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幽霊は一人たたずむ  作者: 柴野独楽
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     3

 俺は「現世」の人間に対し、どうあがいても言葉をかけたり、触れあったりできない。これだけでも十分へこむ状況だというのに、さらにそれだけじゃなく、身振り手振りとか、口パクとか、手信号とかいった、ありとあらゆる「意志や感情、想いといったものを伝える手段」を使うことができないらしい。

 どこのどいつが、「幽霊」にこんな特性を備えさせたのか知らないが……初めてそのことに気づいた時には、まあへこんだ。なにしろ、この先どれほどの間生きられるのか――おおっと、違うな――存在し続けられるのか知らないが、その間ずっと、誰とも、どんな方法でも意思の疎通を図ることができないって、分かってしまったんだから。

 俺が、この憂鬱な事実に気づくきっかけになったのは、ある一人の女性に「召喚された」時のことだった。

 彼女は……どう言ったらいいか、すごく「人間ばなれ」した人だ。

 と言っても、表向きは、きちんと社会の中に溶け込んで――社会というほどの規模でもないが――生活している。

 普通じゃないのは、彼女の容姿と、俺を呼び出した時に聞かせる話だ。特に話の内容ときたら、なんというか、妙に上から目線で、およそ人間が思うようなものではない――将軍なんかが訴える悩みや恐怖などとは全く次元の違うもののように、俺には思えるんだ。

 ひょっとすると、彼女、「現世」における生活の厳しさに耐えかね、精神が壊れてしまい……誇大妄想を抱いてしまっているという、それだけのことなのかもしれない。だが、それにしては、話の端々の整合性がきちんととれているようにも思える。

 どちらにしても、彼女の話は、聞いていると、なんだか不安な気持ちにさせられる(幽霊の俺が不安を感じるなんて、おかしく聞こえるかもしれないが……不安なものは不安なんだ)。

 そして、肝心なのは、彼女、その不安な話を、完全に「俺に向けて」話している、と言うところだ。

 つまり彼女、どうやら俺の姿がはっきり見えているらしいんだ。

 初めて彼女のところに「出現」した時には、そりゃあ興奮した。なんとかして意思疎通を図ろうと、いろいろやってみたんだ。ところが……。


 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-


 ……なに、黙って見てる?

 そんなに自傷する女が珍しいか?

 なんだ、その非難がましい目つきは。

 私は、自分の持ち物である体を、自分で汚しているだけだ。誰にも迷惑をかけちゃいない。なのに、どうしてお前に、そんな目で見られなくちゃいけないんだ?

 目障りだ。どこかへ行け。

 ……なにしてる。どこかへ行け、といってるんだ!行け!行かないと、跡形もなく消滅させるぞ!


 ……やめた、馬鹿馬鹿しい。

 どうせお前も「あの方」が気まぐれで送り込んできた存在なんだろ?そんなものに腹を立てたところで、どうしようもない。

「一度決められたルールは、世界が終わるまでそのまま」

 神聖なる掟にあらがい、お前を消そうとすれば、きっと、とばっちりでこっちもひどい目に遭う。でなきゃ、消したと思って安心してたら、次の日平然とした顔で、またひょっこり現れるとかな。「あの方」のいやらしさからして、きっと後者だ。ゴキブリのように、潰しても潰しても、また性懲りもなく現れ、私の神経を削ろうって計画だ。

 ムカつく!

 そうは思い通りになってやるものか!

