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幽霊は一人たたずむ  作者: 柴野独楽
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 思い込みや先入観、希望的観測を排し、ひたすらリアルに、筋道立てて考えてみると、「幽霊」というのは、実にうさんくさい存在だ。

 「確かに見える」と言い張る人間がいるかと思えば、「なんとなくだけど、いるのは分かる」とちょっと考えこみながら告白する人間もいる。そうかと思えば、「全く見えもしないし感じもしない」と困惑する人間もいる。

 生物として同じ種に属し、五感にそれほどの差異はないはずなのに、なぜこうまで感知力に差が生じるのか。この点からして、まずうさんくさい。

 「見える」という人に話を聞いても、その見え方は様々だ。

 生きてる人間と全く同じような存在として見える。ただ、壁や扉を突き抜けるから生者ではないと分かる、という人がいる。壁や扉を突き抜けるなら、なぜ床を突き抜け、地面にめりこまないのか。そもそも物体を突き抜けるなら、重力にとらえられて地球の中心に地縛されてしまうか、あるいは、地球すらもすり抜けて、遙か宇宙の果てへと旅立つことになるのではないのか。

 また、半透明な、向こう側が透けて見えるような存在として見える、という人もいる。それなら、立体映像のようなものなのかもしれない。が、もし映像なら、触れても何一つ影響を与えることはできないはずだ。なのになぜだか、幽霊に触れると「ひやりと冷たい」感じがするという。光学映像に触れているのだから、温かく感じるのなら分かるが、冷たいなんてあり得ない。

 なんとなく人間のような形はしているが、まばゆく輝いていたり、ぼんやり光っていたりで、はっきりした形は分からない、という人もいる。ちょっと待て。その「輝いたり」「光ったり」するエネルギーは、どこから供給されてるんだ?幽霊って、飲み食いしないんじゃなかったか?それに、その光源はなんなんだ?電球?発光ダイオード?それともあれか、ホタルのように、体内で発光物質を作り出しているのか?それも、全身が光り輝くぐらい、超大量に?その原料はどこから供給している?重ねていうけど、幽霊って飲み食いしないんじゃなかったっけ?

 これだけでも十分うさんくさいのに、飲み食いしない――つまりエネルギー摂取しないくせに、どこからかエネルギーを手に入れ、好き勝手動き回ることができたり、壁や扉を通り抜けて出現できるだけでなく、なぜだかいきなりその場にふうっと出現したり(その前どこにいたんだ?)、すうっと消えてしまったり(ステルス装置でも装備してるのか?)、存在の異相や次元がずれた、ただ感知することだけが可能な存在なのかと思いきや、「うらめしや」と聞き取り可能な声でつぶやいてみたり、摩訶不思議な力――念力?――を発揮して、ターゲットを病気にしたり、取り殺してみたり(ひょっとして、幽霊って病原体なのか?)。

 考えれば考えるほど、なんて矛盾に満ちた、つじつまの合わない存在なのかとあきれ果ててしまう。やはり幽霊とは、単なる想像上の存在であり、実在しないのだと断言してしまいたくなる――俺自身がその「幽霊」ってやつでさえなければ。


 全くもう、一体どうして俺が、「幽霊」などといううさんくさい存在になり果ててしまったのか、自分でもさっぱりわけが分からない。

 幽霊ってやつは、一般に、誰かに深い恨みを抱いているとか、逆に、誰か気になって仕方がない人がいるとかで、この世に執着が残っている人間が、「恨み晴らさでおくべきか」「魂魄この世にとどまりて」って感じで、成仏できずになるものだったはずだ。

 ところが、どれほど考えてみても、俺には、そんな深い執着なんかなかった。

 生前の俺は消防士で、日夜火災現場に出向き、消火活動をしていた。

 30歳を超えてはいたが、独身で、早くに両親を亡くし、兄弟もいない。過去には恋人だっていたし、中には婚約寸前までいった人も、二人ほどいる。けれど、タイミングが悪かったり、両親がいないってことで相手のご両親に反対されたりで、結婚まではいかず、別れてしまった。そりゃ、その時はショックで、相手をちょっとだけ恨んだりもした。けれど、それも何年も前の話で、自分の中ではとっくに整理がついている(その後で、何人かの女の子とお付き合いしてたし)。しかも、死ぬ前の数年は、階級が上がって、部下を数人指導する立場になったこともあり、恋愛沙汰そのものからさえ、かなり遠のいていた。

 両親が俺に残してくれた遺産といえば、都心にある古びたマンションの一室だけ。俺一人が生活するには不自由ない広さで、住み心地も、職場へのアクセスもよかったんで、両親には感謝してる。けど、とてもじゃないが、「心残りがするほどの財産」なんて呼べるものじゃない。

 趣味は、筋トレとジョギング、読書、DVD鑑賞、料理ぐらい。だから「命より大事なコレクション」とか「死後、誰にも見せたくない黒歴史的ななにか」もなし(そりゃ、いい年こいた男の一人暮らしだから、ベッドマットレスの下やパソコンのハードディスクの中には、できれば人に見られたくない「あはん」な本や画像はあったけど……高校生じゃあるまいし、そんなものに執着したりなんて、さすがにない……ないと思いたい)。

 隠し子もいなければ、生き別れの双子の兄もいない。日々、目の前に現れる仕事に全力投球し、オフの日にはジムで汗を流し、自分で作った料理に一人舌鼓を打ちながら、マンションで好きなアクション映画を見たり、小説に没頭し、日付が変わる頃にはベッドに倒れ込んで、明朝まで気を失ったように眠る。そういう、ごくごく単純だけど充実した生活のどこに、後々幽霊化するような動機が潜んでいたのか……我ながら、さっぱり分からない。

