誰よりもはるかに年を取っている、文字通りの老婆は――皮肉に口をゆがめ、ふっ、と苦笑した。

「あれはね。あんたと現世を隔てていた膜が砕けただけだ。世界を映し出すのにちょうど都合のいい膜だったんで、あたしが、ちょいと利用させてもらってたんだよ」

「なぜだ?なぜ、俺から全ての「伝える力」を奪い取って……」

 俺が必死に訴えかけると、老婆は再び、ふっ、と苦笑をもらした。

「そりゃ違うよ。もともとあんたを包み込み、世界とあんたを隔ててた膜は、そういう性質を持っていたんだ。外からの情報はどんどん取り込むくせに、自分の心の中にあるものはなかなか吐き出そうとしない。海水を真水に濾過するときに使う、イオン交換膜みたいに、世界からの情報だけを透過させ、あんたからの情報は通さないような仕組みになってたのさ。あたしは、その性質をちょっとだけ強めただけだ。あんたが受け取る「世界からの情報」を、あたしが目にするのと同じ「高位なる存在の視座」から見えるものと取り替え、あんたの発する情報が一切外に漏れないようにしただけさ。それが、あんたの望みだったんだろ?」

 違う、と言いかけて、俺はそのまま口をつぐみ、うつむいた。

 生前、周囲の人間全てと当たり障りなく付き合いながら、その実、決して誰の心に踏み込むこともなく、誰にも俺の心の中に踏み込むことを許さなかった生活を送っていたことを、思い出したからだ。

(確かに俺は、他人がどれほど自己開示しようとも、それをただ受け止めるだけで、ついぞ自分の心を開こうとしなかった。明朗快活な脳筋野郎を装っていたが、その実誰も信用することのない、孤独癖の強い男だったんだ……)

 眉根を寄せ、口をへの字に曲げて考えこむ俺を見て、老婆はまたもや、ふっ、と吐息のような笑声を発した。

「そんなに気にしなさんな。あんたが世界を拒絶してたのは、もう過去の話。その性癖に気づいて、世界にもっと関わりたいと心の底から望んだからこそ、初期設定が崩れ、あんたは膜の中から出てこられたんだろうからね。ま、出てきた先で最初にコミュニケーションを取る相手が、妙齢のご婦人でなく、こんなばばあだったのは、なんとも気の毒としか言いようがないがね」

 老婆は、手にした茶碗から、一口酒をすすると、長々と満足げに吐息を吐き出した。

「……そうそう。それで、話を戻すがね。あんたが意識した「世界の崩壊」は、あんたを押し包んでいた「膜」――世界を映し出すスクリーンが崩れ去っただけでね。世界はまだまだ、しぶとく生き残っているのさ。そもそも、このあたしがだ、自分でもいやんなるほど昔から、今現在に至るまでの、気の遠くなるほどの長き期間、ずっと見つめて管理して、手塩にかけて手をかけ手を加えてきた世界の生成消滅を、赤の他人に易々と任せたりすると思うかい?どれだけ希望がないにしろ、あともうわずかで終わっちまうって分かってるとしても、そんなこたあおくびにも出さず、最後の最後まで淡々と責務を全うする。それが、管理者の義務であり、責任であり、心意気ってもんだとあたしは思ってるのさ。そうだろう?」

 考えこんでいるところへいきなり同意を求められ、どぎまぎしながら、俺はなんとか、言葉を紡ぎ出す。

「あ……ええと、その。俺は管理者ってものになったことがないんで、その心意気がどうのっては、よく分からない。けれど、一度引き受けた仕事を投げ出さず、最後まできっちり面倒を見るっていうことならば、よく理解できると思う」

「だろうね。余計なことはあまり考えず、目の前の仕事に精一杯の力を注ぎ込む、っていうのが、あんたの生き方だったからね。そんなあんただからこそ、目の前に「仕事」になり得そうな状況が映し出されているっていうのに、なんの手出しもできない状況に我慢がならなくなり、とうとう自分の殻を破ることに成功した。まさに、あたしの見込んだ通りの男だったということだね……」