 お前!この上なくいらつく、ゴキブリのような、見てるだけでつばを吐きかけてやりたくお前!だが……いいさ。存在を許してやる。

 それでなくても、今日は人を殺しすぎたからな。お前を消滅させるだけの、気力もわいてこない。

 せいぜい飽きるまで、好きなだけ、そこで私を眺め……嘲るがいい。


 どうだ、私は、醜いだろう。

 片目で、片耳は半分そげ落ち、片方の乳房は焼け焦げているからな。

 両手首は、傷跡が醜く堅く盛り上がり、それが層になって、トカゲのうろこのようになっているし。

 こんな女、とてもじゃないが抱く気になれないと、そう思うだろう。

 なにも言うな。言わなくても、お前の気持ちなど分かっている。その傲慢で軽薄な表情を一目見れば、お前の考えていることなど、すぐに分かる。

 ああ、そうだ。私は醜い。

 一目見るだけで吐き気を催すほどに。触れるのでさえ、ためらうほどに。

 仕方がない。自分で選んだ道だ。

 人一人殺すたびに一筋、「殺せ」と命じるたび一筋、ナイフで自分を傷つける。あの日、初めて人を殺したあの日から、私はそう決めた。そう決めないではいられなかった。

 それからずっと私は、体中が醜い傷跡だらけになっても、そのルールを守り続けている。

「一度決められたルールは、世界が終わるまでそのまま」だからだ。


 私が初めて殺した人間は、臨月を迎えた母親だ。

 「世界」が変転の時を迎え、この星に溢れかえっていた人々が、一挙にその数を減らした「あの日」のことだった。

 その母親は、すでに崩壊が始まっているというのに、シェルターの扉を開けようとした。

 扉の外に取り残された、お腹の子の父親を助け入れようとしたのだ。

 それは許されない行動だった。一人の若者を助ける代わり、そのシェルターに逃げ込んだ数万もの人々の命を、危険にさらすことになるからだ。

 残念ながら、若者の命は、諦めるよりほかない。若者本人にだって、それは分かっていたはずだ。

 ならば、潔く自分の命はあきらめるべきだった。美しい妻と、まだ見ぬ子の命が助かったことを喜び、扉に近づかず、どこかで、降りしきる灰に埋もれる町をぼんやり眺めながら、ゆっくり死を迎えればよかった。あるいは、ひと思いに、ビルの屋上から灰とともに地面へ舞い降り、そのまま灰に埋もれてしまえばよかったのだ。

 だが……若者であるがゆえの愚かしさと臆病さに衝き動かされ、若者は、扉を叩いてしまった。そして、その妻である若い女も、母親である自分を忘れ、若い女特有の激情と、連れ合いの男によく似た愚かさを発動し、扉を開けようとしたのだ。

 どれほど止めても、どれほど言い聞かせても、女は止まらなかった。半狂乱で扉に近づこうとし、警備員がやむを得ず押さえつけると、臨月近い腹を押さえ、苦しんでいるふりをした。慌てて介抱しようとした隙を突いて、女は、警備員の武器――スタンガンを奪い取り、周囲に群がった人間に片端からそれを押し当て、無力化した。そして……扉の開閉装置へと突進したのだ。

 ところが……女には、一つ誤算があった。

 私だ。

 スタンガンを押し当てられ、私はとっさに、周囲の人間に合わせ、床に転がり、もがき苦しんでいるふりをした。が……当時の私は、たとえどれほど大きな傷を作ろうとも、まるで痛みを感じず、数時間から数日で、跡形もなく治すことができた。そんな私に、電撃の衝撃など、蚊が刺したほどにも効果はなく――皆がもがき苦しんでいようとも、私一人だけは、いつもと変わらぬ行動をとることが可能だったのだ。

 つまり……その時、私を置いて他に、彼女を止められる人間はいなかった。そして、彼女の行動を許し、多くの人間の命を危険にさらすことは、絶対許されなかった。

 だったら、やるしかない。

 私は、その頃、海外ブランド製の、メタルでできた、丈夫で書き味の素晴らしいボールペンを愛用していた。そのペンを胸のポケットから引き抜き、そっと床から起き上がると、コンソールに向かう女の背中にとりつき、私を振りほどこうと暴れる女の左の眼窩のめがけて、力一杯ペンを突き立てたのだ。

 顔面に炸裂した痛みに、女は困惑と恐怖と怒りの入り交じった、悲鳴とも怒号ともつかないわめき声を上げ、両手で顔を押さえようとした。

 その手が顔に達するより前に、私は素早くペンを引き抜いた(その瞬間、眼窩から、血と、眼球の内部に詰まっていた液体とがどろりと流れ出たこと、ペンの先端には、眼球の一部がくしゃくしゃとひものようにまとわりついていたことを、今でも鮮明に覚えている)。それによって新たに生じた痛みに驚き、女が大きくのけぞった、その瞬間を狙って、私は、今度は心臓に――ああ、そうとも、その時の私は、限りなく冷静で、落ち着いていたんだ――ペンを深々と突き立てたのだ。

 ひゅっ、と大きく一つ、女は大きく息を吸い……反射的に、突き刺さったペンを、両手でつかんだ。が……それがかえってよくなかった。

 心臓の鼓動にあわせ、胸に深々と開いた傷口から、血が噴水のように噴き出し、噴き出し、噴き出して……女は、膝をつき、その場にくずおれた。

 自らの鮮血でできた血だまりを袖でこすり取るように、右肘、左肘、右肘とかわるがわる腕を動かし、コンソールににじり寄ろうとし……最後に力尽きたのか、ごろりと仰向けに転がって、女は息絶えた。

 私は、その一部始終を――といっても、女がこときれるまで、せいぜい2、3分ほどしかなかったのだろうが――芋虫の動きを観察する研究者のような目つきで見届けると、ゆっくり女に近づき、女のかたわらに転がっていたペンを拾い上げ……そのまま、自分の右目に突き立てた。

 ぐじゅ、と右の耳元で――ただし、耳よりも左、鼻のすぐ脇あたりで――嫌な音がしたよ。それから、一瞬遅れて光り輝くような痛みがはじけた。

 当時の私なら、もちろん、痛みを感じないようにコントロールすることもできた。だが、あえて私は、その痛みを感受した。「守護者」たる自分が、やむを得なかったとはいえ、守るべき存在を、我と我が手で殺してしまったのだ。その代償として、彼女の感じた痛みの幾分かなりとも感じることが、自分の義務であると、そう思ったのだ。