 さらに言うなら、実のところ、俺は本当に死んだのかどうかさえ、はっきり分からない。

 生前の最後の記憶は、はっきりしている。

 その日、俺は防護服を身につけた上にボンベを背負い、酸素マスクを背負った完全装備で、ちらちらと灰の舞い落ちる街を走り回っていた。

 緊張状態にあった大国同士が最後の一線を越え、そのとばっちりで我が国も否応なく惨禍の渦に巻き込まれて……街中の人々が、地下深くや遙か遠い土地へと避難し終わった後の、がらんとした街をまわり、逃げ遅れたりした人がいないか、最終確認をしていたところだった(公務員は、こういう「いざ」って時、どうしたって貧乏くじを引かなきゃならないものだ)。

 割り当てられた区域を一通り見て回り、誰もいないことを確認した後で、それじゃあ自分もそろそろ避難所へ向かわないと、と、車を停めていた広場に向かうと、あろうことか、そこに老婆が――酸素マスクどころか、防護服すら身につけず、身一つで――ベンチに座ってたんだ。

 ――な、一体どこにいたんだ、エリアの隅から隅まで探したのに!いや、それよりも大変だ、この灰の中、あんな格好じゃ二分と保たない、今すぐに救助しないと!

 俺は、重たい防護服を着込んでいる人間としては精一杯の速度で、どたりどたりとばあさんに向かって走り寄った……ところで、記憶がぷつんと途切れている。

 で、次に気がついたら、もうすでに幽霊になっていた、というわけ。

 後からよくよく考えてみると、いくらなんでも、あんな灰の降る中、生身の婆さんがのんきにベンチに座り、目を細めて空を眺めながら、一升瓶片手に茶碗酒を食らってる、なんて荒唐無稽な話、あるはずがない。きっと、俺の装備のどれかに不備があって、意識が混濁し、そのせいで見た幻覚かなにかだろうと思う。

 現実の俺は、おそらく、灰に犯されて、意識が徐々にもうろうとし、そのまま地面に倒れ……事切れたのだ。

 それならそれで、好きな仕事を最後まで全うし、思い残すことなどなにもない、晴れ晴れとした最期だったはずなのに……ああ、もう、どうしてこんな、幽霊なんかになっちまったのか。全くもって、納得がいかない。


 今更グチグチ言ったところで、なってしまったものはどうしようもないんだから、ここは、そろそろ気持ちを入れ替えて、現在の「幽霊」という立場を楽しむことにしてみたら?考えようによっては――例のアニメの主題歌じゃないけど――死なないし、病気にもならない、食べる必要も寝る必要もなく、仕事や義務にとらわれることもない。どこでも行けるし、なんでもできる。やりたい放題じゃないか……もしも、この世界にカウンセラー的な人間がいたら、ぐちぐち不満を垂れ流す俺に、そんなことを言ってきそうな気もする。

 けれど、これは、実に的外れなアドバイスだ。

 というのも……なってみて初めて分かったんだが、「幽霊」って、思いのほか、不自由な存在なのだ。

 確かに幽霊は――これから先どうなるかは分からないが、今のところは――食べなくても死なないし、体が弱ったり、病気にもならない。今現在俺が「存在」しているのは、起こってはならないはずの災厄が起こり、降ってはならないはずの灰が降り積もってしまった後の――おそらくは、数年、十数年後の――世界で、人々は日々困苦にあえぎながら毎日毎日をやっとの思いで生きている。だから、彼らからすれば、(多分)不老不死、病気知らずで怪我すらしない体になった俺は、生きるための苦労をなにひとつ味あわずにすむ、実に幸運な、うらやましい男、ということになるのかもしれない。

 しかし……しかしだ。

 怪我をしない代わり、自分を含めたあらゆる物体に触れることはできない(というか、触ろうとしても、あらゆる物体を突き抜けてしまう)。だから当然、触覚も、痛覚もない。手頃な大きさの石をもてあそび、その形やほどよい重さを楽しむこともできないし、柔らかいタオルで顔をゴシゴシとこする爽快さを味わうこともできない。もちろん、柔らかく張りのある乳房をそっと揉みしだくこともできない。ついでに言うと、物体だけでなく、あらゆるエネルギーも、「俺」という存在を透過するらしく、日光を浴びても暖かさを感じず、せせらぎの中に手を突っ込んでも、冷たくもなければ流れの圧力を感じることもない。

 食べなくても死なない代わり、食欲も味覚も嗅覚も、喉の渇きも満腹感も感じない。炎天下で肉体を酷使した後、休憩時間に飲み干す水のうまさを感じることもできないし、くたくたに疲れ果てて家に帰り着いた後、食卓に並ぶ夕食の匂いによだれを垂らすこともなければ、熱々のご飯を口に運んだ時の、えもいわれぬ幸福感に酔うことも、俺には未来永劫許されない。

 俺にできるのは、周囲の事物や人々を眺め……そして、考えることだけだ。

 ならば、せめてこの世の美しいものだけ眺めさせてくれればいいのに、実のところ、それすら許されない。というのも、「幽霊」は、かなり限られた場所にしか出現できないからだ。

 ある場所に強い執着を残して死んだ人間が、死後もそこから離れられず、その場所に住んだり、通りかかったりする人間に害をなす――そんな怪談を、生前、ネットか雑誌で読んだ覚えがある。そういう幽霊を「地縛霊」と呼ぶらしいが……俺の立場は、どうもそれに近い。

 といっても、俺が「縛られている」のは「場所」じゃない。

 人は、大きく分けて「幽霊を見られる」人、「感じられる」人、見えないし感じない(だから信じない)人の三つに分けられるが、このうち、「見える人」と「感じられる人」の周囲にしか、俺は出現できないようなのだ。

