表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽霊は一人たたずむ  作者: 柴野独楽
3/4

5-7

     5

 どういう仕組みになっているのか分からないが、呼び出されて誰かの話を聞かされているとき、気がつくとその「誰か」が、別の人間に代わっていることがある。

 初めてそれを経験したときには、そりゃあ驚いた。乳の出が悪くて、子供がどんどん痩せていくのを、半狂乱で心配している母親の話を聞いていた――聞かされていたはずが、いつの間にか、体のあちこちにできた赤い斑点がどんどん広がり、自分を蝕んでいく不安を吐露する初老の男の話にすり替わっていたんだからな。

 悩み事を口にするときの口調は、大体皆低音で、早口で、一本調子だ。だから、はじめ入れ替わったところに気づかず、じっと耳を傾けていたんだが……どうも話の整合性がとれないんだよ。どうして「ろくなものを口にできないからいけないんだ、子供の成長が遅いのは私のせいじゃないのに、なぜ私が責められなきゃいけないのか」って話を聞いていたはずなのに、それが、「背中にできた特大のできものが破裂して、どろどろと血膿が噴き出し、周囲の皆に避けられ、嫌がられている。どうしたらいいのか」って話に、いつの間にか化けているんだ?、と首をひねりながら顔を上げたら……話し手が別人になっていたんだ。

 なにが起こったのか全く理解できず、しばらくの間、自分の頭がどうにかなっちまったんじゃないか、幽霊として長く存在している間に、思考回路が緩んできたんじゃないか、と疑ったものさ――ま、回路が緩んで、自分が、こんな中途半端な状態で存在していることすら理解できなくなってしまうのなら、それはそれでありがたいんだけどな。

 それはともかく。

 これは最近になって起こり始めたんだが――というか、俺が最近ようやく、その現象に気づいただけなのかもしれないが――どうやら俺は、人々がはっきり口に出して吐露する悩みや苦しみ、祈りだけではなく、心に抱えてはいるものの、「言葉」という形にされない重荷まで、それと悟ることができるようになった――なってしまったようなんだ。

 そのことに気づいたのは、例の、特殊な容貌をした、他人に虐げられてばかりいる女性に呼び出されていた時だった。

 その夜も、彼女はじじいにたかられ、好き放題殴られ、蹴られていた。そして、いつもと同じように、その理不尽な暴力に対し、背中を丸め、両手で頭部をかばいつつ、ただひたすら黙って耐えていた。

 代わり映えのしない、正視に耐えない光景を、それでも俺は――呼び出されたものの哀しさで――じっと見続けなければならなかったんだ。

 と。

 そこに、どこからかか細い声が聞こえてきた。

(痛い……痛い……痛い!……痛い……痛い……)

 殴っているじじいに対する恐怖も、怒りも、恨みも、喜びも、嫌悪感さえもなく、ただ、じじいの拳やつま先が自分の肉体にめり込む瞬間、心電図に記録されるピークのように、一瞬、鋭く反射的に「痛い」とだけつぶやく声。

 痛みから引き起こされるはずのあらゆる感情が消滅し、ただ、「痛み」を単なる刺激として、彼女は受け取っていた。

 といっても、彼女は痛みを積極的に受け入れていたわけじゃない。殴られる衝撃や、その後あざや腫れとなって残り、じんじんと重く体を弱らせるそれらの痛みは、やっかいな、できれば少ない方がいい刺激だと思っているようだった。だが、その反面、自分が生きている限り、痛みはつきまとうもの、完全になくなることなどあり得ないものだと、彼女はごく自然に認識していたんだ。

 これは、俺の想像なんだが……おそらく彼女、生まれてこの方、痛みを感じない日などなかったせいで、痛みが日常の一部と化してしまっていたんだと思う。

 痛みは人生に必ずついて回るもので、それなしの人生などあり得ない。だから、痛みをくれるじじいは、彼女にとって、煩わしくはあるが、毎日の生活に必須のものだと、彼女は認知していたんだ。

 どれほど虐げられ、いじめ抜かれればそうなるのか、俺にはちょっと想像できない。

 けど、まあ……ある意味で彼女は、充足した精神生活を送っていた、といっていいと思う。

 そんな彼女が、一体どうして俺を呼び出すのか、呼び出す必要があるのか……さらに耳を傾けると、それも、聞こえてきた。

 彼女は、祈っていたんだ。

 殴られ、痛みと衝撃が体を揺さぶった直後、「生きてていいんですか?」と祈る。

 蹴られて、体がずれるほど吹き飛び、壁にたたきつけられた直後「生きてていいんですよね?」とまた祈る。

 今まで誰よりも虐げられて生きてきたせいで、彼女は自分が取るに足りない、生きるに値しない人間だと、根強く思い込んでいる。誰からも無視され、厄介者扱いされる彼女が、唯一人の役に立つ……というか、人の目にとまるのが、このじじいに痛めつけられる時間だ。それは、彼女のにとって、自分の存在意義を確認できる、一日で唯一の時間となる。だから、この時間、彼女はすがる思いで、俺に呼びかける。生きていていいのですか?生きていいのですよね?と、繰り返し、繰り返し……。

 なんとも気の滅入る話だよな。

 できることなら、彼女に覆い被さってじじいの攻撃からかばい、「君は、そこまで縮こまらなくてもいいんだ。おどおどせず生きてもいいんだ!」といってやりたい。それが叶わないのなら、いっそ、全てに背を向け、彼女の元から立ち去りたい。が……残念ながら、幽霊の俺には、どちらも不可能だ。