 心臓の拍動と共に炸裂する痛み。そして、涙よりも熱く、どろりとした液体が頬の上を流れ下っていく感覚。そんなものを感じながら、人々がスタンガンの衝撃から回復し、駆けつけてくるまで、私はじっと、死んだ女――私が殺した女を見つめていた。女とともに、自分の中にある何かも一緒に殺してしまったのだ、ということを、じっくりとかみしめながら。


 それ以来、私の傷跡は、決して治らなくなった。

 理由は、分かっている。あのとき私が、自ら傷つけた人間の痛みを、その幾分かなりとも感じたい、と願い、殺害した時の罪悪感を、色あせることのない記憶として、生涯持ち続けたい、と願ったからだ。

「一度決められたルールは、世界が終わるまでそのまま」。

 あのとき私は、自分の甘受していた特別待遇を振り捨て、より人々に――私の守るべき存在に近しいものとして存在することを選んだ。

 もちろん、後悔などしていない。

 あの時以来、私は、大所高所から、そっと見守るように人々を包み込むのではなく、もっと直接的に、人を護る立場に立つことを選んだ。今の行政府の前身である「管理委員会」を組織し、地上に残されたわずかな資源を確保。一人でも多くの人間がこの苦境を乗り越え、生き延びられるよう、徹底した管理を行った。

 そうしなければ、近い将来、人間が滅亡してしてしまうのは目に見えていたからだ。

 だが……厳密な資源管理を行えば行うほど、それに逆らい、反抗する人間も増える。

 昔の――余裕あふれる世界にいた私なら、そのような反抗も、人間社会に彩りを与える物として、歓迎しただろう。それどころか、「人間の尊厳を守護する者」として、反乱分子と主に闘い、圧政からの解放を目指したかもしれない。

 だが……今となっては、そんな贅沢はできない。

 「人間の尊厳」も確かに大事だが、それも「人類の存続」あってのこと。その最低条件を脅かすような者たちは、全力で排除しなければならない。

 私は、管理社会に逆らう者たちを片端からとらえては、死刑や追放刑に処した。

 追放刑といっても、かろうじて統制が保たれている行政府の管理地以外で、人間が生き延びることは、ほぼ不可能なのだから、実質それも、死刑のようなもの。ただ、私の目の前で、私の手によって殺さなくてもすむ分、ほんの少しだけ気が楽になる、というだけ。処刑による罪悪感は、死刑と何ら変わらない。

 だから……私は人々を処刑するたび、刑を宣告するたび、自ら肉体を傷つけ、痛みを刻みつけてきた。

 その数……3865人。

 すなわち、私の体には、3865の、決して治らぬ傷がある、ということだ。

 

 私は、決して後悔などしてない。

 守護者として、やるべきことをやり、支払うべき代償を支払った……それだけだ。

 昼間、執務に追われてやや意識から遠ざかっている傷の痛みが、夜になると、赤黒く腫れ、血をにじませ、ギリギリと私を責めさいなむのも、仕方のないこと。私が自ら選んだ道なのだ。

 だが……最近、ふと徒労感に襲われるようになった。

 こうまで必死に働き、生産性を上げよう、少しでも多くの人を生き延びさせようとしているのに、気候は好転せず、努力も作物も、なかなか実を結ばない。

 つらい生活の上にもつらい生活を人々に強いているというのに、その生活を好転させるめどは一向に立たず、かえってどんどん厳しくなる一方。

 人心はどんどん荒み、日に日に反抗的な人間が増える。その結果……処刑しなければならない人間も、増える。

 手をこまねいてみていれば、人間はとっくに滅びていた。

 だが……こうして手を汚し、へとへとに疲れ切るまで奔走しても、ただ、人間の滅亡をほんの少し先延ばしにし、より多くの苦しみを与えているだけなのではないか。

 時々、そんなことを考えてしまうようになった。


 私は、守護者だ。

 人間をとことん護り、未来永劫生き延びさせ、繁栄へと導くことが、私の責務だ。

 である以上、人間の滅亡を既定のことであるかのように考えるなど、言語道断。自らの存在意義を否定する、罰当たり極まりない考えだ。

 それは、重々分かっているつもりだ。

 そして……今までの自分の行動に、まったく後悔がない、ということも、紛れのない事実なのだ。

 だが……。

 それでも、ふと考えてしまう。

 私が守護者でなければよかったのに、などとな。

 

 お前は、なんだ?

 ただ見るために創造された「観察者」か?

 きっとそうなのだろうな。

 泥まみれで生きる者たちを上から眺め、ご注進するだけの飼い犬。

 言われたことをただ実行するしか能のない、愚かな操り人形でしかないくせに、自分は上位者だとおごり高ぶり、しかつめらしい顔で訳知り顔にうなずく、哀れな虚構の存在。

 お前は、私を馬鹿にしているのだろう?

 お前は、私を軽蔑しているのだろう?

 ああ、なにも言わなくていい。その顔を見ているだけで、お前の考えなど、手に取るように分かる。

 だがな。

 のうのうと存在しているお前に、人々のうめき声に込められた哀しみやつらさが、分かるのか?

 「傷つく」ということすら知らぬお前に、血の涙を流すほどの苦しみや、はらわたが千切れるほどの恨みを、感じ取れるのか?