 さらに、時間的な制限もあり、出現できるのは、その「見える・感じる」人たちが、意識的にせよ、無意識にせよ、とにかく何らかの形で俺を必要とした時だけ。

 「見える・感じる」人はそもそも絶対数が非常に少ない――俺が把握しているだけで、両方合わせても10人に満たない――上、彼ら彼女らが、俺のようなうさんくさい存在を必要とするのは、心弱ったごく短い間だけ……ということで、俺が眺めることのできる事物は、否応なく、ごくごくわずかなもの――それも、誰かが、存在すらあやふやなものにすがらなくてはならないほどに追い詰められた、つらい、悲しい状況――に制限されてしまうのだ。

 しかも、さっき言った通り、俺ができるのは、見て、考えることだけ。つまり、俺は望んでもいない場面を一方的に、見させられ、聞かされるだけで、俺の方からは一切相手に働きかけることはできないんだ。

 ……っても、これだけじゃ、どういうことか、よく分からないだろうな。

 そうだな……ええと。

 例えば、「俺」を感じることができる(らしい)人物の一人に、年齢不詳の女がいる。

 彼女は、なんというか、特殊な雰囲気を身にまとっている。といっても、美人じゃない。かわいくもない。むしろ、そういう美的基準から、遠くかけ離れたところ――その女性を一目見ただけで、人は皆、例外なく、不安になるような、落ち着きをなくしてしまうような……そういう意味で、特殊な感じの容貌をした女性なんだ。

 もちろん、そういう哀しい容貌に生まれついてしまったのは、彼女の責任じゃない。けれどまあ、今のように、世界の生存者全員の生活が限りなく厳しく、皆がギスギスと神経をささくれ立たせている状況では、彼女のような人間は、当然のように憎まれ、排斥されてしまう。世界には誰一人、彼女を守ろうとする者も、気にかける者もいない。

 しかも彼女、病気かなにかなのか、それとも元々体が弱いのか、人並みに働くことさえできない。彼女なりに一生懸命手を動かし、足を運ぼうとするんだけれど、どうしても人よりも遅く、鈍くなってしまう。そのせいで、食料をはじめ、手に入る物資は、せいぜい一人前の働き手の半分だけ。おかげで、幽鬼のように痩せ細り――実際、本物の幽霊である俺の半分程度の幅しかない――身につけている服も靴も、千切れてぼろぼろだ。冬の、冷たい風が吹きすさぶ夜も、ろくに火にすらあたらせてもらえず、冷たく湿った廃墟のような建物の隅で、もとゴミ袋だったビニールの切れ端や、ショッピングセンターの袋だった紙切れやらを、手当たり次第にかき集めては身にまとい、それでもこらえきれない寒さにぶるぶる震えながら、ひたすら夜が立ち去るのを身を縮めて待つ……そんな生活を送っている――送らざるを得ない。

 なのに、彼女は、一言も恨み言を吐かない。ま、それは、彼女がそもそも極端に無口なせいだから、なのかもしれない(なにせ、結構長いこと彼女の側にたたずんでいる、って言うのに、他人と話しているのはもちろん、独り言を言っているのさえ、聞いたことがないんだからな)。でもまあ、普通だったら、自分の責任でもないのに、ここまで悲惨な状況下にあって、それでも生きていかなきゃいけないってなったら、毎晩止めどなく世を呪う言葉を吐き続けでもしなきゃ、到底正気を保てないんじゃないかと思う(でなきゃ、とっくの昔に自ら命を絶ち、この世とおさらばしてはずだ)。

 ところが彼女は、泣き言一つ、恨み言一つ口にせず、ただじっと耐え、ひたすら身を低くして、ひっそり生きていこうと努力してる。このこと一つとっただけで、本当に彼女は尊敬に値する、立派な人間だと俺は思う。

 けど……まあ、中には、俺と意見を異にする者もいるんだ。

 そいつは、夕方、食料が分配され、人々が三々五々ねぐらにしている場所に散っていった頃、そうっと彼女の側に現れる。

 還暦過ぎたぐらいのじじいで、顔にはしわが一杯走ってるけど、それでも、彼女に比べりゃよっぽど立派な、恵まれた体をしてる。足腰だってしゃんとしてるし、体のどこにも具合の悪そうなところは見受けられない。身につけてるものも、そりゃこういったご時世だから、「パリッとのりのきいた新品のスーツ」なんてわけにはいかない。けれど、彼女が身にまとっている――というより、闇雲に体に巻き付けている――布の残骸よりは、よほど立派で、しっかりしたものばかりだ。

 にもかかわらず……このじじい、彼女にたかるんだ。

「お、いたいた、今日もここにいてくれたな。いやあ、助かる。すまんなあ、いつもいつも、こんなことをしてはいかんと思うのだが、どうしても我慢ができなくてな。いやあ、すまん。それもこれも、配給の量が少ないのがいかんのだよ。わしはもともと、よく食べる方でな、これっぽちの配給では、到底我慢できんのだ。いやあ、本当にすまん。お前さんには悪いと思っているんだ。けれどな、どうしても食欲を抑えることができん。これっぱかりでは、夜も眠れんのだよ。いやあ、ほんとうにすまんなあ……」

 眉間にしわを寄せ、形ばかりの哀しそうな顔を作り、くどくどと言い訳をしながら、このじじい、彼女のなけなしの食料の大半を、腕ずくで奪い取る。しかも、これだけあくどいことをしながら、