 思いあまって、かさにかかって彼女を殴りつけるじじいを、俺はぎっとにらみつけた。

 と、どうだ。

 じじいからも、「祈り」が伝わってきたんだよ。

 俺の目に映るじじいは、相変わらず、夜叉のような形相で、歯を食いしばり、握りしめた拳を思い切り、彼女にぶつけている。それにもかかわらず、悲痛な、絞り出すようなささやき声で、「祈り」が聞こえてくる……。俺は、はっきり悟ったよ。どうやらこれは、じじいの「内面の声」なんだ、ってな。

 じじいの「祈り」は、恐怖と嫌悪に満ちていた。

 殴りつけてる彼女への恐怖や嫌悪じゃない。じじいは、見も知らぬ女に苛烈な暴力を与える自分を、心の底から嫌い、毎晩のように血も涙もない凶行を犯す自分自身に、震え上がっていたんだ。


 じじいはもともと、他人に暴力を振るうような人間ではなかったようだ。

 むしろ穏やかで、困っている人を見ると助けずにはいられないような、かなりよくできた人間だったんだ。

 それが、あの日……一気に転落した。

 不断の努力により培ってきた地位も財産も、全く意味をなさない世界へと、じじいはいきなり、放り出された。

 それでも初めのうち、じじいは以前と同じような「いい人間」であろうとし続けた。困っている人がいれば手を貸してやり、腹を空かせた親子には、自分の食物を分け与え、進んで汚れ仕事や危険な仕事を引き受けたりもした。

 が……以前はそのような「善行」を施せば、感謝の念を受けたり、それなりのお礼をいただくことができたのに、皆が生きるのに精一杯、という世界では、「無償の行為」は基本、報われない。善意の人間は「だまし、奪い取ってもいい人間」と見なされ、詐欺と侮蔑と搾取の対象にされてしまうんだ。

 それでも、自分の行動に信念があるのならば、善意の人であり続けられたのだろうが……あいにくじじいは、他人を助けた後に自分に向けられる謝意や尊敬の念がなによりも好き、というタイプの人間だった。

 危険を冒し、肉体を酷使し、精神をすり減らして他人に尽くしても、戻ってくるのはぺらぺらの薄ら笑いだけだ、と気づいたところで、じじいは即刻、「いい人」でいるのをやめた。

 ところが……そうなると今度は、どのようにして人と関わっていけばいいのか、全く分からなくなってしまったんだ。

 いい人がいい人でなくなり、普通の人になったのだから、尊敬や感謝などとも無縁になったのだ、と諦めればいいものの、他人にちやほやされていた時の記憶があまりに甘美で、忘れられず……なんとかして再び、人々の賛美を受ける立場になりたいと、じじいは希求するようになった。

 けれども、今まで「善行」により、安易に賞賛されることに慣れきっていたものだから、それ以外の尊崇の集め方が、全く分からない。「自分はたいした男だ、素晴らしい人間だ、皆から褒めそやされて然るべき人間なのだ」という意識と、「現世」での惨めな立場との乖離が、じじいの精神をどんどん変調させ……そして、じじいは女性を殴るようになった。

 じじいは、惨めな自分を殴りつけるつもりで、彼女を殴りつけている。

 殴って、殴って、殴り続けていれば、いつかみすぼらしい自分がなくなり、以前の、誰からも愛される自分になれるのではないか……そんな気がして、殴らないではいられない。けれど、拳を通じて痛みが伝わってくるたび、その痛みは恐怖となって、自分に返ってくるばかりとなる。

 じじいは、哀れな自分を吹き飛ばすつもりで、彼女を蹴りつけている。

 卑小で愚かで無価値な自分を「現世」から消し飛ばしたいという祈りをこめて、目に入る中で唯一、自分より哀れな存在を、蹴り続けている。が、頭のどこかでは、彼女は自分とは別の存在で、自分はただ、虐げられている鬱憤を晴らしたいがため、自分より弱いなにかに八つ当たりしている、この上なく醜悪な存在だと気づいていて……ますます自分への嫌悪がつのっていく。

 ひとしきり暴虐の限りを尽くし、彼女の前から立ち去った後、じじいは、取り上げた食料を口にすることもなく、ドブの中へと放り捨て、せっかく腹に収めた自分の取り分の食べ物までも残らず吐き戻し……汚物に顔を突っ込んで、ひたすら泣く。もちろん、じじいが自己嫌悪の泥沼に頭のてっぺんまで浸かり、もがき苦しんでいるからといって、彼女を虐待していい、ということにはならない。そのことについて、じじいは責められ、罰を与えられるべきだ、とは思う(案外、じじいは罰せられることを望んでいるのではないか、とさえ思う)。だが……。

 以前の俺は、じじいの冷酷さを憎み、できうることなら、じじいを殴りつけ、彼女を助けたいと思っていた――まあ、幽霊の身の上では、そんなこと、いくら望んでもできないんだけどな。