 ……いや、いい。

 いくら言ったところで、すれ違うだけだ。

 お前は、かつての私のような、無知なるもの特有の傲慢さで、高次の存在に理解の及ばぬものなどないと、一点の曇りもなく信じ切っている。

 一方私は――痛みと、汚れと、醜さとを刻みつけることを選び「堕落した」ものとなった私は――高みから見た光景が、どれほどかすみ、薄れ、ぼんやりしたものとなっていたのか、身をもって知っている。

 愚かなものよ。醜い私を存分に哀れみ、笑うがいい。

 どれほどさげすまれたところで、私は、今の私であることをやめはしない。どれほど私が私でなくなっていこうとも、このまま、とことんまで、私はやり続ける。

 観察者よ。私は、お前がうらやましい。

 無垢で、高貴で、尊大なお前が。私を嘲笑できるお前が。

 私はもはや、お前のようなものには戻れない。戻る気もない。

 存分に私を笑うがいい。

 そして、飽きるまで笑ったら、去れ。

 私の邪魔はするな。私には、やるべきことがある。

 つらくなどない。ただ、やらねばならぬことをやる。

 そうだ。つらい、などという弱音を吐いている暇はない。

 私は、守護者なのだから……。


 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-


 ……思い出すだに、散々な言われようだと思う。

 だが、それも仕方ない。

 彼女からすれば、俺は正しく「無表情で傲慢ないけ好かないやつ」だろうから。

 もちろん、好きでそんなふうに振る舞ったわけじゃない。

 彼女は俺をどのような存在だと見なしているのか、正確なところは分からないが、少なくとも、俺を視認していることは間違いない……それが分かった時点で、俺は、なんとかして彼女と意思疎通をはかろうと、頑張った。

 ところが、だめなんだ。

 話しかけようとすれば、気管の奥がぺっしゃんこになり――幽霊も、一応気管で呼吸のようなことをしているらしい――全く声が出せなくなってしまう。

 身振りで意志を伝えようにも、腕が鉛のように重くなり、だらりと肩からぶら下がったまま、全く動かせない。

 それなら表情はどうだ、と思ったが、こちらも、顔中に局所麻酔でも打たれたんじゃないかってぐらい、ありとあらゆる表情筋が全く動かない。

 それでもどこか動くだろう、なにかできるだろうと、考えつく限り、体中のあらゆるところを動かそうとしてみた。だが、まるでだめ。指一本動かせないのはもちろんのこと、呼吸のリズムを変えたりもできないし、体を揺さぶったりもできない。目玉すら視線を一方向に固定されてしまうんだから……まさしくなんの手出しもできないんだ。

 幽霊だってのに、包帯でぐるぐる巻きにされたミイラ男にでもなった気分だった。

 そんなふうにして固まってる俺を見れば、「観察者」だのと誤解されても、まあ、仕方がないのだろうと思う。


 ……いや、誤解でもないのか。

 「現世」に生きる人たちについて、なんの手出しも口出しもできない存在なのだから、確かに俺は「観察者」であるのかもしれない。

 とすると、彼女が間違いなく誤解していたのは――なんだかおかしな言い方だな――俺が「飼い犬」ってことぐらいか。

 とはいえ、よくよく考えてみると、それも、彼女に誤解されても仕方のない話だ。

 この世に存在するありとあらゆるものは、何らかの形で、他のなにかと相互作用している。生物はもちろん、岩石や流水といった非生物も、生物のすみかとなったり、日光によって温められたり、風や木の根によって動かされたり、壊されたり、吸収されたりしてる。にもかかわらず、「幽霊」である俺は、ただ「現世」を眺め、ぼんやり考えを巡らせるだけ。「現世」に存在するありとあらゆるものから、ほとんど作用を受けることなく、与えることもできない。

 俺は、ものすごく希薄な存在なんだ。

 普通に「現世」でもがき、あがいて生きている彼女からすれば、俺のように存在意義の希薄な存在など、想像だにできず……だからこそ、俺を、「現世」以外の何者かに、見聞きしたことを報告する役割を持つ――相互作用するものだと見なしたに違いない。

 「現世」で生きて動いていた頃の俺が、今の俺のような存在を見れば、きっと彼女と同じように、なにかしら「存在意義」を持つものとして、考えようとしてたと思う(自分たちとかけ離れた「ただそこに在るだけの存在」が実在する、などと考えただけで、何やら不安でたまらなくなるからだ)。

 ……なんだか、考えれば考えるほど、気が滅入ってくるな。

 これほどまでに希薄な――希薄であるように形作られ、強制された「俺」は、本当に、なぜ存在している?なぜ存在を許されているんだ?