「すまんな、許してくれよ。わしとて、鬼でも悪魔でもない。本当はこんなことしたくはないのだよ。だから、ほれ、その気になればお前さんの分全てを奪うこともできるが、この通り、ちゃんとお前さんの分を残しているだろう?わしは、ただただ腹を空かせているだけで、本当は優しい男なのだ。な?だから、分かってくれるな?」

 などと言い訳する。自分の悪逆非道を受け止めようともせず、「ただ困窮し、やむを得ずちょっとした過ちを犯しただけの善人」であると、この上なく図々しく主張するんだ。

 もちろん、こんな詭弁では、彼女も、じじい本人すらも納得させることはできない。

 彼女自身は、納得しようがしまいが、ただじっと押し黙っているだけだから、じじいがどんな世迷い言を口にしようが、ある意味一緒。彼女の精神に、なんら変調は見受けられない。

 問題は、じじいの方だ。

 こいつ、自分の口にした言葉が、ひどく薄っぺらい、手前勝手な言い逃れに過ぎないことを、心のどこかで、きちんと理解してる。当然、心にしっかり罪悪感が根を張り……それはすぐに、大木へと成長する。

 そこへもって、彼女の沈黙だ。

 卑劣な上に小心なじじいは、彼女のその沈黙を、自分に対する無言の非難である、と理解する。痛いところをえぐられた、と感じたじじいは、自己のちっぽけなプライドを守るために、小さな火花を散らす。その火花は、心中の大木へと引火。たちまち、怒りと憎悪の業火となって、一面を赤く焼き焦がしていく。

「……なんだ、その顔は?わしを責めているのか?そうなんだな!あれほどわしが謝ったというのに、わしの気持ちを分かろうともしないのか!ふざけるな!」

 握りしめた右拳を、力任せに振り下ろし、じじいは女性の頬を殴りつける。いい年のじじいであるとはいえ、日々つらい仕事に従事しているせいか、まだまだ力は強い。そんな男が、自分より数十キロは体重が軽い人間の頬に、思いきり拳をたたきつけるんだ。

 当然、女性は、勢いよく吹っ飛んで倒れ込むことになる。

 それでも、じじいは手を休めない。

「女のくせに!わしを馬鹿にしやがって!わしはな、こう見えて部下には慕われていたんだ!仕事だってバリバリこなしていた!それを、貴様なぞになにが分かる!馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!……」

 「!」のところにさしかかるたび、倒れ込んだ女性に向かって思い切り蹴りを入れ、踏みつけ、蹴って、蹴って、蹴って……。しまいに、体中汗だく、肩で息をするまでに疲れ切ったところで、ようやくじじいは暴行を止める。

「まったく、女のくせに、ふざけたやつだ!ああもう、服がほこりまみれになったではないか!全く……」

 捨て台詞を残し、女性から取り上げた食料をしっかり懐に収めると、じじいはなおも、憤懣収まらず、といった様子で、ぷりぷりとその場を後にする。

 それから、数分……数十分ほど立ったところで、女はようやく、ゆっくりと身を起こす。

 女性の顔には、恨みも、憎しみもない。生まれてこの方、他人から疎まれ、嫌われて生きてきたせいか、それとも、ほぼ毎晩、同じように食料を奪われ、同じように理不尽な怒りをぶつけられ、殴られ蹴られているせいか……女性はおそらく「自分が虐げられるのは当然」と、もはや全てを諦めてしまっているんだ。

 彼女の顔に見受けられるのは、ただ、白茶けた哀しみのみ。

 やがて彼女は、手に残された食料をゆっくりと口に運ぶ。

 同時に、薄いまぶたを閉じ、

「うううううう……」

 わずかにうめき声とも、泣き声ともつかない、ひたすら哀しい声を出しながら、ゆっくり、ゆっくり、口の中の、ほんのわずかな食料を咀嚼し続けるんだ。

 俺は……幽霊の俺は、この一部始終を、ただ見ていることしかできない。

 俺は、特別善人ってわけじゃない。けど、生前消防士だったぐらいだから、それなりの正義感は持ち合わせているつもりだ。

 なんの罪もない、弱い人間が力尽くで食料を奪われ、理不尽に殴られているのを見れば、怒りもわきあがる。その勢いで、今まで何度「おい、やめろ!」だの「いい加減にしろ、クソジジイ!」だの「そんな真似をして、恥ずかしくないのか!」だの叫んだことか。

 けれど……俺の声は、残念がら、全く相手に届かない。ま、じじいはそもそも霊感らしきものを全く持ち合わせていないみたいなんで、俺の声が聞こえなくても当然なんだろうけど……。俺を召喚した当の本人である女さえ、俺がなにを叫ぼうと、完全無視。耳元で、あらん限りの大声を出しても、こちらを振り向きさえしないんだ。

 時々、何でもない時にいきなりおびえたように俺の方を振り向いたり、見えにくいものをすかし見るようにして、俺を注視したりするところを見ると、どうやら女は、俺の「気配」は感知してるようだ。加えて、俺には、女やじじいの姿形を見て取ることはもちろん、言ってることも、まさにその場に居合わせているかのように――いや、居合わせているんだけれどもさ――クリアに聞き取ることができる。

 なのに、俺の言葉だけが、ヤツらの耳に届かない。いや、届いているのかもしれないが、俺の体がヤツらの体をすり抜けるのと同様、跡形なく、きれいにすり抜けてしまうんだ。

 もちろん、いろいろやってみたさ。

 はじめは「伝え方」が悪いのか、と思った。幽霊になったから、生前とは違う方法で発声しないと伝わらないのかも、と考えたんだ。で、腹から息を出し、ミュージカル俳優のように朗々とメロディに乗せて「やめろ~~~!」と歌ってみたり、その逆に、耳元で声をひそめ「そんなことしてはだめだよ」とささやいてみたり。体の動きとの同調が大事なのかもと思って、お笑い芸人さながら、無駄に手足を動かしながら「ええ加減にせえよ、しかし!」と叫んでみたり、しまいには、もうやけくそ、デスボイスで「地獄に送ってやろうか~!」とシャウトしてみたり。