 でも、今は、もし「現世」に関わりを持てたとしても、そんなふうに一方的に、じじいを断罪をするべきか――していいのかどうか――悩んでいる。

 「生前」の俺は考えもしなかったけれど、人間とは、どうやら非常にもろい生物であるようだ。

 安定した精神を持ち、どっしりと社会に根を生やして、なんの悩みもなく生きているように見える人であっても、心の中のバランスは常に不安定で、ちょっと歯車が誤作動したり、高い電圧にさらされたりしただけで、あっという間に「まとも」な居場所から転がり落ちてしまう。生前俺はよく、七時のニュースで流れる数々の事件報道を、ビール片手にソファーに寝っ転がって眺めながら、どうしてあんなバカなことが――どうしてあんなひどいことができるのかと、犯人を「理解不能なエイリアン」かなにかのようにとらえ、正義感あふれる自分とは、別次元に住む存在だと思い込んで、一方的に断罪していた。だが、それはただ単に、自分がたまたま幸運にも「ボタンの掛け違い」に遭遇することなく生きてこられた、というだけであり、何かしらのアクシデントに出くわしていたら、画面の向こうで手錠をかけられ、たばこ臭いジャンパーを頭からかぶせられて連行されていたのは、他ならぬ俺自身だったとのだと、遅ればせながら、ようやく俺は、気づいたんだ。

 そんな俺が、じじいになにを言えるのだろうか?

 「気持ちは分かるけど」「とにかく暴力はいけない」「弱いものに当たるのはよくない」「落ち着いて、冷静になって」「あなたにだって家族がいたはずだ」「両親に恥ずかしいと思わないのか」「そんなことをしても、何の解決にもならない」……みんな嘘だ。薄っぺらで、中身のない、ぺらぺらの言葉ばかりだ。

 俺は……俺は、幽霊という希薄な存在として、変転する「現世」となんの関わりも持たず――持つこともできずにいる今の立場が、この上なく歯がゆい。もどかしい。

 本心から、俺はそう思っている。

 だが……もし万が一、関わりを持てるようになったとして。

 俺に、一体なにができるのだろう……。


 

     6

 時がたつにつれて、俺の元には――湖面の落ち葉がいつの間にか岸辺に吸い寄せられるように――ますます多くの悩み・苦しみが寄り集まってくるようになっていた。

 それほど多くの人間が生き残っているわけでもないのに、環境があまりに荒廃していると、自然、悩みも増えるのだろう。「現世」に生きる老若男女、ほとんど全ての人が、泥沼から吹き上がる泥の噴水のように、吐き出さないではいられないのに吐き出せない思いを――腐敗しきった匂いのこもる、ドロドロした粘つく塊を――「最後のすがりつく相手」たる俺に、見せつけてくる(もちろん、本人たちに「見せつけている」という意識は全くないのだろうが)。

 痛い、ひもじい、苦しい、つらい、哀しい、しんどい、寂しい、いまいましい、むかつく、目が回る、怖い、おそろしい、寒い、ものぐるおしい、吐き気がする、まずい、エグい、心細い、不安だ、虐げられている、搾取されている、見捨てられた、病んだ……ありとあらゆるマイナス感情が、千変万化の事情と状況が、俺の目の前に現れては踊り狂い、地団駄を踏み、転げ回っては消えていく。

 生前、俺の同僚で、テレビを観るときに、リモコンを手から離さず、かちゃかちゃとものすごい勢いで番組を切り替えないではいられない男がいたが――「ザッピング」というらしい――あの男と同様、こらえ性のない何者かが、次から次へとエンドレスに「現実」を切り替え――しかも、基本気の滅入るようなものばかり選び抜いて――無理矢理観させられているかのような状況下に、俺は存在していた。

 その中で俺は、なるべく心を波立たせないようにしながら、目に映るものをただ受け入れ、受け止めるようにしていたんだ。

 端から見たら、どれほど小さな、つまらない悩み事に見えても、本人にとってそれは、生死を分かつほどに重い、苦しいものである可能性がある。しかもその上、じじいの内面を垣間見てしまってからこの方、どれほど傲慢で身勝手に見える人間であっても、その内側には苦悩が荒れ狂い、地獄の業火に焼かれていることだってあるんだ、という意識がつきまとい……誰の、どのような悩みであろうとも、むげに聞き流すことが、俺にはできなくなってしまっていた。

 幽霊たる俺が、語られる悩みを真面目に受け止めようが、いい加減に聞き流そうが、悩みを抱えた本人には全く関係のない話だ。そのことは、当然ながら、重々分かってはいた。が、自分の姿勢が相手に何の影響を与えることができないにしろ、俺が悩みを知る立場にあり、しかもその悩みが切実なものである以上、相手に対する礼儀として、おざなりな態度で接すべきではないと、俺は思っていた――幽霊が「礼儀」を気にしたところでなんになる、と揶揄するのはやめてくれ。俺自身、なんの役にも立たない、全く無意味で、おかしなこだわりだと感じていたのだから。

 ともかく、俺は「苦悩の大いなる流れ」の中で、その苦い水に溺れながら、ひたすらうつむいて沈思黙考し続けていたんだ。

 そんな、修行僧のような日々を送る最中、ふと、なんだか気になる一つの「祈り」があった。

 その「祈り」は、流れに中に一瞬浮かび上がり、俺の脳内に飛び込んできたかと思うと、どこの誰のものなのかを特定する間もなく、再び流れの中に戻り、あっという間に飛び去ってしまった。が……それは、後々まで妙に反響する胸騒ぎを、俺の中に残していった……。


&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’


 聖母様。ああ……聖母様。

 あなたに届いておりますか?