 俺と比べると、彼女は――俺は彼女のことを「少佐」と呼んでいる。本当はそのような階級ではないらしいのだが、将軍はじめ「現世」の人間たちが、みなそのように呼んでいるのに倣ったのだ――確かに「地に足をつけて」存在している。

 いや、「現世」に生きる誰であろうと、俺なんかと比べれば、しっかりと、疑いようもなく確実に存在しているのだが……ことに少佐は――彼女の告白を信じるのであるならば――元はどちらかというと希薄な存在であったのを、あえて人間(じんかん)に交じり、誰よりも大きな存在感を発揮して、「現世」にどっかり腰を据えている。

 それは、おそらく彼女の醜さ――罪悪感の巨大さのせいだ。

 実際、少佐の醜さときたら、えげつない。

 つぶれた片目は、肉が盛り上がったま固まってしまい、赤黒いアザのようになってしまっている。医療が衰退し、先端技術などどこにもなくなってしまっているから、形成手術で傷跡をましなものにすることができないのは分かる。けれど、せめて眼帯をして隠すなりすればいいのに、彼女はその傷跡を、あえて露出したままにしている。

 両頬には、度重なる自傷による傷が、縦にも横にも何回か、刻まれている。そのせいで、碁盤の目のようになった頬の肉が、ある箇所では赤黒く、ある箇所では灰色に変色し、顔全体が腐ってカビの生えた柑橘類のようになってしまっている。

 頭も念入りに傷つけたせいで、至る所で髪が抜け落ち、素肌が露出。半分千切れた耳は、あえて縫い合わせていないため、下半分がぷらぷらと力なく揺れている。その上、制服を脱げば、全身がケロイドと、そのやけどの上からのナイフ傷とに覆われ尽くしている。

 さらには、常に傷の痛みに苦しんでいるせいか、常にしかめっ面。傷のせいで、左の眉だけが引き上がり、つぶれていない方の目は常にかっと見開かれ、血管が白目の上をのたくっているのが見て取れる。かみしめた口から漏れ聞こえる声は、まるで墓場からよみがえった老婆が発するような、しわがれ声だ。

 正直言って、正視するのが困難なほどの醜悪さ、凄惨さなんだ。

 そこまで自らの姿を醜く変形させ、毎夜毎夜、苦悩に責めさいなまれ……それでも彼女は、なお、自らに課された責任を果たすため、冷酷無比な為政者、処刑人であり続けようとする。

 おそらく、そのことが、少佐を、誰よりも「ひと」たらしめているのだと思う。

 彼女は俺を「うらやましい」といったが……俺は、むしろ、そこまで深く「現世」を思い、人に関わり続けようとする彼女を、ひどく尊く――そして妬ましく感じるのだ。



     4

 幽霊になってこの方、多くの人間に召喚され、恨み辛みやはかない希望、泣き言なんかを否応なく聞かされてきたが、それで一つ、気づいたことがある。

 「現世」にくだらない悩みなどない、ということだ。

 いや、もちろん、少佐のように自らの責任を自覚し、それを何とか全うしようとあがくことから生まれる深い悩みと、将軍のように、とにかく自分が死ぬことを恐れ、なんとか生き残ろうと惨めにあがくことから生じる悩みとでは、その高貴さの点で、天と地の差がある。が……それはあくまで、俺のような「観察者」目線で悩みを判断するから、そう感じるだけ。当人にとって、それが深刻な問題であることは、どちらの悩みでも変わりはないんだ。

 幽霊になる前、俺が生きていた頃の「現世」では、いじめを苦にして自ら命を絶つ中高生が、かなりの数存在した。

 クラスの全員から無視されたり、陰で嘲笑されたり、持ち物を隠されたり、いたずらされたり、ネットの掲示板を悪口を書き込まれたり……そういったことで心が折れてしまったのだ。それと今の、寒風の中、廃墟のような建物で身を寄せ合い、毎日毎日過酷な労働で体を酷使し、それでも食うや食わずの生活をするのがやっと、少しでもいい生活をしようと思えば、弱いものを陥れて奪い取るよりほか方法がない、という苛烈な状況と比べると、なんと甘っちょろい悩みなのかと思われてくる。

 だが、よくよく考えてみると、「(端から見ると、軽い)嫌がらせをされた」ことであろうと、「飢え死にしそうだから、弱いものから食べ物を奪い取る」ことであろうと、引き起こされる結果――一人の命を奪う、もしくは弱らせる――は、どちらも変わりない。

 どちらも人命のかかった、深刻な結果を引き起こす以上、それらの悩みは、同じように深刻で、そして危険なものなのだ。

 結局、悩みの重さは、その悩みを抱える本人が、どれほど深くその悩みに浸食されているか、によって決まる。第三者が――ましてや俺のような希薄な存在が――軽々しく評価していいものではない……いつの間にか俺は、そんなふうに考えるようになっていたのだ。

 そのことに気づいたきっかけは、ある女性の元に召喚され、その悩みを聞かされたことだった。

 先に言ってしまうが、その子は「慈母」と呼ばれていた。

 行政府によって厳しく管理されている一般の人々に交じって働き、困っているものには手を差し伸べ、弱いものには食事を分け、病気のものはかいがいしく看病し、そしてさらには、荒んだ男たちの欲望から若い娘を守るため、自ら進んで体を与えてさえいた(俺が呼ばれたのは、たいがい、そういった男たちの獣欲に、蹂躙され尽くした直後のことだった)。