 でも、なにをどう工夫してもだめ。相手は一度たりとも、俺の声が耳に届いたそぶりを見せない。

 次に考えたのが「伝える内容」が間違っているんじゃないか、ってことだった。

 神と悪魔の契約か、仏と鬼との取り決めだかで、幽霊である俺が現世の存在に伝えられる情報は、制限されているのかもしれない、なんて考えたのさ。

 で、およそ考えつくあらゆる言葉を口にしてみた。幽霊としては定番の「うらめしや」「恨み晴らさでおくべきか」「なぜお前は生きている」「お前もこっちへ来い」などなどの「恨みを伝える」系にはじまり、「おはようございます」「いい天気ですね」「元気ですか!」とかの「あいさつ」系、「あー、それはないよね」「いやいや、どうも」「まいったなあ」などの「独り言」系、「がちょーん」「ごめんくさい」「ちょっとだけよ」などなどの一発ギャグ……果ては、「あでべろぶるかすけてぃ~」「ぐんどむらいたってんどう」「せけゆきらぼちゅわさいぐめくれんてらそ!」なんて、無意味な音を羅列してわめくことまでやってみた。

 けれど、どれもこれも、みんなだめだった。どんな内容を、どのような口調で、どんなイントネーションで話そうと、俺の言葉は決して誰にも届かない。ただ、無意味に周囲の空気を振動させ、むなしく消えていくだけだったんだ。

 つまり……俺は、現世のあらゆることについて関係を持つことのできない、ただの「観客」なんだよ。

 舞台上で、誰かがどれほどひどい目に遭っていても、文句一つ、その場に届けることはできない。相手に触れることもできないから、当然、止めることもできない。ただ、目の前の残酷や悲惨を目に焼き付けて、じっと見続けるだけの存在――それが「俺」なんだ。

 目の前で行われる全てのことはドラマのような作り事。自分とは全く関係のない、どこか遠い世界での出来事。どれほど気をもんだとしても、全くの徒労になるだけ、と割り切り、冷めた目で目の前の情景を流し見ればいい、と考えたこともあった。けれど……だめなんだ。

 目の前で引き起こされる情景は、この上なくリアルだし……それに、どういうわけだか、分かってしまうんだ。どんなものでもいいから、すがりつきたい、この苦しみを少しでも減らしてくれるであれば、なんでもいいから助けを乞いたい――一見無表情で、何事にも無関心なように見えるその裏で、相手がそんなふうに思っているってことが、どういうわけだか分かってしまうんだよ。

 にもかかわらず、俺には、なにもすることができない。

 相手の心の底からの悲鳴を感じ取りながら、ただ手をこまねいて、事態を呆然と眺めていることだけしか、俺にはできない。

 ほとほと、幽霊ってのは、不自由で……そして、つらい存在なんだ。



     2

 俺の存在を感知できる者の中には、俺に対して積極的に働きかけてくるやつもいる。というか、さっきの女のように、存在を感知するものの、関わろうとはしない人間の方が少数派で、ほとんどは、俺に働きかけ、あわよくば利用しようとする。

 最も多い利用法は「救いを乞う」こと。神仏のような「上位の存在」に、自らの罪や、つらい内面を告白することで救われようってやつは、いつの世にもかなりの数いる。その中にたまたま、俺を感知する能力を持った人間がいると「なにやらよく分からないけど、この世のものならぬものが私を見てくれている」ってんで、俺をその「上位存在」と勘違いしてしまうようだ。でもって、聞いてもいないことを、べらべらと俺に告解し、勝手に「許しを得られた」と勘違いして、すっきり、晴れ晴れした気分になる。

 これを聞かされるのも、結構へこむ。なんせ、それぞれが、本当に好き放題なことを言うからな。

 明らかに身から出たさび、自身で招き寄せた自業自得の結果じゃないか、ってことであっても、いや自分は悪くない、苦境に陥ったのは誰か人のせい、自分は巻き込まれただけ、って強弁するやつ。

 自分のやってしまったことについて、一見素直に反省し、心から「なにか」に慈悲を乞うているようだが、その実「告解をして罪を認める弱くて哀れな自分」に酔い、自己憐憫からの自己陶酔にふけっているやつ。

 ただただ自分の罪を吐き出して楽になりたいからと、自らの犯した残酷で汚くてえげつない行動の数々を、延々と告白し続けるやつ。

 中でも最低なのが、3パターン全てを網羅し、あの手この手で聞き手の――俺の精神をそぎ落としにかかるやつだ。

 まさかそんな、性根の腐った人間がいるはずない、なんて思うかもしれない。ところが、実在する。しかもそいつは、この世界――おっと、違うな――「俺が見ている現世」に生き残ったわずかばかりの人間たちの中で、最上位に君臨する立場にある。

 そいつは、皆から「将軍」って呼ばれてる。

 たくさんの配下を従え、武器兵器を独占し、往年の社会主義国家のような軍事独裁政権でもって、生き残った人間たちを厳しく統制している。行政府の決定に従わない者は死刑もしくは追放、行政府に対する不満を口にした者も、死刑もしくは追放。ろくに働かない者も死刑もしくは追放、それどころか、何らかのやむを得ない理由により、規定の労働をこなせない者も、死刑もしくは追放……もう少しバラエティに富んだ発想はできなかったのか、ってぐらい、何でもかんでも「死刑もしくは追放」なんだ。

 これだけ強圧的で冷徹な恐怖政治を行うんだから、将軍は、さぞ血も涙もない、打算的な合理主義者だろうと思いきや、これがそうでもない。それどころか、祈りの内容を聞いていると、混乱して矛盾した、どうしようもなく臆病で卑怯な男なんだ……。


  *:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:  


 あ、ああっ!ああっ!