 老婆が満足げに、もう一口、茶碗から酒をすする。

 その隙を狙って――よほど話し好きなのか、老婆は一度話し出すと途切れなく話し続け、なかなか口を挟むことができない――俺は、先ほどからずっと気になっていたことを、ようやく口にした。

「それじゃあ……あいつらは無事なんだな?俺が見ていたあの世界の、痛みを友とする特殊な容貌の女性や、その女性を殴りつけてたじじいや、将軍や、少佐や、聖母や、そのほかの生き残った人たちは、そのまま……」

「さてね」

と、今度は老婆が難しい顔になった。

「あんたが見ていた存在が無事なのかどうかは、あんたがなにを見ていたか次第、としか言いようがないね」

「なにをって……だから、あんたの管理してた世界に、ほんのわずか生き残ってた人間たちだよ。俺を呼び出してた悩みを聞かせてた、あの……」

「だから、それがなにか、あたしには分からないんだよ」

「そんなはずは……」

「それが、高位なる存在の視座からの眺め、というやつの特性なのさ。説明してやるから、よく聞きな」

 不承不承俺がうなずくと、老婆は、茶碗に残っていた酒をぐいと飲み干して喉を潤し、おもむろに口を開いた。

「あんたも経験したとおり、高位なる存在の視座――いわゆる「神の視座」「全知の視座」にいれば、見たいと思った光景は何でも見れるし、知りたいと思ったことは、手に取るようになんでも知ることができる。だがね、ちょっと考えてほしいんだ。そもそも「見る」とは、「知る」とはどういうことだと、あんたは思ってるんだい?」

「そりゃあ……」

 目の前に映る光景を認知し、理解することだろ、などと言いかけたところで、俺は、はたと困惑した。

 もし、目に映る光景をただぼんやりと眺めるのが、「見る」ことであるならば……なぜ「幽霊」であった時、ああも悲惨な情景ばかりが俺の目の前に映し出されたのか。

 もし、目に映る光景と、耳にした音声を心にとどめることが、「知る」ことであるならば……なぜ俺は、文化の違いや考え方の違いに戸惑うことなく、目にした悲惨な情景を、耳にした悲痛な祈りを、余すところなくほとんど理解することができたのか。

 なぜ、自分が相手に働きかけられないことをもどかしいと思うことこそあれ、相手がなにを思い、なにを悩むのか理解できず、もどかしがることがなかったのか。

 言葉の途中で不意に絶句し、そのまま考えこんだ俺を見て、老婆は静かに言葉を続けた。

「全知、というのは、やっかいなものでね。知りたいと思う、ありとあらゆることを、手に取るように理解できるようになる代わり、肝心の、自分が理解しているものがなんなのか、よく分からなくなってしまうのさ。高位の存在だ、管理者だってえらそうなことをいってみても、あたしらの認知能力には限界がある。「全知の視座」は、その特性上、ありとあらゆる「ものの思い」を、その本質を、認知能力に限界のある者に理解させるなんていう、おおよそ不可能に近いような離れ業を演じなくちゃなんない。この難問を解決するために、「視座」は、ほとんど反則に近い「現実の変容」を実行する。4歳児に近親者の死を教えるとき、おじいちゃんは高いお空で見守ってくれているのよ、なんて言い聞かせるのと同じように、そのままでは決して飲み込めないであろう状況を、慣習を、文化を、より理解しやすい、何らかのたとえ、何らかの象徴という形にして映し出すんだ。文化的に、あるいは存在の基盤が違いすぎて、どうしても理解が難しいものであっても、なんとか無理矢理理解させるため、あたしたちの――高位なる存在の視座に映し出される全ては、なにかの比喩でしかないものになってしまうんだよ」