 彼女は「慈母」という呼び名以外の名称――「名前」を持っていないか、あるいはあったとしても、誰も知らないようだった。そして、俺の姿をはっきり視認することができ、存在を意識した上で、はっきり俺に話しかけてきた。さらに言うと、彼女が打ち明ける話の内容は、どうにも現実離れしているというか……ふつうの「人間」が抱くような悩み事とは、どこか一線を画したものであるように思われた――むろん、それは彼女が精神を病み、誇大な妄想を抱いているせいかもしれない、けれどその「妄想」の内容は首尾一貫しており、単なる妄想だとは、俺には思えないもので……。

 ――とまあ、こんな風に並べ立てるとすぐに分かるだろうけど、「慈母」は、少佐と共通しているところが、すごく多かった。

 それもそのはず、選んだ生き方こそ正反対だったけれど、少佐と慈母は、どうも血縁――血を分けた姉妹のようなんだ……。


 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ 


 ああああああああ……バカ!

 本っ当にバカ!

 どうしようもないバカばっかり!ああ、もう、本っ当にいやんなる! 

 子供に食わせるものがないだって?自業自得だろ、バカ!てめえの肉でも削いで食わせとけ!

 体が満足に動かない?ツケが回ったな、ざまあみろ!そのまま惨めに這いずって、野垂れ死ね!

 寒くて寒くて凍えそうだ?身から出たさびってんだよ、そういうのは!いいからそのまま黙って凍えて死ね、バカ!

 ニタニタ笑いながらきたねえケツ振って、終わった後も長々人の上に乗っかってんじゃねえ、早漏のチンカス野郎が!女も女だ、人がヤられてる時、そばにも寄ってこねえくせに、野郎が立ち去ってから、いかにも心配してました、ってめそめそしながら寄ってくんじゃねえよ!あたしを生け贄に、てめえだけは助かっておいて、なにが「大丈夫ですか?」だ!虫唾が走るんだよ!

 あああああああっ!もう、やってやれるか!なんであたしがこんな、こんな目に遭わなくちゃならねえんだ!

 周りがバカばっかりのせいで、とんだとばっちりだよ!

 あああああああああああああっ!

 ……分かってるんだよ、そんなバカを見捨てられねえ、このあたしが一番のバカだってな!

 ああああああああああああああああああっ!ちくしょう!


 言ったんだぜ、あたしは、姉さんたちにさ!

「こんな下らねえ世界はさっさと見捨てちまおう」って。

 けど、全然聞きやがらねえ。どころか、

「こんな世界だからこそ、なんとかしないと」

 だとさ。

 はっ!だったらこうなる前に、さっさと動いとけっていうんだよ!あたしに任せっきりで、遊びほうけてたくせに!

 何回も何回も何回も、嫌んなるぐらい繰り返し言ったよな、このままじゃ、いずれどうしようもなくなる、詰んじまうって。なのに「心配性ね」「大丈夫よ、人間はしたたかだから」「信じて、様子を見ましょう」とか、耳障りのいいことばっかり抜かして、なあんにもしやがらなかった。

 あたしがあちこち調整して、バランス取って、教え導いて、時には滅亡させてって、あくせくあくせく動き回って、一人で面倒見てる間、優雅にお茶会なんぞ開いてばかりだったくせに、こうなった途端、なんとかしなくちゃって慌てふためき、バカなことばかりやらかしてる。

 遅いんだよ、今更!

 ずっとずっとこの世界の秩序を保ってきたのは「裁定者」たるあたしさ。だからはっきり分かる。

 ここは、もうだめだ。終わってる。今更どうしようもない。

 なにをどういじったところで、一度決まった流れは動かせない。だったら、いっそきれいに浄化しちまった方が、よほどすっきりするじゃねえか。

 もうすでに滅びかかってるんだから、構うこたねえ、害虫めいた醜い生物なんぞ、全て浄化して、もう一度一からやり直せばいいんだ。その方が手間暇かかんねえし、今までの経験を活かして、ちっとはましな世界を作れるはず……そう言ったんだよ。

 そしたら。

 やつら、「ものの道理が分かっていない、困った子ね」みたいな、いかにも甘ったるい笑顔を浮かべて、

「そういうわけにはいかないわよ。責任があるのだもの」とか抜かしやがる。

「始めてしまったものは、最後まで責任を取らないといけないの」とか、噛んで含めるように言いやがる。

 冗談じゃねえ!今の今まで、責任をほったらかしていたのは、どこのどいつだよ!

 自分らにとって都合の悪いことはなかったことにして、正論を吐いたら子供扱い!そんなにあたしのやることなすこと気に入らねえのかよ!

 馬鹿にしやがって!いつまでも、子供扱いするんじゃねえよ……!