 分かります、ええ、分かりますとも!

 いらっしゃいますね、そこにいらっしゃるのですね!

 ええ、ええ、見えなくとも感じるのです、わたくしの祈りの声を聞いてくださっていること、確かに分かるのです。

 ありがとうございます、今宵も、わたくしの祈りに、わたくしの訴えに耳を傾けてくださるのですね?ありがとうございます……!

 あの……それで、こうしてきていただけるということは、あなた様がわたくしに心をかけてくださっているということでございますね?でしたら、その……できましたら、もう少しだけ、わたくしに情けをかけていただくわけにはいきませんでしょうか?その、訴えを耳に入れるだけではなくて、その……一部でもかなえていただけませんでしょうか?

 ああっ!ああっ!図々しいことを申し上げてしまい、誠に申し訳ありません。ですが、お願いです、わたくし、もう限界なのです。わたくしの脆弱な魂では、これ以上、現状を耐え忍ぶことはできないのです!

 後生です、後生でございますから、わたくしを今の「指導者」という立場から解放してくださいまし!どうか、どうかお願いいたします!後生ですから……。

 

 そもそもわたくしは、指導者になれるような器ではないのです。

 世界がこうなる前、確かにわたくしは、少しは世間に知られた人間でした。

 多くの方々から尊敬され、それよりさらに多くの方々から賞賛され、熱い期待を寄せられたりしておりました。カリスマ、などと呼ばれたこともございます。女性の中には、わたくしがそばを通っただけで、頬を染め、潤んだ瞳で見つめる方もいらっしゃいました。しかし、それもこれも、全てはわたくしがフィギュアスケートの選手だったからでございます。

 さらに申せば、選手としてもわたくしの成績も、さほど群を抜いたものではありませんでした。

 そりゃまあ確かに、全国大会の常連ではありましたし、ファンの方々が一定数つくぐらいですから、実力がまるきりなかった、とは申しません。しかしながら、その全国大会で優勝できたことは、ほとんどございません。たいがい4位とか5位止まりで、時たま運がいいと、2位か3位にすべり込む、といった程度。ですから、国際大会での成績は推して知るべし、というところで、表彰台にさえ乗ったことがありません。

 周囲の方々は、わたくしのぱっとしない成績を、自分のことのように悔しがり、次の大会こそは優勝だ、大丈夫、それだけの力を持っている、後はひたすら努力すれば、絶対に勝てる、などとわたくしを鼓舞してくれました。わたくしは、それらの言葉にうなずきつつも、心中ではいつも、肩をすくめ、ため息をついておりました。

 トップの座に君臨する選手たちと、わたくしとの実力差は、それほどまでに歴然としていたのです。彼らは、目を見張るほど素晴らしい技術と高い表現力とを併せ持ち、ただ氷上に立つだけで観客全てを魅了するほどのカリスマ性を備えていました。わたくしとはまさに月とすっぽんです。周囲の方々の激励はありがたかったのですが、彼らとわたくしとの実力差は、そうそうのことで埋まるものではなく……埋めようと思えば、、毎日毎日を超人的な努力で塗りつぶし、しかもその上、寝る間を惜しんでさらに努力を積み重ねなければならないと、わたくし自身、はっきり分かっておりました。

 そして、実のところ、わたくしは、それほどの努力をして自己研鑽に励む気など、全くなかったのでございます。

 今のまま、それなりに努力し、それなりの成績を残せば、それなりに評価され、それなりの人気を得ることができる。競技を引退した後も、テレビに出演したり、アイスショーに出演したりで、安定した収入も得られる。もしここで無茶な努力をし、怪我などしようものなら、これから先の安定した将来が全て水の泡。そんなことをしてなんになる。ほどほどの実力に、ほどほどの人気。それを、長年キープすること。それでいいんだ……

 わたくしは、そのように考え、常に怠らず励み続けているようなふりをしながら、決して無理せず、ひたすら自己の安寧だけを心がけて、現役生活を終えたのです。

 はっきり申し上げてしまえば、わたくしはひたすら、自らの保身だけを考え、これまで生きてきたのです。ええ、ええ、わたくしは、利己主義者です。人のことより、自分のことの方が大事なのです。

 しかも、わたくしには、指導者として必要とされる知識や経験すらございません。それが当然です。世界がこのような悲惨な状況になる直前まで、わたくしは、ただただ氷の上をいかに優雅に滑り、いかに姿勢良く跳躍するか、ということのみにかまけ、それ以外のことなどまるで考えもしなかったのですから。

 わたくしには、この社会をどのように立て直すべきかなど、まるで分かりません。どうすれば人々に再び希望の光を宿せるのか、それも分かりません。この先の社会についての明確なビジョンなど、皆目見当もつきません。私に分かるのは、どうすれば最も美しい姿勢をキープしたまま氷上をスピンし、そこからジャンプにつなげられるのかとか、そういったことだけなのです。

 おわかりいただけますか?わたくしは、全くもって指導者に向かない人間なのです。他人のことなどどうでもいい、自分だけがそれなりに幸せに生きられれば、それで十分だと考える、器の小さい男なのです。

 それなのに……あの者たちは、わたくしをおいて指導者はいない、などと持ち上げては、無理矢理わたくしを祭り上げるのです!