「俺が目にした、全ての光景、全ての祈りは……ただの象徴に過ぎない、ってことか?」

「まあ、そういうことだね。あんたが見た光景とよく似た印象の光景は、あたしの管理する世界のどこかにあったのかもしれない。でも、それはあんたが目にしたとおりの光景ではなく、例えば、カラスの群れ同士の争いを象徴したものかもしれないし、小さな水たまりの中で繰り広げられた、種が異なるミジンコの繁栄と衰亡を表したものなのかもしれない。あんたが耳にした祈りも、例えば害虫に蝕まれて枯死する寸前の大樹のささやき声を翻訳したものかもしれないし、病原菌に冒された水槽の中の魚たちが苦し紛れに発したため息に、文字を当てはめただけのものかもしれないんだ」

「そうか……全知とは、そういうものなのか」

「さらに言えば、あんたが目にしたというあたしの娘たち――守護者と裁定者も、司る相手によって様々形を変え、考え方を変え、存在基盤さえも変えて、無数に存在してる。でもって、これはあたしが悪いんだが……あの子たちは、本質的に矛盾する性質を抱え、ぶつかり合い、いがみ合わずにはいられないよう、その性格が設定されてしまってる。そのせいで、いつでもどこでも、世界のありとあらゆるところで対立しては、様々な悲劇を作り出さずにはいられない。しかも、高位なるものの視座は、その全ての守護者、裁定者を、あんたにわかりやすい姿として、時には複数の守護者たち、裁定者たちを重ね合わせ、そのうちの最大公約数的な姿を映し出したりまでもして、なんとか彼女らの抱える「悩み」をあんたにすっかり理解させようとするのさ。もちろんそれは、あの子たちだけの話じゃない。ことによると、あんたの目にした人物たちそのものだって……」

「なにか、複数の存在を重ね合わせた、ただの象徴ってこともありうる、ってことか」

「それどころか、なにか、でさえないかもしれないのさ。新説によって駆逐される寸前の数式とか思考とかに、形を与えただけのね。だから……」

 ここで老婆は一息つき、酒瓶を傾けて、茶碗になみなみと酒をつぐと、ゆっくりそれを傾け……ほんの一口分、喉の奥へと流し込んだ。

 感極まった、といわんばかりのため息。そして再び、口を開く。

「だから、あまり気にしなさんな。あんたが目にしたもの、耳にしたものは、全てはただの偽物。世界の片隅で当たり前のように起こっている生命の消長を、人形劇に仕立て上げたものに過ぎないと思って、忘れちまえばいいのさ」

 老婆はそう言って、力のない、ほんのりとした笑みを浮かべた。

 婆さんのいうことは分かる。

 どこの誰ともつかない、どころか、どのような存在のどれほど異質なつぶやきともつかない悩みなど、真剣に向き合うだけ無駄。どれほど切実で、どれほど心に迫る祈りであったとしても、しょせんは機械翻訳にかけられた文章同様、本質の片鱗をなんとなく理解させるだけの、まがい物でしかない。そんなものにいちいち心を砕かなくてもいい、ということだ。

 自分の手にする情報からは、自分が相手にしている存在の、自分にとっての価値、自分にとっての重要性を、全く感知できない。であるならば、そんな、まさしく「どこの馬の骨ともわからない」もののささやきなど、耳を素通りさせ、そのまま忘れてしまえばいい……そういうことだ。

 だが……。

「忘れるなんて、できないな」

「……ほう?」

 老婆は眉を上げ、先を促すように、じっと俺を見つめた。

「……膜に包まれて、いろんなやつの悩みや祈りを一方的に聞かされてるときに、分かったんだ。心痛は、その質ではなく、量で量るべきものなんだ、ってな。傍目には、どんなにくだらない、つまらない悩みに思えたとしても、それが本人にとって重く、切実な悩みである以上、聞き手も真剣に向き合わなければならない。それが、聞き手としての義務だ、ってな。それと同じじゃないか?たとえそれが、耳にしたとおりの声ではなく、目にした通りの光景でもなく、自分にとって、普段は気にもとめないつまらない存在の祈りであったとしても……そこにこもった切実さが本物なら、向き合うべきだろ?ミジンコの祈りであっても、樹木のうめきであっても、心底から求める声を耳にしてしまった以上は……」