 届くと信じております……届かなくともあなたは気になさらぬでしょうが。

 ついに、やりました。やり遂げました。

 ついに見つけたのです……あなたがお望みのものを。

 これさえ持ち帰れば、きっとあなたを満足させることができる――私は喜び勇んで荷物を荷車に積み、遙かなる道のりを歩いて、歩いて、あなた様のすぐそばまで、たどり着きました。

 ですが、どうやらもう限界のようです。

 しばらく前からやけに毛が抜けるな、と思っていたのですが、一種間ほど前、ついに奥歯まで、ぼろりと抜け落ちました。

 その頃から体がだるくてたまりません。荷車を引いて歩くのもやっとで、一日歩いた後は疲労困憊し、そのまま地面に倒れ込んでしまいます。

 昨日からは、ずっと悪寒が続いています。歯が抜けた後、普通なら止まるはずの出血が今もまだ、じくじくと続いています。

 どうやら私は、あまりにも長く荷物のそばにい過ぎてしまったようです。

 安全、安心、害を受けることなんかない、と聞いていましたが、多分、容器のどこかに小さな割れ目でもあったのでしょうね。そこから出てきたものが、健康体だった私を、ここまでひどく蝕んだのです。

 聖母様。もちろんあなたは、私がどうなろうと、気になさらないでしょうね。

 表向き、私のことを英雄のように、殉教者のように扱い、あたしの亡骸を前に、きっとあなたは嘆き悲しみ、泣き崩れることでしょう。

 ですが私には分かっています。あなたの胸の中は、私を悼む気持ちなど、これっぽっちもなく、荷物を手に入れた安心と喜びで溢れかえっているはずです。

 でも、それでいいのです。

 生まれたままの姿で私の腕の中に抱かれ、私の一挙一動に反応しているように見せかけているときでも、それが全て偽りだと、私には分かっていました。

 分かっていながら、なんとかしてあなたに喜びを与えたいと、それだけを願っていたのです。

 ですから私は、当てのない探求の旅に出ることを引き受けたのです。それを発見すれば、あなたがきっと喜ぶと思ったからです。

 今から私は、荷物を岩陰に隠し、重たい体を引きずって、仲間のところを目指します。うまく行政府側の人間に見つからず、仲間と連絡が取れれば……あなたが求め続けた荷物は、あなたのものになります。

 その瞬間、あなたは私のことなどきれいさっぱり忘れ去り、計画を実行に移すはず。

 それでいい。それであなたが楽になるなら。

 常に虚無を抱えて生きるのは、さぞつらいはず。その責め苦から、あなたが解放されるのであれば。

 さあ……なんとか体を起こすことができました。

 杖にすがれば、歩くこともできそうです。

 このだるさを、苦しさを……あなたはどれほどの間、抱えてこられてのでしょうか。

 もうすぐ、全て終わらせて……楽にして差し上げます。

 聖母様。

 私は……私はあなたを、本当に……。


&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’&’


 ……たったこれだけの短い祈りだ。

 しかも、祈りの相手は俺ではなく、俺以外の「高次の存在」でもなく、実在する「聖母」。あの口の悪い、家族との確執を抱え、にっちもさっちもいかなくなっている、あの聖母だ。

 男のいう彼女の願いとは……一体なんなのか。

 男が見つけてきた荷物とは、一体なんなのか。

 分からないが、そばにいるだけで体に悪影響を及ぼすような代物を使ってかなえる「願い」など、どうせろくなものではない。

 そんな願いをかなえさせるわけにはいかない。

 なんとかして、聖母を――彼女に与する一派を止めなければならない。

 なんとかして!


 だが……。

 俺に一体、なにができるというんだ?



     7

 そして、「現世」は再び、破滅の時を迎えた。


 その日は、なにかの記念式典が行われていたらしい。

 大勢の人間が広場に集められ、整列させられ、はるか遠くにかすんで見える壇上にしつらえられた貴賓席には、将軍をはじめとする行政府のお偉方が、ずらりと勢揃いしている。そのお歴々の前に一人たち、片手を振り上げて何やら熱弁しているのは、少佐だ。

 頭のてっぺんからつま先まで、醜い傷跡に覆われた彼女だが、それでもまだ、その声だけは美しく……やや低めのハスキーな声は、聞くものの耳をとらえ、脳の中にそっとしみこんでくるような心地よさを感じさせる。それもあってか、聴衆は皆静まりかえり、一心に彼女の話に耳を傾けているかのように見える。

 俺は、そんなときに、いきなり呼び出された。

 そして、ひどく戸惑った。

 というのも、「現世」の行政府が管理する土地に住む大部分の人々――ということは、ほぼ「現世」に生きるほとんどの人ってことになる――が集まった――無理矢理集められた?――その集会は、壇上には国旗の一つすら下がっておらず、でかでかと誰かの写真が飾られている、なんてこともなかった。祭壇もなく、かがり火だってたかれていないのだから、「ほとんど宗教色は見受けられない」といっていい(ひょっとすると、実質的支配者の「少佐」が、あえて宗教色を排したのかもしれない)。それにもかかわらず、そこに集まった人のうち、かなりな割合の人間が、「もうすぐだ」「いよいよだ」「待ちに待った日が来た」「ようやくだ」「楽になれる」「ついにこの日が」などなど、期待と安堵に満ちた――なにやら超越的な出来事を期待するような祈りのささやきを、ずっと心の中で念じ続けていたんだ。

 表向き、神妙な、どちらかというと退屈そうな表情を浮かべ、じっと話を聞き入ってるようなふりをしながら、その実、かなり多くの人が、これから起こる「なにか」に、祈るような、すがるような期待を捧げている……はじめの戸惑いが消えた後、俺の頭の奥から「なんだか、ひどくヤバい」という思いが洪水のようにあふれ出てきた。