 分かってんだ。

 姉さんのやつ、あんだけ自慢してた姿形を、今、自分で無残に切り刻んで、それが自分の贖罪だ、みたいなこと考えてやがるんだろうけど。

 あんなの、はっきり言って自分に酔ってるだけだ。バカもいいとこだよ。

 自分も同じように傷つける?だからなんだってんだ。自分が傷つけば、処刑した相手が反省するとでも?するわけねえよな、相手は処刑されて、死んじまってるんだから。

 自分も同じように痛みを抱える?抱えたからって、なんになるってんだ。死んだ相手の痛みを共有?できるかよ!

 「死の恐怖」を知らない存在が、どうして死ぬ瞬間の人間を理解できる?ふざけんな! 不死の存在が、自分の存在意義を継続させるためだけに、人間を次々ぶち殺し、その罪悪感に耐えかねて、「ああ、あたしも同じ痛みを味わうわ」って、うっとりしながら自分を傷つける、ただのドMの変態女じゃねえか!

 それで責任を取ってるつもりなんだぜ?あきれ果てて言葉も出ねえよ!

 

 責任を取るって、そういうことじゃねえだろ。

 こんなことになっちまって、まことに申し訳ございません、全ては導き方を誤った、あたしたちのせいです、本当に本当にごめんなさい、って誠心誠意謝って、失敗作を全て消滅させるとともに、出来損ないの自分たちも、一緒に消えてなくなる。それこそ、全ての責任を取るってことじゃねえのかよ。

 「裁定者」の職務は、決められたルールに(のっと)り、ある存在の行動が「正しい」か「正しくない」か決定し、正しくない行動には相応の罰則を与えることだ。

 この世界の根本ルールはただ一つ。「産めよ、増やせよ、地に満てよ」。簡単に言やあ、人口をどんどん増やせ、ってことだ。

 といっても、ただめくら滅法にボコボコ子供を産み続けりゃ、あっという間に資源もエネルギーも使い尽くし、せっかく増えた人間が激減する。そうならねえように、文明を、産業を発展させ、知識を増やし、自然のご機嫌を取りながら、秩序だてて人口を増やしていかなきゃいけねえ。

 導く側は、細心の注意のもと、慎重に慎重にバランスを取って、少しずつ事を運ばなきゃいけねえんだ。

 それを……姉さんは「これぐらいなら大丈夫」「この方が、きっと面白いから」なんて興味本位の勢いだけで、バランスをぶっ壊すようなものを、どんどん導入させていった。どれだけあたしが必死で止めても「いいからいいから」と全く言うことを聞かず、暴走にも近い形で、どんどん発展を進めていきやがったんだ。

 あ……いや、、それだけだと、一方的に姉さんばかりが悪いことに聞こえるけど、そうじゃねえ。

 止めきれなかったあたしだって、同罪だ。

 つうか、あたしもその当時は、「しょうがないわねえ」「もう、どうしてそんなことするのよ」なんて文句を言うふりをしながら、どっかで姉さんのやることを面白がってた。ルールでがんじがらめの、四角四面の世界じゃ面白くない、はみ出すやつがいて、そいつらがあれこれ無茶なことをするから、世界は豊かになる、そんなふうに世界に「遊び」を作っていくのも、大事なことだと思っていたんだ。

 それに……姉さんを信用してたし、姉さんのこと、やっぱり好きだった、っつうのもあるだろうな。まさかあの女が、全く考えなしに、思いつきだけでいろいろやらかしてるなんて、思ってもいなかったんだ。

 そのせいで、こうなった。こうなっちまった。

 結論は、はっきりしてる。

 あたしたちは、有罪だ。

 全ての責任を背負って、出来そこのないのクズな世界とともに、きれいさっぱり消えてしまうべきなんだ。

 

 そうでもしないと……姉さん、際限なく自分を傷つけ、どんどん変わり果てた姿になっていってしまう。あの、美しくて、蠱惑的で、気まぐれで、謎に満ちた「女」そのものだった姉さんが……。


 っと。そんなこたあどうでもいいんだ。

 自分を自分たらしめていた「美しさ」を捨てちまった、バケモノ女。

 自分を自分たらしめていた明快さ、誠実さをなくし、欺瞞に満ちた行動や下卑た言葉遣いの鎧をかぶらないといけなくなった、バカモノ女。

 そんな奴らは、端から存在しなかったほうがましだった、つうことさ。

 無から生まれてきた不要物を無に帰す。ただ、それだけのこった。

 たいしたことじゃねえ。

 さっさと、けりをつけて、安らかに眠ればいいんだ。

 親子揃って、みんな安らかにな……。


 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


 話が錯綜してて、よく分からないんだが、結局彼女の悩みの大きな部分を占めているのは「家族に自分を分かってもらえない・認めてもらえない」ってことなんじゃないかと思う。

 その悩みを軸に、家族への愛情やら、自分への嫌悪感やら、責任感やら罪悪感やら同情やら反感やらが、ぐっちゃぐっちゃに入り混じって、わけが分からないままにどんどん暴走してる……そんな気がするんだ。