「……真剣に聞き、心にとどめ、考えるべきだ、ってことか。なるほどね」

 口をへの字に曲げて――しかし、不機嫌そうには見えない、なんとも不思議な表情で――老婆はじっと考えこんだ。

「なんとまあ、青臭いきれい事を吐くもんだ。まあったく、世界ってもんが、何も分かっちゃいないね。全ての悩めるものに平等に接する?は、笑わせるんじゃないよ!」

 言い放ったところで、老婆は茶碗の酒を口に運ぼうとしたが……どうしたことか、途中で手を止めると、茶碗の中を――透明な、とろりとした液体が映し出している灰の降る美しい空を、じっとのぞき込んだ。

「とはいえ、まあ……あんたのいうことも、分からなくはないよ。そんな理想めいたものを、あたしも、過去に持っていたような覚えもあるしね」

 深いため息が、一つ。

「あたしだって、ルーキーだった頃は、そりゃもう張り切っててね。絶対にいい世界を作る、住みよい世界を作るって心に決めて、いろいろやったもんさ。悲惨な状況を観るたび心を痛めて、なんとかしてやろう、なんとかしなくちゃって、あちこちにお節介してね。けど、なかなかうまくいかないんだよ、これがさ。正しいと信じる方に肩入れして、有利になるよう取り計らったら、その影響が全く思わぬところで噴き出し、結局種族全体が弱ってしまったり、先を見越して手を打っといたはずが、打ったその手自体が一人歩きを始めて、とんでもない災害の火種を作っちまったりとかね。あたしの分身――娘たちも、その頃産み出した存在だ。あたし自身とは違う目線で、違う方法で対処してもらったら、ちっとはましなことになるんじゃないかと思ってね。けど……結局無駄骨だった。なにをどうやってもうまくいかないもんだから、そのうちだんだん、疲れちまってね。娘二人に運営を任せて、あたしゃ、ここに引っ込んでばかりになっていった。あまり表立って動かない方がうまくいくのかもしれない、なんてことを言い訳にしてね。挙げ句の果てが、このていたらくさ。まったく、やるせないったらないよ」

 そこで言葉をいったん切ると、婆さんは、ベンチの背もたれによっかかるようにしながら目線を空へと向け、胸を大きくふくらまして息を吸い……ゆっくり吐き出した。そして、

「それにしても……いやんなっちゃうねえ。あたしも初めて見るんだけどさ、どうして世界の終末っていうのは、こんなに美しく、こんなに悲しいんだか。できれば、こんなもの見たくはなかったっていうのにさ……」

 この言葉を最後に、全ての生気を空に吸い取られてしまったかのように、しばらく呆然と、虚空を眺める。

 その間にも「世界のかけら」はふわふわと舞い落ち、地面やベンチに触れたかと思うと、淡雪よりも速やかにほどけ、ほんのかすかな、ため息のような音のみを残して、跡形もなく消え失せていく。

 やがて、かけらの一片が耳元に落ちかかり、そのかすかなため息が耳に入ったのか――老婆は、ぶるっと身震いし、我に返ったような表情で、俺に視線を戻した。

「やれやれ。全く油断がならないね、あんたは。高位なる存在であるあたしに、悩み事を語らせてしまうなんてさ」

 くしゃっと顔をゆがめ、きひひ、と歯をむき出すようにして――もっとも、開いた口の中には2本だけしか歯が残っていなかったが――笑うと、老婆は、思い出したように、手にした茶碗を、ぐいとあおった。

「さてね。いつまでもあんたにかまけちゃいらんない。つまらない話も、質問タイムも、そろそろおしまいだ。でもって、最後に一つだけ、今度はあたしからあんたに、尋ねなきゃいけない」