 なにがどうヤバいのか、分からない。

 そしてもちろん、「幽霊」たる俺が――「現世」と限りなく希薄な関係しか結び得ない俺が――いくら焦ったところで、なにがどうなるものでもない。

 「現世」に対し、俺は完全に「傍観者」なのだと、痛いほど分かっちゃいるのだが……それでもやはり、胸騒ぎは収まらず、かえって高まるばかり。

 期待と不安と祈りと予感が渦になって宙にどんどんわだかまっていく中、それまでいかにも軍人らしく――軍人ではないはずなのだが――簡潔で、力強く、必要なときに必要なだけ声に力を込める感じで演説していた少佐の口調が、不意に変わった。

「……ということで、例年通り、今年も無事この日を迎えられたことに感謝の念を捧げ、年に一度のこの集会を終了したかったのだが……残念なことに、そうもいかなくなった」

 それまで心折れた羊の群れのようにうなだれ、押し黙っていた聴衆が、ざわ、とうごめいた――ずっと「祈り」の念を発していた連中は、ことに激しく。

「行政府は、以前より人民諸君の一部に不穏な動きがあることを察知し、ここ数ヶ月、ひそかに内偵を進めてきた。その結果、恐るべき陰謀が進行中であるという事実を把握した。行政府に対するクーデターにとどまらず、人民諸君を全てこの世から葬り去ろうという、極悪冷血なテロが進行中であったのだ!」

 ざわめきが高まり、どよめきになった。

 いつもならすぐさま、行政府の役人が「私語は慎むように!」「静粛に!」と警棒片手に介入するところだが、この時の少佐は、あえて混乱をそのまま放置し、群衆の不安が否応なく高まっていくのを待っていた(おそらく、その方が、この先起こる出来事をより劇的に見せる、と踏んでいたのだろう)。

 恐怖に裏打ちされたどす黒い期待だけを残し、どよめきの波が引いていったところで、少佐は、再び声を張り上げた。

「幸いなことに、行政府は事前に計画の実行前にその全貌をつかみ、首謀者らを逮捕することに成功した。行政府は、今後このような目論見が二度と企まれることのないよう、この時この場、諸君らの目の前で、彼女らの公開処刑を実施する!」

 高らかな宣言とともに、演壇のすぐ脇に控えていたラッパ手たちが、行政府をたたえる崇高な曲を高らかに吹き始める。甲高い金属音が鳴り響く中、頭に粗末な布袋をかぶせられ、両手を背中で縛られた数名の男女が、警棒で腰をつつかれながら、壇上へと上がり……全員が整列したところで、一挙に顔の布袋を剥ぎ取られた。

 その途端、悲鳴と怒号、嘆声とため息が爆発し、悲痛な感情の原子雲となって、広場一帯を包み込んだ。

「まさか!」「聖母様!」「そんな!」「どうして!」「嘘だ!」「やめて!」「なにかの間違いだ!」「バカな!」「許さない!」「ちくしょう!」「ふざけるな!」「聖母様がなんで!」「誰だ、裏切ったのは!」「ひどい!」「そんなはず!」――声に出された思いも出されなかった思考も、一様に鋭い矢となって、俺を刺し貫いていく。

 その中で俺は、やはりそうなったかという納得と、どうしてこうなったのかという無念に二分された感情に身動きを封じられ、その場にじっと立ち尽くしていた。

 と。

 それまで群衆の一番後方、広場の一番後ろあたりから眺めていたはずの視点が、不意に切り替わり、俺は演壇のすぐ前やや上方――聖母たちが立ち並び、そのやや後ろに少佐たち「実務部隊」、そしてその後ろにしつらえられた貴賓席に座る将軍たちを俯瞰するような位置から、空中に見えない虫ピンで固定されたような感じで、主要人物たちを眺め下ろしていた。

 後方にいたときにはぼやけて見えなかった彼ら彼女らの表情が、そこからだとはっきり見て取ることができたのだが……驚いたことに、聖母は微笑んでいた。

 それも、恐怖や失望を隠すための虚勢を張った笑みではない。ごく自然な笑みで、顔を輝かせていたのだ。

――ようやくだぜ。ようやくここまで来た!ようやくあたしは解放される……!

 「聖母」の呼び名にふさわしい可憐で清純な笑顔の裏側から、ひどく乱暴でがさつな――しかし、純粋な喜びに満ちた思考が伝わってくる。

 どうやら彼女、純粋に、心底からこの後に起こる出来事を期待しているらしい。

――姉さん、あんたはあたしを処刑せざるを得ない。じゃないと示しがつかねえからな。けど、処刑によりあたしが消滅すれば、ほぼ同時にこの場所も――群衆も消滅する。かといってあたしを処刑しなきゃ、行政府はおしまいだ。今までくすぶってたみんなの不満が爆発し、将軍はじめ、皆殺し。管理機関を失った人間どもは、散り散りになり……やがて死に絶える。さ、どうすんだ?賢くてお優しいお姉様?アンタになにができる?あ?できるものならやってみろ!