 なんだよ、いろいろぐちゃぐちゃ言ってるけど、結局は、自分が寂しいとか、嫌だとか、そういうことだろ?たいした悩みじゃないよ――と断罪してしまうのは簡単だ。けれど、きっとそうじゃない。本人にとっては、それが、それこそが「たいした悩み」だから、抱え込み、ひねくり回し、肥大させ、打ちひしがれてしまうんだ。

 さっきも言ったが、悩みの重さは、その内容とは関係なく、どれだけ深く、その悩みに浸食されているかによって決まる。その観点からすると、彼女――「慈母」は、かなりギリギリのところまで追い詰められ、押しつぶされそうになっているんじゃないかと思う。

 こんな時、幽霊であることは、ひどくもどかしい。

 「慈母」の抱えている悩みは、重くて、つらいものなのかもしれない。けれど、その悩みをともに抱え、解きほぐしていくことで、少しはその重さを減らすことができるもののように、俺には思える。自分一人で抱えているときには、到底解決不可能に思えていても、誰かに話すことで――ああすればいい、こうすればいいと訳知り顔での忠告ではなく、共感しながらの雑談めいた話し合いの中で――新しい視点に気がつき、重さがすうっと軽くなったり、重さは変わらなくても、形が変化して、以前よりも格段に抱えやすくなったりすることがある――少なくともその可能性がある――そういった種類の悩みであるように思える。

 地下にあるバーの薄暗い片隅や、電気を消した部屋、ディスプレイだけがぼわっと光る中、初めて会った相手となんとなく会話が始まり……それまで当たり障りのないことばかり話していたのが、急にふっと話が途切れたとき。隠していた傷跡をそっと見せるかのように、心の奥からしかめっ面で取り出し、厳重にくるんでいた包みから取り出して、ぼそぼそと始まる話。言葉少なな相づちと、真顔と、後はほんの少しの共感だけあれば、それで十分、救われたように思える種類の悩み。

 生前、俺も、そういう悩みを打ち明け、何回か救われた。たまたま出会った名も知らぬ人や、普段とはまるで違った横顔を見せる友人、後輩から、そういう話をされた経験もある。だから……その、ほんの少しの「共感」を表す何らかの方法さえ許されるならば、生前「考えるより行動」の脳筋野郎だった俺でも、話し相手ぐらい、どうにか務まるんじゃないか――こうして、ただあちこちさまよい、「現世」の焼けつくような現実を、ただ指をくわえて眺めるしかない俺にも、多少は何らかの貢献が可能なんじゃないか、って思えるんだ。

 「現世」は、俺が生きていた頃に比べて、厳しい、残酷な世界だ。

 食糧は乏しく、物資は不足し、すみかもままならず、いくら働いても、見返りは少ない。何をしても報われることの少ない生活を強いられるため、人の心はどんどん荒み、他人の窮状を心配する気持ちに代わって、それを喜び、促進しようとする気持ちが、行動が支配的になる(か細い高木の上に実るわずかな果実を手に入れるために、自分より上にいる仲間の尻に噛みつき、指を引っぺがして木から引き剥がそうとする哀れなサルのように、「ライバル」となる他人を追い落とし、たたきのめすことができれば、その分自分の暮らしがよりよいものになる――そんな幻想にとらわれているのだと思う)。

 こういう世界では、他人に弱みを見せることなど、もってのほか。すぐその弱みにつけ込まれ、ほじくられ、つつき回されて、引きずり落とされる。皆がその恐怖感を常に抱いているせいで、「弱さ」の告白も、悩みを打ち明けることもできない。せめて、犬だの猫だのといった、身近にいて寄り添ってくれる存在がいれば、多少なりとも心癒やされるのだろうが、極限まで生活が厳しい「現世」では、ペットを飼う余裕など、どこにもない。地べたを這い回る昆虫さえ、見つかり次第貴重なタンパク源として、誰かの腹の中に収まる世界で、「なんの役にも立たない」「ただそばにいるだけ」の動物が生きる余地など、針の穴ほども存在しないのだ。

 生きて世界をさまようのと、死んで幽冥界をさまようのとで大差がない場所で、それでもなんとか、疲れ切った心と体を奮い起こし、頼れるのはただ自分一人だと、ただ命をつなぐために、のろのろと歩き続ける……そんな生活を強いられ、恨み辛みや悩み苦しみを、ひたすら自分の中に積み上げ続けている者たちが、俺のような、いるのかいないのか判然としないぐらい希薄な、ただぼんやりとたたずむだけの存在を――生活の心配などなにひとつする必要がなく、ただただ世界を見下ろしているだけの存在を見れば……たまりにたまった心の(おり)を、思い切りぶつけたいと思うのも当然だ。

 ドロドロに腐り果てた、脳髄まで突き抜けるような嫌なにおいを放つ、どす黒い廃棄物を投げ捨てるのに都合のいい、ポリバケツ。それが、幽霊である俺の別名だ。

 いや、その役割に不服があるわけじゃない。

 何の因果かしらないが、こんな時代に、こんな半端な存在として配置されてしまった以上、甘んじてその役割に徹しようと、務めるつもりだ。

 だが……もどかしい。せめて一言なりとも、俺の思いを伝えることさえできれば……。



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