 老婆はそう言うと、茶碗を、ことり、とベンチに置き、頬杖をついて、ぐっと半身を乗り出した。

「で?あんたはどうするんだい?」

「どうする……とは?」

 いきなりの、あまりにも漠然とした質問に困惑し、俺は思わず、あごに手を当て、ごしごしとなでていた(無精髭のざらりとした触感が――視覚聴覚しか持たぬ幽霊となり果て、この先二度と感じられないのだろうと諦めていた感覚が――この上なく生々しく感じられ、そこで初めて俺は「ああ、戻ってきたんだ」と実感した)。

 あごをごしごしなでながら、にんまりと笑みを浮かべた俺を見て、老婆は「やれやれ、しょうがないボウヤだ」といわんばかりの笑みを浮かべた。

「そうだよ。あたしと初めて会った「あの時の、あの場所」へと、あんたは戻ってきてる。生前のあんたが抱えていた以上の、大きな自由を携えてね。今のあんたは、どうとでも、自分の行く道を選べる。そうしたければ、あたしとで会ったことなどまるっきり忘れ、現世に戻り、人間として、消防官として生きていくこともできる。現世で、これまでとは全く違った道を選ぶこともできるし、終末が迫りつつあるこんな世界じゃなくて、まだもう少し希望が残っている世界や、生まれたばかりのまっさらな世界へと転生することも可能だ。もちろん、あたしのように世界を管理する立場に立ってもいいし、このままここへ残って、あたしの酒の相手をしてくれてもいい。今のあんたがやりたいことを素直に望めば、全知の視座、全能の玉座は、その望みをできうる限り完全な形でかなえてくれるはずだ。全ては、あんた次第。この世の全てが息を凝らして、あんたの出方を今、うかがっているのさ」

 そう言われ、俺は、慌てて周囲をきょろきょろと見回した。

 が、そこには相変わらず、世界のかけらがほどけるかすかな悲鳴以外、なんの物音もしない、静まりかえった世界が広がっているだけ。固唾を呑んで俺を見守っている気配など、みじんも感じられない。

 と、老婆が再び、苦笑を浮かべた。

「バカだね。全知の視座も、全能の玉座も、あんたの心の中に鎮座してるんだよ。思いを凝らしてごらん」

 言われたとおり、半信半疑ながらじっと心の奥底をのぞき込んでみる。

 すると……確かに、そこにあった。

 限りない力を感じさせる、無限の可能性が、確かにそこで、息づいていた。

「……分かったかい?」

 力強く俺がうなずくと、老婆も、満足そうにうなずき返す。

「さあ、それじゃあ、質問に戻ろうか。それで、あんた……どうするんだい?」



     9

 それで、俺は今、ここにいる。

 よくよく考えた結果、元の世界に戻るのはやめ、新しい世界に転生するのもやめ、婆さんの話し相手も遠慮して、新しい世界の管理者として、ここへ来ることに決めたのだ。

 本当のことをいえば、俺は、幽霊として――「観察者」としてみていたあの世界――取り返しのつかないところまで荒廃が進んでしまった、少佐や聖母や将軍が必死で取り繕おうとしていた「現世」に戻り、あれからどうなるのかを見守りたかった。が、あの世界は、既に管理者がいる。ありとあらゆることをやり尽くしたというのに、滅びへの道をゆっくり歩んでいくことに深く心を痛めながら、それでも、せめてその行く末だけは見守ってやろうと心に決め、静かに目をこらしている――酒を飲みながらだが――この上なく優しい「神」がいる。婆さんの今までの苦労と深い悲しみを思えば、彼女に成り代わってあの世界の管理者に収まるなど、俺には到底できない。

 そうかといって、人々が――事物が、自らのうちに抱えた闇の重さに耐えかね、孤独の中、打ちひしがれていることを知ってしまった以上、人間に戻り、人の心の暗い部分には目を向けようとさえしない脳天気な男として、快活に、空虚に生きていくこともできない。