 完全な勝利を確信しているのか、聖母の笑顔からは、余裕すら感じられる。それとは対照的に、少佐は――顔中傷跡に覆われているため、わかりにくいが――頬をこわばらせ、なんとも剣呑な雰囲気だ。

――してやったりと言わんばかりのその顔。さぞ、いい気分なのでしょうね。ええ、確かに私は追い詰められている。でも、それはあなたが思う理由とは違う。あなたの仕掛けたちゃちなトラップなど、とっくに発見済み。あなたを処刑したところで、この町――この世界は問題なく続いていく。あなたの思い通りになど、なりはしない。それはいい。それは問題ない。問題なのは……私が「守護者」だということ。守護者として、あなたを処刑しなければならないということ……。

 と、そこへ、後ろに座っている将軍の、悲鳴のような思考が割り込んでくる。

――ああああああああっ!わたくしは、わたくしはどうしたらいいのでしょう?確かに、確かにわたくしは、ええ、聖母と関係しました!でも、それは聖母の方から誘ったから!日頃の激務で疲れているあなたに心からの癒やしを与えて差し上げたいからと、彼女の方から誘惑したからなのです!その誘いにうかうかと乗ってしまったわたくしは、確かに愚かではありました!ですが、あの時のわたくしは、切実に、心の底から癒やしを、慰めを必要としていたのです!それが、それがまさか、こんなことになるとは……!

――くそ、あのエロオヤジ、何度も何度も、しつこくあたしを汚しやがって!目玉ひん剥いて、鼻の穴おっぴろげて腰振って、前だけじゃなく後ろまで!くそ!何度体を洗っても、肌が粘ついてる気がした!ひどい口臭で、何回ゲロ吐きそうになったか!でも、そんだけの価値はあった。おかげであいつを籠絡できた。今じゃあのバカは、あたしの奴隷だ。あたしの言うことならなんだって聞くロボットだ。皮肉だな姉さん、アンタの作り上げたロボットだってのに、よりによってこのあたしに乗っ取られるなんてさ!あはははは……。

――あなたは、人間を裁くばかりで、その内面をちっとも見ようとしてこなかった。そのせいで、人間がどれほど愚かで卑小で醜い生物なのか、理解していない。あの男にはね、品性なんてかけらもないの。自分が助かるためなら、自分がいい目を見るためだったらなんだってする。それが、あの男なの。

――いくら冷徹な人間を演じてみせたって、姉さんの本質はただのお人好し。最後の最後で人間を信じようとする。どんだけ人間が臭くて弱くてずるいケダモノか、分かってやしない。だから、プランを一つ発見しちまえば、それが全てと思い込み、安心しちまう。結局、勝つのはあたしなのさ。

――ええ、ええ、もちろんわたくしは、聖母から渡されたものを、少佐に渡しました!いくら脅されたからといって、行政府を裏切って確実に我が身の破滅を招くほど、私は愚かではありません。ええ、ええ、たとえ関係をばらされようとも、行政府の後ろ盾さえあれば、命だけは保障されますから。でも、まさか、まさかその後に、あんなことを強制されるとは!わたくしはいったい、どうすれば……!

――自分(てめえ)に危害が及ぶことを、あいつは絶対やりゃしねえ。ヤバいと思った瞬間、責任全て丸投げで、ケツをまくって逃げ出しやがる。けどな。どんだけ他人に害があろうと、自分に火の粉がかからなけりゃ、あいつはなんだってやるのさ。たとえば、今日の式典準備のため、この広場を整備する作業員に、数名の見知らぬ人間を紛れ込ませる、なんてこととかだったらな……。

――分かってる、これはどうせ私の負け戦。どれほど奮闘したところで、遠くない将来、いつか必ず、滅びの日はやってくる。裁定者として、あなたがその日を待ち望んでいることも、私にはよく分かっている。だから、私は将軍に常に監視の目を光らせ、不審な行動をすればすぐに分かるようにしておいたの。だから……あなたが私を出し抜いたつもりで、裏の計画を進めていたことも、分かっていたの。分かっていながら、あえてなにもしなかったのよ……。

――あああああっ!今になって、わたくしは恐ろしいのです!なにか、とんでもないことに加担してしまったのではないかと思えてならないのです!今すぐ席を立って、一目散に逃げ出したい!けれど、そんなことをすれば、少佐は必ずわたくしを撃ち殺すでしょう。いやだ、わたくしは死にたくない!わたくしは、わたくしはどうすれば……。

――この広場のすぐ近く、廃屋を取り壊したがれきが積み上げてあるのに紛れて、それはひっそりおいてある。長いこと眠り続けていたし、きちんと作動するかどうか、危なっかしい代物だ。けどな、万一作動しなくなっていい。罠は一つじゃないからな。他にも数カ所、体を蝕む灰を降らせる物質が、この広場を囲むように、あちこちに隠してあるのさ。そして、その全てに起爆装置がつけられて……このあたしとつながってるんだ。

――守護者に絶望は許されない。たとえどれほど無駄な努力だと分かっていても、できるだけ多くのものを、一分一秒でも長く生きながらえさせるために、奮闘しなければならない。それが、守護者の本質的性質だから。だけど……人間のふりをして長く人間に交わる間に、私は、分からなくなってしまった。どうせ滅びると分かっているのに、体中から血の汗が噴き出すほどの苦労を重ねて生き延びることに、一体どんな意味があるのか。ぼろをまとい、寒さに震え、その日の食べ物を得るため過酷な労働に従事し、傷つき、痛めつけられ、悩み、もがき苦しんで、希望のない明日を迎えることに、どんな救いがあるのか。私は、分からなくなってしまった。私は、守護者失格だ……。

――姉さん。アンタは、あたしを撃つしかない。行政官として、法の執行者として、それ以外の行動は許されないから。そして、あたしを撃ったその瞬間、あたしの中のスイッチは作動し……この世界は終わる。それが、裁きだ。姉さんもあたしも、生き残った人間全てを引き連れて、安らかに消滅し、穏やかで優しい、虚無の世界の住人となる。それが、あたしの、裁定者としての最後の裁きだ。だがな……本当は分かっているんだ。裁定とは、本来、世界のバランスを保持し、安定させるため、やむを得ず最小限行うべきことであって、世界そのものを消滅させることではない。ルールを適用すべき場そのものを消滅させることは、究極のルール違反になる。あたしは、裁定者失格だ……。