 

 あの者たちとわたくしが出会ったのは、数年前のことでした。

 その頃わたくしは、着の身着のままで、廃墟と化した街をさまよい歩き、食べ物を――もっと正確に言えば、我慢すればなんとか食べられなくはないものを――がれきの中から掘り出し、命をつなぐ生活をしておりました。

 ご存じでいらっしゃいますか?冷たい風が吹きすさぶ中、靴も履かずにアスファルトの上を歩くと、一歩ごとに、足の裏から脳天まで、ずきん、ずきんと、どれほどの痛みが走るかを。

 ご存じでいらっしゃいますか?風よりもさらに冷たいコンクリートの大きなかけらを素手でかき分ける時、どれほど鋭いナイフとなって、ぼろぼろの指先を、さらに傷だらけにしていくかを。

 ご存じでいらっしゃいますか?そうまで1日苦労して、それでも食べられるものを見つけられず、ぼろを体に巻き付けて眠る時、どれほどうつろな音を立てて、体の中を風が吹き抜けていくかを。

 あの者たちが、わたくしのものへとやってきたのは、そんなどん底の生活を送っていた時でした。

 「あの日」以来お目にかかったことのない、清潔でかっちりした制服に身を包み、隙のない動作で立ちはだかる者たちを目にして、私は、どれほどおびえ、震えたことか。

 ですが、あの者たちは、わたくしに、思ってもみなかったことを言ったのです。

 一緒に来て、自分たちを手伝ってほしい。いや、むしろ自分たちを導いてほしい。

 自分たちは、あなたが――つまり、このわたくしが――必要だ。一緒に来て、自分たちに合流してくれれば、生活は保障する。この先決してひもじい思いも、寒い思いもすることはない。

 自分たちの申し出が気に入らなければ、断ってくれても構わない。その場合は、残念だが、次の候補者に話を持ちかけることになる。あなたは、この先も今と同じ生活を、心ゆくまで堪能してほしい。

 ……今この話を聞けば、もちろん、こんなの、あまりにうますぎる、うさんくさい、きっとなにか裏があるに違いないと、そう思うとは思います。ですが、先ほど申しましたように、当時のわたくしは、どん底のさらに底を、這いずるようにして毎日を過ごしていたのです。そのような者にとって、この話は、夢のように素晴らしい申し出としか思えませんでした。ええ、わたくしは、二つ返事で、あの者たちに同行することにしたのです。

 以来、わたくしは、あの者たちと同じ制服を――いいえ、あの者たちよりもさらに豪華で、さらにかっちりした制服を身にまとい、人々を統制する組織のリーダーとしての役割を果たしてきました。

 きしむ体にむち打って労働する人々に向かって、これまでの努力をねぎらい、献身を感謝し、さらなる躍進のためにますます奮闘するよう、叱咤激励しました。

 生活にうみ疲れた人々に向かって、境遇に同情し、不安を慰撫し、また明日より営々と働き続けるよう、誘導しました。

 そして、生活を乱し、人々を脅かした者どもに向かっては、情け容赦なく、苛烈な刑罰を与えました。

 そう……わたくしは、他の誰しもここまでうまくは演じられまい、というほどに、この上なく見事に「指導者」を演じ続けてきたのです。

 ですが……もう限界です。

 何度も申しますが、そもそもわたくしは、指導者になれる器ではないのです。

 ゴテゴテした飾りのぶら下がった、あの金ぴかの制服に身を包んだわたくしは、冷徹な頭脳と、強引なまでの行動力とを兼ね備えた、油断のならない独裁者であるかのように見えるのかもしれません。しかし、そばによってよくよく見れば、青白い頬と、黒々としたくまをを隠すため、入念な化粧を施していること、目は常に不安げに泳ぎ、指は常に細かく震えていることに、きっと皆、気づくと思います。

 金ぴかの服の中身は、ほとんどがハリボテ。実際の中身は、貧相で中身のない、政治も経済もなにひとつ分からない、単なるつまらない男なのです。

 わたくしは、部下たちが用意した原稿通りに演説を行い、部下たちの申し出通りに政策を発表し、部下の考えた通りの振り付けで忠実にダンスを行う、哀れな操り人形に過ぎないのです。

 なのに……人々は、わたくしを憎みます。

 わたくしが視線を向ければ、おびえたようにその顔を伏せるくせに、わたくしの視線が通り過ぎた途端、嫌らしい毒虫を見るような目で、私をにらみつける。

 わたくしが手を差し伸べれば、こびへつらうような笑みを浮かべ、その手を押し頂くようにして握るくせに、その場に背を向けるとすぐ、べっとりはりついた糞尿をこそげ落とすかのように、両手をごしごしと激しく服の裾でこすり、非難と軽蔑とが入り交じった目つきで、じっとわたくしをねめつけるのです。

 わたくしは単なる操り人形だというのに、人々は皆、まるでわたくしがこの世で一番の大悪人で、人々につらい生活を強いている張本人でもある、といわんばかりの、恨み、憎しみ、怒り、悪意で満ち満ちた視線を、背後から常に、わたくしに浴びせ続けるのです。

 以前、アスリートだったわたくしは、常に賞賛や感心といった、好意に満ちた目で見られていました。ところが、今では誰一人、わたくしに好意的な目を向けるものはありません。冷たく暗く、もしも視線に力があれば、間違いなく今頃は、ズタボロに引き裂かれて斃れているはず、と確信できるほどの強く鋭い視線に、絶え間なく刺し貫かれているのです。

 このままでは、きっとわたくしはいつか、死をも辞さない誰かによって、暗殺されてしまう。そうならないにしても、常に孤独で、人々の影におびえているせいで、きっとそのうち、精神がすり減り、心の均衡を失って……とんでもない失策をしでかすに違いありません。そうなったらもちろん、部下たちは、わたくしを切り捨て、わたくしを見殺しにする。そうに決まってます。

 どちらにしても、このままでは、わたくしの行き着く先は、死――それも、人々の手によって引き裂かれる、むごたらしい死しかありません。

 冗談じゃない!そんな、なぜわたくしがそのようなひどい目に遭わないといけないのですか!