 で……全能の玉座が次善の策として――俺の希望にもっとも近い「配属先」として選んだのが、この世界――管理者不在のため、ずっと迷走を続けてきたが、あまたの幸運に恵まれたおかげで、かろうじて荒廃しきるところまでには至っていない「現世」だった。

 ここには、俺が人間として生きていたあの頃のあの世界と同じくらい多くの――数十億にも達する「住人」がいる(老婆のいうことを信じるなら、その「住人」は、豚か夜光虫かクローバーか水素酸化硫黄還元好熱細菌か、そういったものを表す象徴――記号にすぎないかもしれない。が、それでも別に構わない。俺の目に人間として映る以上、彼ら「住人」は等しく見守るべき存在だ)。

 人々は、皆それぞれの思惑を胸に秘め、時に協力し、時にぶつかり合い、そして時には食い合い、殺し合うことまでして、なんとかこの世を渡っていこうとする。大勢の人間が、そうやって押し合いへし合いしていれば、きしみや狂いも当然生まれてくる。婆さんの「世界」に比べれば、だいぶんのんきで安穏であるとはいえ、それでも、人々の不幸は星の数ほどあって、中には、俺が眺めていたあの「現世」の光景と、驚くほど似通った悲惨だってある。例えば……生まれたときから痛みと共に生きてきたために、それなしの人生など考えられなくなってしまった女と、高すぎる自己イメージと、現実の自分とのギャップを受け入れられず、自我を保つため、自己嫌悪にさいなまれながらも、女を殴らずにはいられない男、といったような。


 化粧っ気のない顔のところどころを赤く、青黒く腫らし、脂気のないぱさぱさの黒髪をだらりと胸の下まで伸ばし、ところどころ汚れのついた、粗末な衣服を身につけた女が、生気のない目でうつろに虚空を見つめて、床にどろりと座っている。

 女の目の前には、眉をつり上げ、目を血走らせた夜叉の顔つきの男が背を丸めて立ち、女をにらみつけて、荒い息をついている。

 二人の間には古びて、あちこちほころびた財布が一つ。おそらくは、これが今回のいがみ合いのきっかけなのだろうが……そんなものはただの口実に過ぎないと、女も、男もよく分かっている。実際のところ、男はただ女を殴りたかっただけで、女はそれを黙って受け入れている。ただそれだけのことだ。

 女の顔のいくつかのあざは真新しく、男の、血の気がなくなり、白く見えるほど強く握りしめた拳は、ところどころ血のように赤い筋が走っている。してみると、二人の諍い――というより、一方的な虐待――は、しばらく前から既に始まっており、今は、殴り疲れて体は汗でびしゃびしゃ、心は後悔と恐怖と自己嫌悪でぐちゃぐちゃになった男が、さらに殴り続けるか、それとも、その場でへたり込み、手放しで泣き出すか決めかねている、といった状況のようだ。

(ああ……痛い.熱い。じんじんする。どうしてこんな目に遭うんだろう……どうしてこの人は、私を殴らずにはいられないんだろう……仕方ないか、私がこんなだから……痛いとなんだかほっとするし……我慢しよう……痛いのいやだけど……痛くないのは怖いし……)

 女の散漫な、今にも消えそうなほど力ない思考が俺の中に流れ込んでくる。生まれてこの方「希望」を持ったことのない、果てしなく続く荒野のような心象風景。その中で、無駄だと分かっていながら、細いうめき声を上げずにはいられない、か細い祈り。

 「生前」の、生身の人間だった俺は、たとえその「心の声」を耳にしたとしても、あえてその意味を深く考えず、軽く聞き流し、追いやっていた。

 「幽霊」だったあの頃の俺は、たとえ「心底からの叫び」に心動かされたとしても、なにひとつ働きかける術はないと思い込み、やるせなさと無力感にさいなまれながら、ただ立ち尽くしていた。