――私は今まで、面倒な調整や修復を、全てあなたに任せ、興味の赴くままに世界を変転させ、思いついたままに転がしていくことばかりにかまけてきた。おかげで世界は、予測不能な形へとねじれ、変形し、ゆがんで、取り返しのつかないことになってしまった。そうなって初めて、私は、自分がいかに無責任で傲慢だったかを理解し……なんとか世界を正常な形へ戻そうと、遅まきながらあがきもがいた。けれど……それも、結局はあなたの、そして人々の苦難をいたずらに長引かせるだけだった。わたしは、なんの役にも立たない、つまらない存在だ。もう全て、終わりにしよう。全て終わりにして、まっさらの、きれいなところへ……。

――あたしは今まで、細々した調整にばかりかまけて、人々を本気で理解しようとしなかった。おかげで世界は、予測不能な形へとねじれ、変形し、ゆがんで、取り返しのつかないことになってしまった。そうなって初めて、私は、自分がいかに無責任で傲慢だったかを理解し……なんとか世界を正常な形へ戻そうと、遅まきながらあがきもがいた。けれどそれも、結局は姉さんの、そして人々の苦難をいたずらに長引かせるだけだった。わたしは、なんの役にも立たない、つまらない存在だ。もう全て、終わりにしよう。全て終わりにして、まっさらの、きれいなところへ……。

 広場に立ち並ぶ人々に言い聞かせるためだけに少佐が口から発しているむなしい御託が、俺の耳をすり抜けていく。

 少佐の右手が、腰のホルスターから拳銃を引き抜き――ちなみに、銃殺は「選ばれた立場のもの」だけに与えられる、光栄ある処刑だ――ゆっくりと、聖母のこめかみに押し当てる。

――姉さん。かわいそうな姉さん。最後の裁きを押しつけてしまって、本当にごめんなさい。

――あなた。かわいそうなあなた。最後までどうしようもない姉で、本当にごめんなさい。

――一緒に、消えましょう。

――皆と一緒に、きれいに消滅しましょう。

――さようなら、世界。

――さようなら、あなた。

――さようなら、万象。

――さようなら、母さん……。

 引き金にかけた少佐の指に、ゆっくりと力がこめられていき……。

「待てよ」

 そして俺は、自分でも気づかないうちに、「声」を上げていた。


 「現世」で生きている時の俺は、仕事や趣味に全力投球する男だった。

 よく眠りよく食べ、よく体を動かし、よく笑い、目の前の「やらなければならないこと」に集中する。そうやって、毎日を過ごしていた。

 後輩や年下の友人たちからは、自分で言うのもなんだが、かなり慕われていた。俺の家で夕飯を食べさせたり、どこかに飲みに行ったときなんかに、「先輩、実は……」と打ち明け話をされることも多かった。

 そんなとき、俺は、そうだったのか、大変だったな、元気出せよ、お前だけが悪いんじゃない、タイミングなよくなかったな、気にするなよ……なんて言葉を並べ立て、酒を片手に相手の肩や背中をバンバン叩いていた。そんな俺に、相手はたいがい、困ったような、ちょっと恥ずかしいような笑みを浮かべ、ちょっと気が楽になりました、ありがとうございます、なんてことを言っていたものだ。

 俺は、にっこり笑ってまた肩を叩き、酒やつまみを勧めて……そうやって、他人と距離を取っていたんだと思う。

 つっかえることのない、流れるような言葉で――あらかじめ用意された、当たり障りのない言葉で、人の心を揺さぶることなんかできやしない。そんなものは、心の表面のけば立ちを、なでて直してやる程度の効果しか及ぼさない。いや、もちろんそれはそれで、多少は人の役には立つのかもしれないが……心の奥底にある、本人さえもがもてあまし、恐怖するようなどす黒い塊や、荒れすさんで空っぽの、廃墟のようになった心象には、まるきり歯が立たない。

 それでいいと、俺は思っていた。

 周囲の人間の心の闇から、あえて目をそらし……そんなものが存在することにすら気がついていないようなふりをして、そのうちの誰かが心を病んだり、自ら命を絶ったりすれば、どうしてこうなる前になにも言ってくれなかったんだ、と悔やんだり、嘆き悲しむようなふりをして――もちろん、それなりに本気で後悔したり、慨嘆したりはしていたのだが――その実、心のどこかでは、自分の心の闇に食われたのなら、仕方がないねと、冷めた表情で肩をすくめていたのだ。

 先のことはあまり考えず、目の前のことに集中し、一つ一つ解決し、乗り越えていく――軍人だった父の影響からか、幼い頃から俺は、現実に即した、リアリストとしての人生を歩んできた。

 敵が多く、厳しい社会を生き抜いていく上で、リアリストであること――目標の難易度と、自分の実力とを冷静に評価し、実現可能であるかどうかを見極めた上で、できることを一つ一つ積み重ねていく――は、かなり有利に働く。けれど、その反面、どうあっても実現不可能に思えることには、はじめから手を出さないようになっていく。