 お願いです、わたくしをお救いください!

 わたくしは……わたくしは、怖い。

 わたくしは、殺されるのが怖くてたまらないのです。

 どうか何卒、今すぐわたくしを、今の立場からすくい上げてくださいまし!


 ……あ、とはいえ、以前の、食うや食わずの生活に戻るのは、さすがに少々つらすぎます。今まで人々の指導者として、粉骨砕身働いてきたのですから、それに見合う程度の余生を過ごさせてもらう権利はあると、わたくし、そう自負しております。

 ですから……そうですね、

 贅沢は申しません。寒さをしのげる快適な住まいに、朝昼晩と、三食満足のいく内容の食事が提供される。愛する妻と子供たちがいて、皆が健康で、愛と信頼で堅く結びつき、常に笑いが絶えない……「明日殺されるかも」という恐怖におびえず、毎日を安心して暮らすことのできる、そんな場所に、そんな世界に、わたくしを連れて行ってくださいまし!

 あっ!あっ!いくらこの世界に尽くしてきたとはいえ、これはやはり、欲張りすぎでしょうか!そ、それでしたら、あの、多少条件が悪くても構いません!ええ、ええ、家族全員が愛し合ってさえいれば、信頼はなくても構いません!ええ、全然構いません!ですから、わたくしを、ここではないどこかへ、どうか一刻も早く、お願いです、わたくしは怖いのです、毎日が、明日を迎えるのが、怖くて怖くてたまらないのです!どうか、どうか……。


 *:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:  


 将軍は、はじめこそスカウトされ、自らの意志に反して、独裁者となった。けれど、長くその役割を果たしているうち、のめり込み、どんどん積極的に、自ら進んで冷酷に、横暴に振る舞うようになっていった。食うや食わずの生活を送っている人民たちの上前をはね、自分に従わないやつは片っ端から死刑もしくは追放。そうやって、自分の帝国を維持し、快適で安楽な生活を送ってきた(俺自身が、自分の目でしっかりと確かめた事実だ)。

 生きもせず死にもせず、ただぼんやり漂っては「現世」を眺めているだけの――ある意味安楽な立場である俺には、将軍の行動の善悪を判定したり、裁いたりする権利は、おそらくない。

 けれど……これだけは言える。

 たとえ、誰かに強制され、しぶしぶ行ったことであろうと、自分が加担した以上、そこから生じる全ての反応なり反発なりは、自分に跳ね返ってくるものだと――しでかしてしまったことの尻拭いは、自分自身でしなければならないものだと――一人前の人間であるなら、覚悟し、背負わなければならないはずだ。

 将軍は、今までに少なくとも数百人の人間を――ある時は自らの手で直接、ある時は命令書にサインすることによって間接的に――殺してきた。もちろん、殺すには殺すだけの理由はあったのだろうと思う。が、殺された者の家族からすれば、たとえどのような事情があったにしろ、一方的に殺されてしまったことに対する恨み、憎しみ、わだかまりは、必ず残る。その、千人もの人間から向けられる負の感情を受け止め、背負い、飲み込むことこそ、将軍の果たすべき責務であるはずだ。

 にもかかわらず、将軍は、その祈りの中で常に、自分は悪くない、人を殺したのも自分の本意ではない、と責任から逃れようとする。強制されたのだ、仕方がなかったのだ、必死だったのだと、哀れな自分を強調し、他人にその罪をなすりつけようとする。なんという卑怯で、臆病な男なのだ……俺はずっと、そう思っていた。

 やつの哀れっぽい、言い訳めいた――そのくせ、妙に図々しい――祈りをくどくど聞かされている最中、ずっとイライラしてたまらなかった。

 だが。

 ある時ふと、気づいたんだ。

 確かに、「現世」において将軍が要求している「救い」は、この上なく贅沢で、図々しい願い事だ。けれど、少し前――俺がまだ幽霊となる前、生身の肉体を持って、両足でしっかり地面を踏みしめ生きていたあの世界では、彼の望みのほとんどは、当たり前にかなうものばかり。それどころか、将軍の前身が有名アスリートだったことを考えると、むしろ「謙虚な望み」とさえいえるかもしれない。確かに、家族全員が愛と信頼で結びついている、なんていう条件をクリアすることは、難しいかもしれない。が、それだって「当時であれば」家族全員の努力次第では、十分かなえることができるはず。それなりに周囲からの尊敬を受け、それなりの収入が見込める立場の将軍であれば、それこそ容易にかなえられるはずの「希望」だったのかもしれない。

 そんなふうに考えてみると……将軍は、単に過去の栄光にしがみつき、過去の生活に縛られている哀れな男に過ぎず、この上なく図々しいように思える願い事も、むしろ哀れで惨めな望みであるような気すらしてくる。

 もちろん、将軍は、自分の犯した行動の責任は背負うべきだ。そこは、決して外せない。けれど……もしも「現世」がこんなふうになりさえしなければ、将軍は、単にお気楽で家庭的なスポーツマンであり、人畜無害なまま、一生を過ごしたのかもしれない、と思うと、やつがなにかに祈り、すがりたくなる気持ちも、少しは分かるように思えてくる。

 まあ……「現世」の人間とは隔絶され、まるきりコミュニケーションできない「幽霊」である俺が、多少共感の念を持ったところで、なんの足しにもならないのだけれど。

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