 が……今の俺は、違う。

 俺は「高位なる存在の視座」からすべるように地上に降りると、女のすぐ後ろに立ち、腕を広げて、そっと抱きしめた。

 といっても、今の俺も、幽霊の時と同じく、極めてあやふやで希薄な存在だ。だから、女が俺の重さや体温、息づかいやささやき声を感じ取ることは、まずない。ただ……女の、生まれてから今までの境遇に心を痛め、女が今感じているのと同じ心の痛みを感じ、受け入れ、共感する気持ちがこもった掌が体に触れたときだけ、女は軽く、身を縮こまらせる。

(なに……?なんだろう、急に……少しだけ、ほんの少しだけ……なんだか、あたたかくなった……?)

 女の心の中でずっと続いていたうめき声が、ふうっと途絶え、女の疲れ切った顔に、ほんのわずか、穏やかな色が差した。

「なんだ!なにがおかしいんだ!」

 女の気配が変わったことをめざとく見つけた途端、消えていたはずの男の怒りに再び灯がともり、暴力衝動のブレーキとなっていた後悔と自己嫌悪を、一瞬にして焼き尽くした。

「ちくしょう、馬鹿にしやがって!俺を、馬鹿にしやがって!」

 夜叉の顔を大きくゆがめ、大きく体をねじって、拳を振りかぶる。

 その男に向かって、俺は、抱きかかえた女をかばうように、片手を突き出した。

 と、その片手を突き出す勢いのまま、前につんのめるようにして、俺から「もう一人の俺」が分裂、出現し……今や目に涙を浮かべている男の頭を、そっと両手で抱え込む。

 思うように認められないことへの怒りややるせなさへの共感、無力な自分を認められない弱さの許容、後悔や自己嫌悪への慰撫、そのほか、ありとあらゆる「男への感情」が、俺の分身の両手から、じんわりと男の中に流れ込み――なぜか、女を抱きかかえたままでいる俺の中にも、その感覚が伝わってくるのだ――ひび割れた冷たい心の中を、流れ下っていく。

(なんだ?……この懐かしいような、甘酸っぱいような、この気持ちは……?)

 固く握りしめた男の拳から、ふっと力が抜け、同時に、腕全体も失速して、だらりと肩からぶら下がった。

 先ほどまでの怒りや恐怖は、男の顔から姿を消し、代わって、童子が思わぬ場所で見慣れない虫を見つけたときのような、素直な戸惑いが浮かび上がる。

(……おれは、なんで、こいつを殴ったんだっけ……)

 納得のいかないことで叱られた幼児のように唇をとがらせ、必死で自分の思考の尻尾を追いかけながら、それでも、女に対する優越だけは護りたいというプライドからか、

「いいか!こ、これからは、気をつけろ!」

 もはや捨て台詞とした聞こえない調子で言い捨てると、男は、その場を後にした。

 残された女は、突然、長年の痛みから解放された驚きからか、しばらくぽかんと男の後ろ姿を見つめていたが、突然、はじかれたように立ち上がると、骨に残った痛みに時折顔をしかめながら、どこか困惑した様子で台所に向かい、食器を洗い始めた。