 人にはそれぞれ、自分の人生をかけて培ってきたものの考え方、感じ方があり、それらについて、他人がどうこう言う権利はない。そして、たとえあれこれ意見したとしても、長い年月をかけて熟成された「自らの根幹をなす考え方」を変えさせることはおろか、その信念にひび割れを生じさせることすら不可能だ――まだ十五歳を迎えてすらいなかった頃、友人との間のどうしても埋まらない溝に絶望し、鬱々とした時間を過ごす中で、俺はそんな「悟り」を心に抱くことになった。

 以来二十年近く、その「悟り」を心の柱の一つとし、明朗快活な脳筋野郎の仮面をかぶり、決して他人に嫌われぬよう、けれど、決して人に深入りすることもなく、俺は暮らしてきた。どれほど心を砕き、人に働きかけても無駄なのだから、端からそんな努力はやめよう、人間同士の心の交流、なんてものは最初から諦めて、表層をそっとなで合う程度の付き合いだけをしていこうと、「現世」を離れるその時まで、心に決め、実践してきたのだ。

 数人の女性と付き合ったものの、結局結婚にまで至ることなく、たいがいは短い交際で別れを告げられるのも、おそらく、俺のこの「対人規定」が影響していたのだと思う。付き合い始めこそうまくいったとしても、互いに深く知り合うようになってもなお、肝心の所で身をかわし、心の深いところで拒絶を示す相手と、長い時間をともに過ごす気になど、誰もなれなかったのだろう。

 「リアリストとしての自分」に命ぜられるがまま、はじめから諦めの境地に立って人と付き合えば、余計な労力を払うことなく、波風立てることもなく、平穏に、安楽に時を過ごすことができる――肌寒い孤独とひきかえに、だが。

 けれど……それでは、だめだ。

 たとえ非効率であっても、無駄な努力であっても、時には、自分の全てを賭けた言葉、魂の底から絞り出した言葉で、相手と関わらなければならない。

 幽霊となり、様々な人間の心の声に、否応なく耳を傾ける――傾けざるを得ない立場になって、それまでずっと見ないようにしていた懊悩や切実な祈り、やるせない後悔や我を忘れるほどの憤怒、そして、出口のない悲哀を目の当たりにして、そのたび俺は、新たな発見と、異質な思考とで、足下の地面が崩れ去るほどの驚愕を味わってきた。そしていつしか、彼らの考えに影響され、反発し、共感を覚え、同情し、怒りにまみれて、尊敬の念を抱くようになった。さらに、それだけでは飽き足らず、自分の意見を相手に伝えたい、深いところでの心の交感を得たいと、希求するようになった。

 ところが、どれだけ相手になにかを伝えたくとも、決してそれを伝えられず……やるせない思いを抱え、ただ、相手の言い分を見聞きするだけの立場に甘んじていた。

 それは、俺の……幽霊に与えられた特性だと、俺は思い込んでいた。

 いや……それは確かに、幽霊に与えられた特性だったのかもしれない。

 しかし、その特性を与えたのは、一体誰だ?

 なぜ、その誰かに与えられた特性に、自分は縛られなければならないんだ?

 それよりなにより、俺は本当に本気で、心の底から、誰かになにかを伝えたいと思ったのか?

 「現世」にいたときと同様、どこかで「仕方がない」と諦め、それ以上のことをしようとしてなかったのではないか?

 俺は……俺は「幽霊」「観察者」なんていう非日常的な立場に成り下がってさえ、リアリストである自分に縛られ、無駄だと思われる努力はすぐに放棄し、たった一つの望みさえ、諦めていなかったか?

 もちろんその時は、こんなに理路整然と、様々な思考を巡らせていたわけじゃない。後から考えると、多分こんな風であろうと思われる「思い」が、ぐわっといっぺんにどこからか噴き上げ、洪水となり、「悟り」も、リアリストとして生きてきた自分も、意識そのものすらも全てなぎ倒して……俺は、一心に求め祈る「声」そのものとなっていた。


「待てよ!」

 つらいのは分かる。いっそ、消滅した方がきれいさっぱり美しいのも分かる。でも……待ってくれ。


 「現世」のどこかで「ぴしり」となにかが砕ける音がした。


「待てよ!!」

 どれほどくそったれの明日でも、明日は明日だ。それは、なにひとつ持たないものでも、ただ一つ持つことを許される、たった一つの特権なんだ。だから……待ってくれ。


 氷を押し当てられた熱いガラス瓶のように、「現世」のてっぺんからつま先まで、びし、とひび割れが走った。と、見る間にそこから細かいひび割れが、縦横無尽に広がっていく。


「待てよ!!!」

 俺に、そんなことを言う権利なんかないのは分かってる。でも、それでも俺は、俺の全存在を賭けて、言わなければならない。言わないではいられない。くそったれで馬鹿馬鹿しい、生きがいのない世界でも、それでも、そこは美しい。何者にも換えがたいほどに、尊いんだ。だから……待ってくれ。


 ひび割れは、蜘蛛の巣のように細く、細かく、一面に広がり、くまなく「現世」を覆い尽くしていく。


「ああああああああああああああああああっ!」

 言葉にならない悲哀の声が、慟哭が、悲鳴が、悲嘆が、もはや俺の口とは思えない部分から、一挙にほとばしった。

 同時に、「現世」は極薄の水晶のような音とともに、一挙に砕け散り、粉々になって、目の前から消滅した。

 雪のように降りかかる世界の断片に、思わず顔を伏せ……。

 

 ……それから、どれくらい時間がたったのだろう。

 我に返ると、俺は、「現世」の最後の記憶にある、あの懐かしい公園に立ち……目の前のベンチに座る老婆を、ぼんやり見つめていたんだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