 ……明日にはまた、男は女を殴り、女は心を荒廃させたまま、か細いうめき声を上げることになるのかもしれない。

 けれど……今この時、女のうめき声はいつもより短時間で止まり、男が女を殴る回数も、いつよりは少なくてすんだ。

 それは、ほんの小さな変化にすぎないのかもしれない。明日にはまた、元に戻ってしまう程度の、つまらない変化に過ぎないのかもしれない。

 けれど……変化は変化だ。

 明日は今日より、ほんのわずか、ましになるかもしれない――そういう希望を持つのに十分な変化だ。

 男と女が立ち去った後には、元からいた俺と、分裂した俺の二人が取り残された。

 俺/俺たちは、ともに、女の/男のぬくもりが確かに残る両手をじっと眺めながら、唇にわずかな笑みをたたえている。

 俺は、幽霊にあってからこの方、初めて――いや、ひょっとすると、生まれてこの方初めて、完全に平穏な満足感で心が満ちていくのを、ゆっくりと感じていた。



     10

 俺は、希薄で、力の弱い――ただの幽霊と大して代わらないほど脆弱な「高位なる存在」だ。

 婆さんのように「世界はこうあるべき」という理想もないし、ましてや、その理想を完全なものだと信じるだけの自信もない。だから、人々がどのような選択をし、その結果、世界がどのように変容したとしても、介入する気はない。

 人々が、その時代、その場所で、我欲にまみれ、必死で思考し、もがき、あがいて選び取った道筋に、俺のような希薄な存在が、異議を申し立てる権利などありはしないと、心の底から俺はそう思っている。その気持ちを「全能の玉座」が察してくれた結果なのか……俺には、なんの「神通力」もない。

 ただ「思い」を伝え、「共感」することができるだけだ。

 森にただ存在している精霊とか、道ばたの石になんとなく宿っている神とかと同じく、いてもいなくても大して変わらない、空気のような、つまらない「高位なる存在」。

 それが、俺だ。

 けれど……これだけは約束する。

 もしもあなたが、戦い疲れてがっくり膝をつき、立ち上がれないほどのダメージを負ってしまい、そのまま地面に突っ伏してしまいそうになったとき、俺はきっと、そばにいる。

 もしもあなたが、一寸先も見えないほどの暗闇にとらわれ、たった一人で震えながらしゃがみ込んでしまったとき、俺はきっと、あなたの肩に手をかける。

 もしもあなたが、声に出すことすらできない悲哀にまみれ、心が千切れ飛んでしまいそうな苦しみに引き裂かれ、血まみれの手で祈りを捧げるとき、俺はきっと、その手を包み込む。

 そして、あなたに対する思いのありったけを掌に込めて、あなたの痛みを分かち合い、あなたの孤独を味わい、あなたとともに、どこへ向かうとも知らぬ祈りを捧げる。

 もちろん、俺のそんな「約束」など、ただの自己満足に過ぎないもので……あなたにとっては全く無意味な、役に立たないものかもしれない。求めているのは加護であり、御利益であり、救済だというのに、それらを与えようともせず、ただただそばに立っているだけとは、なんて役立たずな、しみったれた「神」なんだ……そんなふうに罵られるかもしれない。

 その通り、俺は力弱く、しみったれた、希薄な存在だ。だから、できうるならば、俺のことなど当てにせず、現世を織りなす一つの確固とした存在として、悩み、もがきながら、世界を――人生を生きてほしい。

 俺は、忘れられた記憶のようにあなたのそばに立ち、あなたがふと求めた瞬間にだけ、ありったけの思いを伝えるためだけに、存在する。


 もし……もしも、俺が思いを伝えることで、あなたが再び気持ちを奮い立たせることができれば――一万分の一、一億分の一でもいい、あなたがもう一度立ち上がる力を得るための手助けになれば、それ以上の喜びはない。

 俺は、いまだにどこかリアリストで、目の前に次々と現れる問題に集中し、手を差し伸べることしかできない。けど、その目の前に現れる千切れかけた糸に手を差し伸べ、そっとより合わせることで、文様の/関係のパターンは保たれ、そして、それがまた、さらに複雑な綾目をなし、いつしか未来を生きる力、すなわち「希望」を産み出すんじゃないか――などと夢想できるぐらいには、理想を信じられるようになったのではないか、と思う。

 俺は、刻々と姿を変え、無二のパターンを描き出しながら、ずっとずっと続いていく世界の――あなたの未来を、静かに見ていたい。それが、俺の願いだ。


 俺は、管理も守護も裁定もしない。ただあなたに寄り添い、共感し、祈り、ともに在り続ける。


 願わくばあなたに、安らかな眠りが日々、訪れますように……。


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